10. 入界。ヒト族界の街にて。

 一瞬の暗転。

 次の瞬間には景色が一変している。


 殺風景な石造りの広間から打って変わって、蒼く幻想的な空間にいた。


 深い湖の底から水面を見上げるような、仄かな光に満たされている。

 水中に出たのではと本能的に息を止めたが、もちろん濡れたり溺れたりすることはなく、ちゃんと地面に足が着いていた。


(これがヒト族界エル・ヒューマ支部のゲートの間か。高度な烽戈ふか術だ。……旅人族ノマドか?)


 鬼族界エル・オウガゲート鬼族オウガの精鋭が守り番をしていたが、ここにはそういった者の姿が見えない。おそらくこの不思議な空間そのものが守り番なのだろう。


「いきましょう、久遠くん。——あ、そうだ。害意を孕んだ烽戈ふかは使わないでね。“蒼の審判”に縛られるか、最悪割かれてしまうから」


 セツナの声が反響して聞こえた。耳からでなく、身体の内側に響くような不思議な音で、何だかこそばゆい。


「……そういう重要なことは前もって言っとくもんだ」

「ふふ、ごめんなさい。でもこの術、心の中の本質的な部分に作用するそうだから、どのみち一緒よ」


 どうやらとんでもなく高度な烽戈ふか術のようだ。

 ヒト族ヒューマ烽戈ふか量も身体能力も極端に弱い一族だが、だからこそ他で補おうとする気骨がある。この空間の烽戈ふか術が旅人族ノマドのものであるなら、あの気むずかしい種を引き込んだことを賞賛すべきだし、もし研究の果てに生み出した独自の技術であるなら、それこそ驚愕に値した。


 蒼い空間の一部に、一カ所だけ色彩の薄い部分がある。背後にある空間の光が透けているような色合いだ。どうやらあそこが出口らしく、セツナは迷うことなく進んでいく。


 初めて訪れる地に対して抱く想いが、自分でもわからない。

 少なくとも、そんなことを考えてしまう程度には特別なようだ。


 久遠は淡々とセツナの背を追った。


 ‡


「ようこそ、ヒト族界エル・ヒューマへ」


 ヒト族界エル・ヒューマ支部を後にし、街へ出たところでセツナは言った。

 何とか冷静さを取り繕ってはいるが、内心は開き直りの境地にあって、どうやら久遠もそれに気付いているらしかった。


 彼のじとりとした視線が痛い。


「これはこれは。ご丁寧にどうも」


 隣を歩く久遠が素っ気なく言う。感情に乏しいから判断に迷うところだが、揶揄する響きがあるように感じられるのは考えすぎだろうか。


 二人で肩を並べて歩いている。


 ヒト族界エル・ヒューマの建造物は木材と石材を併せる複式建築テュードが主流だが、近年は他の種族が移住してきている影響で、様々な文化が入り混じる街の景観となっている。ヒト族界エル・ヒューマは初めてだという久遠も、しきりに周囲に興味を向けているようだ。


「……無事に帰ってこれたわ」

「無事、ね」


 久遠の言葉にはやはり含みがあった。


 つい先ほどの出来事だ。

 ゲートの間を出たセツナと久遠を待っていたのは、念入りな入界審査と書類手続きだった。


 久遠は眉ひとつ動かさず粛々と従っていたが、セツナはこういった形式張った取り決め事があまり好きではない。

 少し口頭でやり取りすれば済むのに、本当に必要なのかと思われるような書類に何枚もサインさせられるのだからたまったものではない。


 それにセツナには一秒でも早く支部を離れなければならない理由があった。審査官のヒト族ヒューマの青年があれこれ質問してくる間、セツナはずっと上の空で口が勝手に受け答えしている状態だった。


 しかし、恐れていた事態は起こった。

 それほど広くない審査室。その木製のドアがノックもなしに開かれた。はたして、すらりとした体躯の女性が現れた。

 セツナの姿を認めるや鋭い眼光で見据え、機械製の左手で後ろ手に出口を閉ざした。


 セツナは、取り繕った笑みを浮かべるのが精一杯だった。


「まだ痛い……。師匠、なにも殴ることないのに」


 じんじんと痛む後頭部を撫でながらセツナが言うと、隣を歩く久遠はいかにも呆れた様子だった。


「戦場で独断専行した挙げ句、そのまま鬼族界エル・オウガに転がり込み、帰ったかと思えば危険因子になりかねない男を引き連れている。……むしろなんで、あんな簡単な手続きと拳骨一つで野放しにされてるんだ、あんたは」

「言っておくけど師匠のゲンコツは痛いのよ? わざわざ義手の左手で殴るんだもの! ……まあ、師匠のおかげで、この程度の罰で済んでるんだけど」

「へぇ、あんたの減刑はあの人のおかげなのか。何者だ……? 機械族マキナだよな?」

「うん、もうこっちに来てからの方が長いらしいけど生まれも育ちも機械族界エル・マキナ。で、今はヒト族界エル・ヒューマの第一医療部隊隊長。神族デウスさまとも仲が良いから各方面に顔が利くのよ。……それと久遠くん、だれも貴方を危険因子なんて思ってないからね? そんなに警戒しなくても大丈夫。ヒト族ヒューマでない師匠が重職に立てるくらいには他の種族に寛容なんだから」


 先ほどからずっと、久遠は油断なく辺りに注意を払いながら歩いている。

 確かに街ゆく人々の中には久遠に奇異の眼差しを向ける者もいるが、それは単に鬼族オウガが物珍しいだけで、別に異邦人を排他しようとしているわけではない。


 ヒト族界エル・ヒューマに害となる入界者は、ゲートの間で蒼の審判によって捕らえられるか処分される。

 稀に非認可のゲートを使って入界してくる者もいるが、そんなことは滅多にない。あったとしてもそれはヒト族界エル・ヒューマ神族デウスが感知してくれるから大事に至ることもないのだ。三年ほど前も、街から離れた僻地でゲートを開いて不法入界してきた者がいたが、神族デウスの命令で予め派遣されていた探求者シーカーの精鋭部隊が難なく捕らえてしまった。


 そういった理由もあって、ヒト族界エル・ヒューマの住人は良くも悪くも他種族に対して忌避するところがなかった。


「しかしヒト族界エル・ヒューマ神族デウスは変わり者と聞いていたが、本当のようだな。大抵の神族デウスは数人の巫女を通してでしか、下々の者とやり取りしないらしいが……。それに、ここの住民も大概だ。俺みたいなやつが往来を歩いているのにまったく警戒しない」


 腰に差したままの和刀の柄をコンコンと指で叩きながら久遠が言った。


「……鬼族界エル・オウガはそんなに物騒なの?」

「今ここが鬼族界エル・オウガの街だとしたら、あんたは殺気を込めた視線で針のむしろだろうな」

「何よそれ……。朱桐家の皆さんはとてもよくしてくれたわよ?」

「あんたが会ったのは朱桐本家の中でも、とりわけ姉さんや那由を慕っているやつらだからな。姉さんと那由があんたを客として扱うから、それに倣っていただけにすぎない」

「嫌なこと聞いたわ……。千瀬さんに、お屋敷の外に出ちゃダメと言われてたけれど、そういうことね。……そういえば、お屋敷に行くまでに会った鬼族オウガの人たちは少し冷たかったような気もする」

「姉さんに厳命されてなかったら無事朱桐家に辿り着くこともできなかったろうよ。あんた、頭は良いのに馬鹿だよな。これからはもっと慎重に動くことだ」


 ずいぶんな言いぐさだったが、久遠が不必要に他者を蔑んだりする人間ではないことくらい既にセツナは知っている。きっと久遠なりの気遣いなのだろう。


「大丈夫よ。これからそういう役割は久遠隊長が引き受けてくれるから」


 何気なく言ってやった。どんな反応が返ってくるかちょっと楽しみだったのだが、久遠はちらりとこちらを見ただけで、戸惑うでも不機嫌になるでもなかった。


「ふん。いつまでそんなことを言ってられるか見ものだな」

「……久遠くんってさ、意外と意地悪だよね」

「意外でもないだろう。あんたは俺を買いかぶりすぎだ」

「あら残念ね。私、人を見る目はあるのよね」


 本心から言ったのだが、久遠は探るような視線を寄越した。


 「……遠くないうちに後悔することになるさ。そんなことより、これはどこへ向かっているんだ?」

「そんなことって、あなたね……。まあ今はいいか。時間あるし、ゆっくり口説くことにする」


 まだまだ先は長そうだと嘆息した。


 そして、気を取り直して行き先を告げる。


「ひとまず私の家に行くわ。紹介したい子がいるの」

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