葉那編②:旧体育館

「さて、それじゃあさっそく入りますか! 鍵は……開いてるね。不用心だなあ」


 そうこうしているうちに僕たちは旧体育館の入り口に着いていた。もともとたいした距離ではないのだから当たり前だ。


「それじゃ、お邪魔しまーす……」


 葉那はおそるおそるといった様子でドアを押した。誰もいないだろうに律儀なことだと思いながら彼女の開けたドアの向こうを覗き込むと、意外にも人影があった。体育館の真ん中に黒いセーラー服を着た女子生徒が立っていたのだ。


 彼女はスカートをきっちりひざ丈にして、制服と同じ黒いタイツを着用していた。髪の毛も長い黒髪を二本の三つ編みにまとめており、日本人離れした白磁のような肌以外は、遠くから見ると本当に真っ黒だ。


「……あら?」


 女子生徒はこちらに気づいたらしく、とことことこちらに歩み寄ってくる。見慣れない生徒だが、夕陽にきらきらと輝く髪と瞳が印象的な人だった。


「どこかの委員会の人?」

「あ、いいえ! わたしたち、同好会の活動で、ここでちょっと調査を……」


 葉那が女子生徒の質問に答える形で、僕らの目的をあれこれと説明している。ひと通りの話を聞いた彼女は納得したように頷いた。


「そう。じゃあ、鍵はあなたたちに預けていくね。私は帰るから」


 そうして黒いセーラー服の彼女は旧体育館を出て行ってしまった。葉那は彼女の姿が見えなくなってからもしばらく入り口を見つめていた。


「あの制服って……?」


 遠くを見たまま尋ねる葉那に、僕は知っていることを答えた。


「ああ、うちの旧制服だよ。会長さんや吉田さんの代から今の制服に切り替わってさ。それで……」


 そこまで言ってから僕はあることに気づいた。それにあの人の格好、どこかで……。


「秋くん、こっちこっち。鏡、あったよ!」


 と、考えごとにふけり始めたタイミングで葉那が大きな声をあげた。僕はかぶりを振って、いつの間にか舞台袖に行ってしまってた葉那を追いかけることにした。薄暗く埃っぽい舞台袖で僕を待っていた彼女は、古ぼけた壁に据え付けられた姿見を指で指し示していた。好奇心できらめく彼女の目が先ほどのセーラー服の人と重なって見えた。


「ね、ふたり一緒に鏡を見たら、同じものが見えるのかな?」

「さあ……知らないけど」


 そんなことを言い合いながら僕らは姿見――『思い出鏡』に近づいていく。本当にこの古い備品が葉那が言うとおりの魔法の鏡なのだろうか。僕は疑いの気持ちを口に出さないようにしつつ、なるべく軽い調子で彼女に呼びかけた。


「葉那、一緒に見る?」

「やだよぉ。さすがに恥ずかしいもん」


 葉那は大げさに表情を崩して笑い飛ばす。

 彼女はそのまま一気に鏡に駆け寄ると、僕のほうを振り返って言った。


「秋くんはあっち向いてて。わたし、先に見ちゃうね!」


 そうして葉那は鏡の真正面に立ち、木製の縁に手をかけるように添えて――。


「…………え?」


 鏡を覗いた葉那はその場にへたり込んだ。僕は慌てて彼女に駆け寄ると、その細い肩を揺さぶった。ガタガタと震える彼女の目はみるみる光を失っていって、代わりに大粒の涙で満たされていった。


「なんで、なんでっ……!」

「葉那!」


 葉那に何が起こったのかまったく判らなかった。

 こんなに近くにいたのに、何も――。


 僕は顔を覆って泣き始めた彼女を抱えたままで目の前の鏡を見やる。一見ただの鏡に過ぎないそれは、僕を映した瞬間表面を波立たせた。


「! なんだこれ……!」


 魔法の鏡は実在した。

 にわかには信じられないことだったが、目の前の現実が僕にそれを突きつけていた。


 鏡面のざわめきが収まると、そこには僕と下を向いたままの葉那、そして僕のが映り込んでいるのが見えた。ああ、これはまぎれもない魔女の遺産、『思い出鏡』なんだ――そう信じざるを得ない光景だった。


 腕の中の葉那が小さく声をあげた。僕は鏡から目を離して彼女の言葉に耳を傾ける。


「助けて……」


 それは悲痛な訴えだった。


「助けて秋くん……。何にも、何にも見えないよお……!」


 僕には、泣きじゃくる葉那の背中をさすることしかできなかった。

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