第45話

 桶狭間おけはざま啓司けいじ関内かんない駅から徒歩五分の雑居ビル4階にある、鏑木かぶらき探偵事務所を訪ねていた。


「これは警部」

 桶狭間を出迎えたのは探偵事務所所長の鏑木しゅんである。背は高いがひょろりとしていて、どこか頼りない印象の青年だ。今日は赤いジャージの上にブルージーンズという出で立ちだ。


「トイレでしたら玄関右の扉ですよ」


「……おおこりゃご親切にどうも、ってトイレを借りに来たんじゃないわい!」

 桶狭間はこめかみに青筋を立てて鏑木に怒鳴る。


「いやー、随分と慌てた様子だったので」

 鏑木は悪びれた様子もなくヘラヘラ笑っている。


「……ところで小林こばやし君はおらんのか?」


 桶狭間が用があるのは鏑木ではない。探偵事務所の助手である小林こえの方だ。


「お呼びですか、桶狭間警部」


 小林は机に脚を乗せて文庫本に視線を落としていた。

 背の低い、ベリー・ショートの髪のセーラー服の少女。これまでに幾つもの事件を解決してきた名探偵である。


「実は相談したいことがあってな」

 桶狭間は捜査機密など完全に無視して、少女探偵に事件の概要を伝える。


「……なるほど。警部は沼田が窓の外から見たという『蝙蝠こうもり』が事件の鍵になっていると考えているのですね?」


「ああ。小林君、君の意見が聞きたい。君はこの事件をどう思う?」


「ふむ。蝙蝠の謎に取り掛かる前に、事件現場におかしな点があります。まずはそちらを片付けるのが先でしょうね」


「おかしな点?」


「何故、割れたワイングラスの中にワインが入っていたのか、という点です」


「……ワイングラスにワインが入ってても別におかしくも何ともないじゃないか」

 それまで黙っていた鏑木が横から口を出す。


「…………」


 残念ながら桶狭間にも小林の指摘することの意味がわからない。ワイングラスにアマチャヅル茶が入っていたのなら兎も角、赤ワインが入っていても何もおかしなことではないと思う。


「そういう意味ではない。状況がおかしいと言っているんだ。被害者の鳴海なるみ愛梨あいりは部屋に戻ったところを、空き巣の常習犯である沼田と鉢合わせて殺された。この状況で、何故テーブルの上のワイングラスにワインが入っているんだ?」


「あ」

 そうか。空き巣犯の沼田が犯人だった場合、鳴海は自宅に帰ってきたところを襲われたことになる。そうなると、何故誰もいない部屋にワインの注がれたグラスがあったのかが不可解になってくる。


「……単に飲み残しなんじゃないか?」

 と鏑木。


「いや、現場の床には血溜まりのように赤ワインが零れていたという。つまり、グラスには相当の量のワインが入っていたことになる。これは明らかに不審な点だ」


「……うーむ、確かに」

 桶狭間は自らの注意力のなさに恥じ入った。しかし、今はそれどころではない。それが何を意味しているのかが重要なのだ。


「警部、ちなみに104号室の住人はいつも部屋にいるのではありませんか?」


「……ああ、104号室には浪人生が住んでいて、昼間はいつも部屋で勉強しているそうだが、何故それを君が知っているんだ?」


「なるほど。犯人は沼田ではありません。犯人は被害者と親しい人物、それも何度も部屋に行ったことのある人物でしょう。それから、蝙蝠の正体にも大凡おおよその見当が付いています」


 小林はニヤリと口角を上げて、不敵に笑った。

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