葉那編③:ひとり

 葉那が落ち着くのを待ってから、僕たちは旧体育館を後にした。手近なベンチに座った葉那は、先に職員室まで鍵を返してくるように言った。彼女を残していくことに抵抗があったが、少しひとりになりたいという言外の訴えが見え隠れする以上、僕は彼女の言うことに従うしかなかった。


「あれ、秋。こんなとこでどうしたんだ?」


 用事を終えて職員室から戻るところに声をかけてきたのは咲也だった。彼はちょうど下校するようで、肩からは大きなリュックを提げている。咲也は振り返った僕の顔を見るなり、表情を引き締めた。


「……どうしたんだ?」


 僕はよほどひどい顔をしているのだろう。見なくても判る。

 今しがた起こった信じがたい出来事について話していいものか。少し迷ったが、僕は正直に打ち明けることにした。なぜなら相手が咲也だったからだ。


「葉那が」


 葉那の名前を出すと、少し上から僕を見下ろす咲也の顔がもう一段険しくなった。


「葉那が『思い出鏡』を見た。それで、大事な人が見えなかったらしくてショックを受けてる。少しひとりになりたいみたいだから僕はここにいるけど、今から戻る」


 鏡についての詳しい説明はしなかった。それでも彼はある程度の状況を察してくれたようで、しつこく事情を聞いてくるようなことはなかった。


 ただ。


「…………おまえは」


 咲也はひどく思い詰めた顔をして、僕に尋ねてきた。


「おまえには見えたのか、大事な人」

「うん、見えた。信じられないけど、見たかった人が見えた。思ったとおりの人がそこにいたんだ」


 つらそうだった。棘を抜いてやりたいと思った。咲也の棘も葉那の棘も残らず抜いてやりたいと思った。そうするために彼らにできることは、まず嘘をつかないことだった。こういうとき、耳にやさしいことを言ってもまったく喜ばないところは、咲也も葉那もよく似ていると思っている。


 僕はふたりの友達でありたい。

 そう思って本当のことを言った。

 咲也は拳を強く握りしめると、ただひと言だけを僕に残した。


「……そうか」


 僕から顔を背けた咲也は昇降口に向かって歩き出した。ただ、すれ違いざまに聞こえた彼の低い声が僕の耳に残り続けていた。


「あいつのこと、頼むな。……きっと、俺じゃだめだから」


 表情はうかがえない。彼の長い前髪が邪魔をしているからだ。 

 でも、咲也もきっとひどい顔をしているのだろう。見なくても判る。


「咲也……髪の毛、もっと短くすればいいのに」


 いつもはどうでもいい友達の髪型さえも、今はなんとなく気に入らない。


 僕はやるせなさに任せて自分の髪の毛を片手で乱した。ああ、こんなことをしている場合ではない。今は葉那のところに戻らなければ。自分で崩してしまった髪を最低限整えて、僕は彼女のところに急ぐことにした。


「――普通に怒ればいいじゃないか。本当は葉那をひとりにしたことが気に食わないくせに」


 昇降口と反対側に向かって歩きながら、誰に聞かせるわけでもなくつぶやいた。誰もいない廊下だが、僕の小さな声は反響するでもなく溶けていく。口からこぼれてしまえばもう何も残らない。まるで吐息と変わらなかった。


「……卑怯者。おまえも戦えよ。傷つけよ。ばかやろう」


 そして。

 絶対に反撃されないところから姿の見えない友達に向かって毒づく僕も、たいがい卑怯者だと思った。

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