9. 出立。待ち受けるものは……。

 観念してはいたが、いよいよ引き返せない所まできてしまったと久遠は実感していた。


 異邦人がよその世界に滞在できる時間は限られている。

 セツナの場合は探求者シーカーの世界間同盟による一時保護の扱いだったから、ヒト族界エル・ヒューマへの帰還が許されるまで、ひと月もかからなかった。


 探求者シーカー鬼族界エル・オウガ支部である和城に、鬼族オウガが保有するゲートの一つがある。


 がらんとした石造りの広間に、久遠はセツナと共にいた。

 千瀬と那由も同伴しており、他には烽戈符ふかふで顔を覆ったゲート守りが二人いるだけだ。


「セツナさん、絶対また来て下さいね! 久遠兄をお願いしますね……っ!」


 感極まった様子の那由が、右手でセツナの手を取って胸元に抱いた。

 左腕の袖は空洞でだらりと垂れていて、下手をすると憐憫の対象になりそうなものだが、那由の天性の無邪気さがそうさせなかった。


 セツナの方はされるがままで、自分より頭一つ分ほど低い那由の髪を優しげに撫でてやっている。


「いろいろありがとう、那由ちゃん。またきっと会えるわ。体を大切にね」


 どちらかと言えば慎ましい性格のセツナと、こちらは生まれ持った性分として天真爛漫な那由は意外にも意気投合した。那由にとっては命の恩人ということもあるが、このひと月、那由は事あるごとにセツナの側にいたがった。


 久遠としても片腕を失った妹が楽しそうにする姿に安堵したし、自分の客人である向きの強いセツナの相手を那由がしてくれるのは有難いことでもあった。


 しかし問題は、那由が久遠にも懐いていることにあった。


 那由はセツナと楽しげに話していても、通りすがる久遠の姿を見つけると、右腕を尻尾のように振って嬉しそうに呼び止めるのだ。

 打算がないぶん久遠も無下にすることができず、自然と三人でいる時間は増え、セツナともそれなりには話すようになっていた。


「久遠、しっかりやるのよ」


 一方の千瀬は冷静で、いつも通り感情を悟らせない様子で餞別の言葉を贈っている。端からは冷たい態度に見えるかもしれないが、激務の姉が、その合間を縫ってこの場に来てくれていることを知っている久遠は、どうにも申し訳ない気持ちになるのだった。


 とはいえ自分をヒト族界エル・ヒューマ送りにすることを決めた姉に対する恨めしい気持ちがあるのも確かだ。


「心配しなくても、すぐに帰ってくるよ」

「えぇ。待ってるわ」


 多分に嫌みを含んだつもりだったが、素っ気なく返されてしまった。


 面白くなくて小さく唇を尖らせていると、生温かい視線を感じた。見ると、那由に抱きつかれて、あやすようにその背中を叩いてやっているセツナだった。


 何だとばかりに久遠が睨むと、セツナはくすっと小さな笑みをこぼした。どうやら千瀬との会話を聞かれていたようだ。嫌な感じはしないが、これまた面白くない。


「……ゲートを開く烽戈ふかもタダじゃないんだ。行くならさっさといくぞ。那由、そろそろ解放してやれ」


 ぶすっとした感じで歩み寄って言うと、セツナの胸元から顔を出した那由は、今度は久遠に抱きついてきた。


「久遠兄も元気でねっ……! セツナさんに迷惑かけちゃダメだよ!」

「……迷惑してるのは俺なんだけどな」


 久遠は溜息をこぼしながら、先ほどセツナがしていたように、ぎゅうっと引っ付いてくる妹の頭を撫でてやる。こうしていると那由の片腕が失われたという事実が感触として実感させられて心苦しくもなる。

 一方でその温もりが腕の中にあることに、途方もない幸福の念も覚えるのだった。


 やがて名残惜しそうに那由が離れると、久遠とセツナはどちらともなくゲートへ向けて歩み出した。


「いってらっしゃい!」


 いよいよ泣き出しそうな那由の大きな声と、見守るような優しさの千瀬の視線を背中に受けながら、久遠はゲートの暗闇に足を踏み入れた。


 長年過ごした地を離れることに早くも郷愁めいたものを感じた。

 そんな感情が自分の中にあったのかと、嬉しいのか悲しいのか分からない迷子の心持ちだった。


(——ヒト族界エル・ヒューマ。俺のもう一つの故郷、か)

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