10. 入界。ヒト族界の街にて。
一瞬の暗転。
次の瞬間には景色が一変している。
殺風景な石造りの広間から打って変わって、蒼く幻想的な空間にいた。
深い湖の底から水面を見上げるような、仄かな光に満たされている。
水中に出たのではと本能的に息を止めたが、もちろん濡れたり溺れたりすることはなく、ちゃんと地面に足が着いていた。
(これが
「いきましょう、久遠くん。——あ、そうだ。害意を孕んだ
セツナの声が反響して聞こえた。耳からでなく、身体の内側に響くような不思議な音で、何だかこそばゆい。
「……そういう重要なことは前もって言っとくもんだ」
「ふふ、ごめんなさい。でもこの術、心の中の本質的な部分に作用するそうだから、どのみち一緒よ」
どうやらとんでもなく高度な
蒼い空間の一部に、一カ所だけ色彩の薄い部分がある。背後にある空間の光が透けているような色合いだ。どうやらあそこが出口らしく、セツナは迷うことなく進んでいく。
初めて訪れる地に対して抱く想いが、自分でもわからない。
少なくとも、そんなことを考えてしまう程度には特別なようだ。
久遠は淡々とセツナの背を追った。
‡
「ようこそ、
何とか冷静さを取り繕ってはいるが、内心は開き直りの境地にあって、どうやら久遠もそれに気付いているらしかった。
彼のじとりとした視線が痛い。
「これはこれは。ご丁寧にどうも」
隣を歩く久遠が素っ気なく言う。感情に乏しいから判断に迷うところだが、揶揄する響きがあるように感じられるのは考えすぎだろうか。
二人で肩を並べて歩いている。
「……無事に帰ってこれたわ」
「無事、ね」
久遠の言葉にはやはり含みがあった。
つい先ほどの出来事だ。
久遠は眉ひとつ動かさず粛々と従っていたが、セツナはこういった形式張った取り決め事があまり好きではない。
少し口頭でやり取りすれば済むのに、本当に必要なのかと思われるような書類に何枚もサインさせられるのだからたまったものではない。
それにセツナには一秒でも早く支部を離れなければならない理由があった。審査官の
しかし、恐れていた事態は起こった。
それほど広くない審査室。その木製のドアがノックもなしに開かれた。はたして、すらりとした体躯の女性が現れた。
セツナの姿を認めるや鋭い眼光で見据え、機械製の左手で後ろ手に出口を閉ざした。
セツナは、取り繕った笑みを浮かべるのが精一杯だった。
「まだ痛い……。師匠、なにも殴ることないのに」
じんじんと痛む後頭部を撫でながらセツナが言うと、隣を歩く久遠はいかにも呆れた様子だった。
「戦場で独断専行した挙げ句、そのまま
「言っておくけど師匠のゲンコツは痛いのよ? わざわざ義手の左手で殴るんだもの! ……まあ、師匠のおかげで、この程度の罰で済んでるんだけど」
「へぇ、あんたの減刑はあの人のおかげなのか。何者だ……?
「うん、もうこっちに来てからの方が長いらしいけど生まれも育ちも
先ほどからずっと、久遠は油断なく辺りに注意を払いながら歩いている。
確かに街ゆく人々の中には久遠に奇異の眼差しを向ける者もいるが、それは単に
稀に非認可の
そういった理由もあって、
「しかし
腰に差したままの和刀の柄をコンコンと指で叩きながら久遠が言った。
「……
「今ここが
「何よそれ……。朱桐家の皆さんはとてもよくしてくれたわよ?」
「あんたが会ったのは朱桐本家の中でも、とりわけ姉さんや那由を慕っているやつらだからな。姉さんと那由があんたを客として扱うから、それに倣っていただけにすぎない」
「嫌なこと聞いたわ……。千瀬さんに、お屋敷の外に出ちゃダメと言われてたけれど、そういうことね。……そういえば、お屋敷に行くまでに会った
「姉さんに厳命されてなかったら無事朱桐家に辿り着くこともできなかったろうよ。あんた、頭は良いのに馬鹿だよな。これからはもっと慎重に動くことだ」
ずいぶんな言いぐさだったが、久遠が不必要に他者を蔑んだりする人間ではないことくらい既にセツナは知っている。きっと久遠なりの気遣いなのだろう。
「大丈夫よ。これからそういう役割は久遠隊長が引き受けてくれるから」
何気なく言ってやった。どんな反応が返ってくるかちょっと楽しみだったのだが、久遠はちらりとこちらを見ただけで、戸惑うでも不機嫌になるでもなかった。
「ふん。いつまでそんなことを言ってられるか見ものだな」
「……久遠くんってさ、意外と意地悪だよね」
「意外でもないだろう。あんたは俺を買いかぶりすぎだ」
「あら残念ね。私、人を見る目はあるのよね」
本心から言ったのだが、久遠は探るような視線を寄越した。
「……遠くないうちに後悔することになるさ。そんなことより、これはどこへ向かっているんだ?」
「そんなことって、あなたね……。まあ今はいいか。時間あるし、ゆっくり口説くことにする」
まだまだ先は長そうだと嘆息した。
そして、気を取り直して行き先を告げる。
「ひとまず私の家に行くわ。紹介したい子がいるの」
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