第46話

 桶狭間おけはざま小林こばやし鏑木かぶらきを連れだって、コーポ東風はるかぜの103号室へ来ていた。


「……ワンルームと聞いていましたけど、意外と広いんですね」

 鏑木が感心したように部屋の中を見回している。


 部屋は十畳程だが、ものが極端に少ないので広々として見える。足の長いテーブルに椅子が二脚、あとはテレビ、パソコン、エアコンがあるくらいだ。


「鑑識に調べさせたが、室内に動物を飼っていた形跡はなかった。さて小林君、沼田ぬまたが見た蝙蝠こうもりとは何だったのか説明してくれ給え」


 小林は死体のあった位置に立って、天井を見上げている。


「まず先に結論から申し上げると、この事件はアリバイトリックが使われた殺人事件です」


「……アリバイトリック? ということは犯人は沼田ではなく、被害者の元恋人である相馬そうまということなのか?」


「犯人が誰かまではまだわかりませんが、鳴海なるみ愛莉あいりをよく知る人物であることは間違いありません。そして近頃この地域で頻発している空き巣の犯行に見せかけた。犯人にとって隣室の102号室に沼田が空き巣に入っていたことは幸運なようでいて、不幸な事故でした。何故なら沼田にを見られてしまったのですから」


「……それが蝙蝠だと?」


「ええ。私も一度でいいから、まだ発動する前のトリックにお目に掛かってみたいものです」

 小林はそう言って、うっとりとした表情を浮かべて目を細めている。


「んなこたァどうでもいい。で、蝙蝠って結局何のことだったんだよ?」

 鏑木が先を急かすように小林に言う。


「……ふん、情緒のわからん奴め。沼田が見た蝙蝠とは、この部屋で割れていたワイングラスのことだ」


「……ワイングラス?」

 桶狭間は思わず首を傾げる。


「小林君、悪いが私には君の言っている意味がよくわからない。どう見てもワイングラスは蝙蝠には見えないだろう。沼田は犯人に幻覚でも見せられていたのか?」


「ええ、警部の仰る通りです。普通はワイングラスは蝙蝠には見えない。ですが、それはテーブルの上にあると仮定した場合の話です。もし?」


「……天井にワイングラス?」


 桶狭間はその状況を想像してみる。が、上手くいかない。


「ワイングラスに溢れるくらいワインを入れた状態で、水平な天井に隙間なくピタリと押し当てる。すると天井とグラスの間に空気が入る隙間がなくなって、真空ができる。真空ができることでグラスの外の大気圧との気圧差が生まれて、ワイングラスが天井にくっついて落ちてこないという寸法です。ワイングラスが天井にくっついている状況なんて普通は考えられないことですから、沼田が天井に張り付いた赤いワイングラスを蝙蝠と見間違えたとしてもおかしくはありません」


「……ワインの入ったグラスが天井にねェ。うーん、そう説明されても今一つピンとこないが」

 桶狭間は腑に落ちない様子だ。


「吸盤が壁にくっつくのも原理的にはこれと同じです。火をかけた鍋の蓋が取れなくなった経験はありませんか? 実はあのときも鍋の中と外の気圧差で蓋が開かなくなっているのです。こうなるとちょっとやそっとじゃ蓋は開かなくなる」


「……それはいいが、それがどうアリバイトリックになるんだ?」

 今度は鏑木が質問する。


「トリック自体は単純だ。天井にくっついたワイングラスのプレートの部分にスーパーのレジ袋を引っかけておく。袋の中には肉や野菜が入っていて、それが重りになっているわけだ。時間が経ってワイングラスが天井から剥がれると、落下時に大きな音がするという寸法だ」


「じゃあ104号室の浪人生が聞いたガラスが割れる音というのは?」


「そう、ワイングラスが天井から落ちた音です。つまり、この音は事件とは直接関係ないということになります。もう一度鑑識に天井を調べさせればまだ証拠も残っているでしょう」


     〇 〇 〇


 桶狭間は小林と鏑木を帰らせたあと、もう真夜中だというのに103号室に部下の桜川さくらわが仲村なかむらを招集する。


「警部、どうかしましたか?」

「何かわかったんですか?」


 折角寝ていたところを起こされて欠伸あくびを嚙み殺す若手刑事二人を前に、桶狭間は開口一番こう言った。


「ああ。レジ袋の中の豚肉と野菜は、肉じゃがでもカレーでもシチューの材料でもなかった。アリバイ工作の材料だったのだ!!」

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