20.治療院にて。
†
セツナが勤務する治療院にいた。
学園の講義が入っていない久遠が、一日をどう過ごそうかと思案していたところ、
セツナとしては久遠を隊長に据えた医療隊のためにも、医療のことも知っておいて欲しいといった思惑なのだろう。
以前までの久遠ならにべもなく断って、鍛錬や
セツナの誘いに乗ったのもその延長に過ぎなかった。
なのに久遠が了承するやセツナは意外そうに目を丸め、すぐさま喜色満面になったもので、久遠はちくりと心が痛んだ。
未だ、セツナの志す医療隊に入る気など微塵もないのだ。
「私、午後から心臓手術の助手に入るんだけど……久遠くん、見学してみる?」
院内を案内したり、外来患者の対応をしながら隙を見ては医療
「心臓の
「うん! 合わせて外科的にも処置するけど、主に
久遠が興味を示したことが嬉しかったのだろう。セツナはいつもより幼い感じで食いついてきた。
「その患者、種族は?」
「
「そうか。……
心臓に限らず、全身にある
それは当然ながら種族によって異なるが、
「見学したいところだが、患者の承諾は取れているのか? というかあんた、そういう情報をペラペラと話してしまっていいのか」
セツナの仕事が一段落したところで訪れた治療院の食堂は、昼時を外していることもあって人がまばらだ。二人の話が聞こえるほど近くに人がいないとはいえ、そもそも久遠が部外者だった。
「それくらい弁えています。久遠くん以外には言わないから大丈夫よ。私、口は固いから。患者さんにはこれから聞いてみるわ」
なぜか得意げのセツナだが、久遠になら漏らしても大丈夫という判断がそもそも見当違いだった。呆れる久遠をよそにセツナは、片方の掌を内緒話するように口に添え、少し身を乗り出してきた。
「——ここだけの話、その
ついつられて身を乗り出した久遠の耳元で、さらなる個人情報を漏洩させるセツナだった。
「……そういうヤツは大抵、姉さんか那由が目当てだ。それか、俺の従兄弟の隊員が刀術の達人だから、
「ふぅん。そういうものなの? 私は久遠くんの臨機応変な戦い方がすごいと思うし、好きなんだけど」
セツナの開けっ広げな褒め言葉に、久遠はどう反応したいいのか分からなかった。
セツナはこういうことを本人を前にしても平気で口にする。
そしてそれは、ことごとくが彼女の本心から出た嘘偽りないものなのだ。
人たらしと言えばそうだが、良くも悪くも打算しないから、戦闘以外における隊員の管理や、時には
今後も同じように上手くいくとは久遠には思えないし、そういう意味でもセツナを見ているのにはハラハラさせられた。
「……まあ、その患者に一応聞いてみてくれ。快諾してくれたら見学させてもらうよ」
何だか徐々に医療の現場に踏み込んでいくようで油断ならないと思う久遠だが、それ以上に医療系の
自分の術に応用できることもあるだろう。それに自分や仲間の応急処置を戦場で行えるようになるのも悪くないことだと思った。
そこまで考えて、これまたセツナの思考に毒されていると自省する。
「油断も隙もないな……」
「ん? なにか言った?」
独り言だったのだが、食事を進めていたセツナは律儀に反応する。
何でもないと久遠が返すと、二人して食事に集中した。お互いに沈黙が気まずいということはなかった。
セツナは基本的におしゃべりが好きだが、相手が乗り気でないときは自然と自分も口数を減らす。そんなセツナが近くにいることに、久遠も最初は足元が浮き立つような違和感を覚えたものだが、それは嫌な感情ではなかったし、そんな不思議な感覚にも、朱桐の屋敷や、
(……せっかく
数多の種族が共に過ごす学園での生活も、シエルから学ぶ旅人族の
それが久遠の生き方であり、
そのためにも今日は
「なあ」
「うん?」
打てば響くような反応がある。それに心地よさを覚えていることに、クオン自身は気づいていない。
「
予備知識なしで見学するのも勿体ないから、ある程度把握しておこうという考えだった。
久遠の意図を察したセツナが、これまた嬉しげな顔になる。こういうときのセツナは一を聞くと十教えてくれるお節介でもあるのだが、今この場では久遠も望むところだった。
しかし、その先の会話も、予定していた剣族の手術すらも実現することはなかった。
『院内の医師全員に連絡します……!』
各部屋に備えられた拡声の
『まもなく多くの急患が運び込まれます。手の空いている医師は上長の指示のもと、治療に参加して下さい。繰り返します、手の空いている医師は上長の指示のもと、治療に参加して下さい!』
ただ事でない様子に、セツナの顔が緊張に引き締まった。
「ごめんなさい、久遠くん。私、行ってくるわ」
「俺も行こう。手伝えることがあるかもしれん」
久遠の申し出に、セツナが頷く。
二人して立ち上がり、足早にセツナの上司となる者の元へ向かった。
院内の廊下はすでに、慌ただしく行き交う医師や関係者たちで溢れかえっていた。無数の声の中からいくつか拾ってみると、大規模な事故が起こったらしいことが窺えた。その怪我人たちがこれからやってくる。
「師匠! 何があったんですか!?」
セツナは上司の執務室を訪れるや聞いた。この師匠と呼ばれた者こそ、セツナの直属の上司だった。
「待っていましたよ、セツナ。それとあなたは——」
「朱桐久遠だ。ここには偶然居合わせた。俺にもなにか手伝えることはあるだろうか? 力仕事か、単純な怪我の応急処置くらいなら可能だが……」
「……それは助かります。ひどく人手が足りなくなりそうですからね」
師匠の物言いは穏やかだった。落ち着いているクオンはともかく、やけに焦った様子のセツナを落ち着かせるための態度なのかもしれない。
「規模の大きい事故か何かありましたか?」
「事故……と言えばそうですね」
久遠が尋ねると、曖昧な返答があった。そして師匠は、補足するように続けた。
「呪授者が暴走しました」
その一言に久遠もセツナも思わず息を呑んだ。
ふいに片手が引っ張られるのを感じた。見るとセツナが華奢な指先でぎゅっと久遠の袖を握っている。
呪授者である久遠の心情を慮っての行動かと思ったが、どうやらそれだけではないようだった。心配無用と告げようと隣のセツナを見やって、久遠は固まった。
顔が真っ青だった。相変わらず久遠の袖を握ったまま、もう片方の手を握りしめて胸元にやっている。よく見ると、身体も小さく震えているようだ。
「おい、あんた……」
「——セツナ」
久遠が声をかけようとしたところへ、師匠の声が割って入った。反射的といった感じで、セツナは己を律するよう試みたようだが焼け石に水だった。
「セツナ。多くの患者の命がかかっています。奢りも謙遜も捨てて、ただ客観的に判断なさい。——今のあなたは戦えますか?」
それでセツナの目に決意の色が差した。
「もちろんです……!」
握っていた久遠の袖を離して、力強く言った。
未だ様子のおかしいセツナを品定めするように師匠は観察し、やがて頷いて見せた。
「現場では私の指示に従いなさい。行きますよ」
執務室を出て行くセツナに続こうとした久遠だが、
「朱桐さん」
押さえた声の師匠に背後から呼び止められてふり返った。
「もしセツナが使い物にならなくなったら、あなたが退かせて下さい」
「は? それはどういう……?」
「いずれわかります。……そうならないことを祈っていますけど」
話はこれまでとばかりに師匠も出ていってしまうものだから、久遠もそれに倣うほかなかった。
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