21.救えぬ命。

 治療院の大広間エントランスにやってきた久遠は一瞬、戦場に足を踏み入れた錯覚におちいった。

 血の臭いと、怪我人の痛々しいうめき声が空間を支配していた。


 明確と異なるのは、必死に治療する医者たちの声や、薬品の匂い、そしてあちこちで浮かんでいる烽戈ふか球体の存在だった。


 そして久遠の心持ちも戦場にいるときとは異なる。

 探求者シーカーとして戦うときは、常に決死の覚悟を抱いているし、戦いの高揚が心の弱い部分を支えてくれていた。


 だが今は、それがない。傷ついた多くの人々。もしかしたらこれから死にゆくかも知れない名も知らぬ人々。彼らを前に、久遠は頭を殴られたような衝撃を受けた。


「セツナは軽傷者の治療を。クオンさんはその補佐をお願いします。何かあったらすぐに私に知らせなさい。いいわね?」


 師匠はそう言い残すと、足早に人混みに紛れていってしまった。


「久遠くん、私たちもいくよ」


 そう口にするセツナには、先ほどまでの触れるだけで崩れそうな弱さは見られなかった。久遠と初めて出会ったときのように、強い意志を秘めた眼差しで、彼女にとっての戦場を見据えている。

 そのことに久遠は安堵した。


 セツナの治療は、素人の久遠が見てもやはり飛び抜けていた。

 怪我人の容体は様々だ。切り傷や打撲に始まり、重度の火傷や、なかには烽戈ふか術による呪いを受けた者までいた。暴走したという呪授者がよほど多岐に渡る術使いだったようだ。


 そんな中で、獅子奮迅の働きだった。


 セツナの周りには金色の羽根が浮遊し、それらが治療に合わせて針や糸の形を模す。

 瞬時に怪我の状態を確認し、久遠には馴染みのない薬品を投与し、傷を縫い、あるいは烽戈ふか球体を操作することで呪いすら解いていく。


 医者にも様々なタイプがいる。

 それぞれが得意な烽戈ふか術で治療を行っているが、どうやら翼族フィングはセツナだけのようで、彼女の周りだけ神聖な雰囲気だった。


 セツナはすでに十人以上の治療を終えており、これほどの手際で治療しているのは、セツナの師匠を含めても何人もいないように見える。


(……余計な心配だったか?)


 師匠と対面したときの様子があまりにおかしかったから、正直なところ気が気でなかった久遠だが、そんな心配をよそに、セツナの集中力は治療を重ねるごとに研ぎ澄まされていくようだった。


 十三人目となる怪我人の、足の裂傷を縫い終わり、久遠がセツナへ抱いた不安など忘れて補佐に集中し始めたころ、ひときわ重傷の患者と出くわした。


 新たに運び込まれてきた男性で、顔の左半分に、セツナの右腕にあるような紋様がある。翼族フィング特有のものと知れたが、色が銀色だ。純粋な翼族フィングの紋様は金色のはずだった。


 そんな怪我人の身を縛るように、烽戈ふか印の帯が巻き付いていた。これは対象の動きを縛るための烽戈ふか術だ。


 翼族フィングの男を運び込んできた少年は、かなり取り乱している様子だ。


「暴走した呪授者です! 力を使い果たし、動きが鈍ったところで拘束しました! 心臓が動いてません……! ……お願いします。隊長を助けて下さい——!」


 口早にまくし立てた勢いで少年の目から涙が零れた。この少年は探求者シーカー、あるいはそれを志している者らしい。


 そして、通常の翼族フィングとは異なる容姿——銀色の紋様があることで察しはついていたが、この重症患者こそ烽戈ふか球体の検査では発見できない類いの呪授者だったようだ。


 久遠の目から見ても、男の命がもう長くないのは明白だった。


 暴走する男を止めようとした者もいたのだろう。身体のあちこちが傷ついていた。暴走した烽戈ふかが体内から身を焼いて悲惨な状態になっているはずだし、何より烽戈ふかの供給器官である心臓が止まったということは、持てる生命力全てを絞りだしたということだ


(——異端の証……)


 久遠は、男の顔に浮かぶ銀色の紋様から目が離せなかった。


 一族を象徴する部位が、異なった形状で生まれてくる者は稀にいる。それが吉報とされるか凶報とされるかは種族によってそれぞれだが、少なくとも久遠のような片角の鬼族オウガは忌避される存在だった。


 加えて、外見の異常が、呪授者であることを疑う要因となってからはそういった者たちの肩身はさらにせまくなっている。


 この翼族フィングの男もその一人だった。


 部下であるという少年の様子から察するに、人望ある隊長だったのだろう。それが突然、自我を失い、多くの人を巻き込みながら死んでゆくことになる。自身の死よりもよっぽど辛いはずだ。


(——内側から身体を焼かれる痛みに耐え、死ぬまで仲間を殺し続ける……。むごいことだ)


 久遠は他人事のように思った。


「おい、あんたは別の怪我人を診ろ。この子は俺が——」


 少年には悪いが、どう見ても助からない。ここで時間を奪われるわけにはいかなかった。セツナを必要としている怪我人はまだまだいるのだ。

 内心で男の冥福を祈りながら、少年に聞こえぬようセツナに話しかけた。何とか少年を諭す者が必要であり、それは医療技術を持たず、大した戦力になり得ない自分の役割と判断していた。


「——すぐに手術します」


 久遠は耳を疑った。


 唖然とする久遠をよそに、すでにセツナは男の治療を始めようとしていた。


「縛りはもう不要です。術を解いて下さい」

「は、はい! どうか……どうかッ、隊長を……!」

「大丈夫。かならず助けるわ」


 その断固とした言葉に少年は大いに希望を抱いたようだが、普段とはどこか違うセツナの空虚な声に、久遠はぞっとなった。胸騒ぎを覚えて、いてもたってもいられず足早に近づいた。


「悪いが治療の邪魔になる。君は外で待っていてくれるか?」


 久遠は努めて優しく少年に告げた。少年は残りたそうにしていたが、素直に従ってくれた。

 少年の姿が見えなくなったのを確認して、セツナの脇に膝をつく。


「もう心停止してるんだ。いくらあんたでも助けられない。言いにくいが……このままあの子に看取ってもらうのが最善だ」


 諭すように言った。


「心臓は止まったばかり。まだ間に合う。絶対に助ける」

「師匠にも軽傷者の治療をと言われただろう! 他の怪我人を助けろ……!」


 どこまでも頑なな態度に、思わず語気が荒くなった。同時に怪訝にも思った。何がここまでセツナを追い詰めるのだろうか。一瞬、この患者を見知っているのかとも思ったが、セツナは以前に翼族フィングの知人はもうヒト族界エル・ヒューマにいないと言っていたはずだ。


 出会ったときも那由を助けるかで意見が割れたが、あのときとは明確に状況が違う。このままでは、助かる見込みのない患者を診ている間に、他の救えるはずの患者を殺してしまうことになる。


 出会ったときもそうしたように、華奢な肩に手を置いて制止した。あの時は怜悧な眼差しが返ってきた。今回もそれを期待していた。だが今、目の前にいる彼女の目には、なんと涙が浮かんでいた。


 セツナの気質とは逆行する激情の念が溢れていくのを久遠は見た。


「うるさいっ! ほっといてよ! 私は絶対に、助けなきゃいけないの!」


 その悲鳴のような声は周りの喧騒にかき消されたが、久遠の耳には痛々しいほど届いている。


 久遠の制止を振り払ってセツナは治療を始めた。


 羽根をメスに変えて開胸。あっというまに心臓に到達している。

 そうしている間にも、他の羽根がいくつもの烽戈ふか術を発動し、滅菌や血流の操作を並行しているようだ。他にも薬品効果のある烽戈ふか印を編んで投与しているようで、素人目に見ても一人で行える量ではない。


 久遠はなおも止めようとしたが、セツナの鬼気迫る様子に阻まれた。

 先ほど取り乱していた者と同じとは思えないほどの指捌き、烽戈ふか捌きだった。


 露わになった心臓の烽戈ふか球体が可視化された。本来は綺麗な球状なのだが、歪に変形してしまい、あちこちの烽戈ふか印が破綻してしまっていた、烽戈ふかの光も微弱で死の淵にあるようにしか見えない。


 セツナは烽戈ふかの羽根で書き上げた烽戈ふか印を次々と烽戈ふか球体に注ぎ込んでいくが、歪な形状のまま波打つばかりで破綻が止まることはない。


 やがて、烽戈ふか球体の光が端から燃え上がり始めた。今まさに命が消えようとしている。


「お願いッ! 動いて! ——帰ってきてっ……!!」

 もはや為す術のないセツナは、心臓を直に握って圧迫させ蘇生を試みているが、意味はなかった。


 心臓烽戈ふか球体の最後の断片が燃え尽きようとしている。


「あ……」


 最後の最後で、少しだけ力強く燃え上がった烽戈ふかの光を、血だらけのセツナの手が掴もうとして、空を切った。


 セツナの白い頬を、ひと筋の涙が伝った。


 だらりと腕を下げて脱力したセツナが、今まさに亡くなった死者の顔を見つめた。そして力なく顔を上げる。今気付いたとでもいうように患者と医者たちが奮闘する周りの景色を眺めた。


 漂った視線はやがて、縋るように久遠を見たが、その目はどこか遠くを見ているようだった。


「いや……助けて。……兄さん」


 そう呟いたセツナは気を失って倒れた。

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