一歩踏み出す時




「ごちそうさまでした」


 食事を終えてひと段落したダリアはそう言って、席を立った。そして、ゴソゴソと通学鞄を漁ったかと思うと財布を手にしてユーマの元へと歩いてくる。



「あの、お会計をしたいのだけれど⋯⋯」



「僕がお誘いしたんですから、お代はございませんよ。それに、元々このカフェはお客様からお代を一切いただいておりません」



「えっ⋯⋯!?」


 信じられないという顔のダリアを前に、ユーマはにっこりと笑顔を作った。



「お帰りですか? では、お見送りいたしましょう」







✳︎✳︎✳︎







「ねえ、ずっと思っていたのだけど⋯⋯。貴方、初対面の時と随分話し方が違うわよね? なんか、いやに丁寧というか⋯⋯⋯⋯」



「ダリアさんはお客様なのですから当然です。⋯⋯お気に召しませんでしたか?」


 ユーマがわざとらしく困った顔をして見せると、ダリアはあからさまに狼狽うろたえる。


「そ、そういうわけじゃ⋯⋯。でも、同じくらいの年頃の人に敬語を使われるなんて、なんだかむずがゆいわ」



「ふふっ。同じくらいの年頃、か。⋯⋯ダリアさん、貴女の目に見えるものだけが真実とは限りませんよ?」


 そう言いながら、ユーマは人差し指をそっと唇に当てて妖しく微笑む。


「でも、そうですね⋯⋯。貴女が望むなら、堅苦しい言葉遣いは辞めましょう」



「え、ええ⋯⋯。お願いするわ」


 いやになまめかしい雰囲気で笑むユーマに、ダリアは頬をうっすらと染めて、視線を逸らしながら答えたのだった。





「それで、どう? 心は軽くなった?」



「⋯⋯おかげさまで。大分気持ちがすっきりしたわ!」



「ダリアさんの力になれたなら、良かった」



「あの時、貴方に声をかけてもらったおかげよ。こちらこそ、本当にありがとう」


 笑顔を見せたダリアはふうっと深く息を吐いてから口を開く。


「私⋯⋯気付いたの。私は私でしかないんだ、って。誰になんと言われようと、私は私よ。例え他人の影響を受けて今の私がいるとしても、それも全て、私が選んだ結果なの。⋯⋯きっと、大人になった私は今の私の悩みなんてちっぽけなものだと笑うでしょうね。でも、今の私にはそれが全て。だから全力で悩んで、もがいてみせるわ。⋯⋯いつか、心から笑える日が来るように⋯⋯⋯⋯」


 サアッと春風がダリアの頬を優しく撫ぜる。その光景は、まるでダリアの背中を押してくれているかのようだ。



「なんだか、吹っ切れたみたいだね?」



「ええ!」



「では、こちらお土産にどうぞ。もしも⋯⋯また、苦しくなったらいつでもおいで。夢のような時間をお約束しましょう。⋯⋯それでは、またのお越しをお待ちしております」


 土産用に包んだティラミスを差し出し、ユーマはぺこりとうやうやしく礼をする。

 ダリアは軽い足取りで石畳の街道を駆け、少ししたところでくるりと振り返って「またね」と言って笑った。







✳︎✳︎✳︎







 トーマの手に乗るころんとした小さな小さな球体。トーマの瞳と似た淡いパープル色の中には、黒や黄緑、白色が混ざっており、マーブル模様の複雑なそれはゆらゆらとトーマを誘惑するかのように揺らめいている。



(ここまで複雑な感情は久しぶりだ。⋯⋯これも、人間の思春期特有のものなのだろうか)


 昔の夢魔は質よりも量といった風潮で、怒りや悲しみ、幸福感など単純で単調な感情ばかりを狩っていた。しかし、今はその逆で狩りにはゆっくりと時間をかけ、厳選されたもののみをらう。



「これも時代の流れ、か⋯⋯⋯⋯」


 トーマはフッと自嘲じちょう気味な笑みを漏らした。




 鈍い輝きを放つ球体を心ゆくまで眺めた後、トーマはぱくりと一息にそれを口に放り込む。コロコロと舌の上で転がすと、口いっぱいに広がる濃厚な苦味。

 それはきっと、一部の人間が忌嫌けんきするコーヒーよりもずっとずっと苦いはずだとトーマは考える。



 孤独感や不安、苦しみ、悲しみ、そしてほんの少しの期待。それらが合わさって重厚なハーモニーを生み出していた。


 トーマは自室の大窓のへりに腰掛け、瞳を閉じてじっくりとそれらを味わう。1セント硬貨ほどの大きさだった球体は徐々にトーマの口内で小さく溶けていく。


 こんなにも難解で複雑な感情を持つことの出来る人間というものはもろく、哀れで、そして————



「⋯⋯⋯⋯美しい」


 ユーマはポツリと呟き、ゆっくりと瞳を開いた。

 月明かりに照らされたアメジストの瞳はキラキラと輝いて妖艶ようえんな光をまとっていた。







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