ティラミス:私を元気付けて



 ダリアという女学生の話を聴いて、トーマの頭に浮かんだのは“ティラミス”だった。

 

 ティラミスには、“私を元気付けて”————。そんな意味が込められている。

 人生に迷う、うら若き乙女にぴったりではないか。トーマはそう思った。


(本来は違った意味も含まれているんだが⋯⋯今回は言葉のままのストレートな意味合いで出すことにしよう)



 ティラミスは歴史的に比較的新しいスイーツで、バニラアイスクリームを作ろうとしたとある国のシェフがあやまって砂糖と卵が入ったボウルにマスカルポーネチーズを落としてしまったのが始まりだ。

 ビスコッティ・サヴォイアルディ(もろくて甘い軽い口溶けのビスケット菓子で別名貴婦人の指フィンガービスケットという)とマスカルポーネチーズを層にして重ねて、ココアパウダーをまぶしたものが一般的だが、アレンジ次第では抹茶やイチゴ、さつまいもなど様々な味のティラミスを作ることが出来る。




「さて、まずは下準備としてゼラチンをふやかし、濃いめのコーヒーをよく冷ましておく」


 そう言って、トーマは小さめの器に分量のゼラチンと水を入れ、ドリップコーヒーを氷水にあてる。


 下準備をした後、トーマは四角いガラスの容器にフィンガービスケットを敷き詰め、そこにハケでコーヒーシロップをたっぷりと染み込ませていく。表面がふやけるくらいがちょうど良い塩梅あんばいだ。


 次に、卵黄とグラニュー糖、水、さやから取り出したバニラビーンズをボウルに入れて湯煎ゆせんにかけながら素早く泡立てる。



「⋯⋯このくらいか」


 空気を多分に含んでふんわりとしたら湯煎からはずす。すると、湯気に紛れてふわりと優しいバニラの香りがトーマの鼻腔びこうをくすぐった。


 次に、そのボウルに溶かしたゼラチンを加え、ホイッパーで冷めるまで混ぜていく。

 そこに半量のマスカルポーネチーズを加えて、9分立て(ツノが立つくらいの固さ)にした生クリームを入れてさっくりと混ぜる。


「後は残った半量のマスカルポーネチーズを入れて、空気感をそこなわないようにさっくり混ぜれば生地の完成だ」


 トーマはふうっと息を吐く。ひたすらに混ぜるという力作業が多かったおかげか、心地よい疲労感がトーマを襲った。



「出来上がったマスカルポーネチーズの半量をコーヒーシロップを染み込ませたフィンガービスケットの上に流し入れる。さらに、その上にコーヒーシロップを染み込ませたビスケット、マスカルポーネチーズを流し入れる⋯⋯⋯⋯」



 ガラスの容器の中には、下から順にフィンガービスケット、マスカルポーネチーズ、フィンガービスケット、マスカルポーネチーズという4層の美しい断面が出来上がっていた。

 そして、これを冷蔵庫で最低でも3時間冷やすと美味しいティラミスの完成だ。


 しかし、そんなに長時間お客様を待たせることは出来ないので————




「これが、一晩冷やしたものだ」



 トーマは冷蔵庫から今まで作っていたものと寸分違わない見た目の一晩冷やしたティラミスを取り出す。ここに仕上げとしてココアパウダーを振りかければ出来上がりだ。

 この用意周到さは、さながら何処かのテレビ番組のようだ、とトーマは考える。



(常に客の求めるものを予測し、事前に準備を整えておく。これこそが一流のパティシエだ)


 冷蔵庫や冷凍庫には、後は盛り付けるだけまでに下準備されたケーキやアイスたちがずらりと並ぶ。それを見たトーマは満足げに頷いた。




 茶漉ちゃこしでココアパウダーを振りかけていると、ユーマがひょっこりと厨房に顔を覗かせる。


「兄ちゃーん。そろそろ出来たー?」



「ああ。とっくに出来上がっている」



「ええ⋯⋯。それならそうと呼んでよ~⋯⋯⋯⋯!!」


 いたって冷静なトーマの言葉に、軽い抗議の視線を向けるユーマ。



「待つ時間も楽しいものだろう。それに、空腹は最高のスパイスだ」


 トーマはそう言って、平たい皿に1人分のティラミスを盛り付けて、その上に彩りとしてミントの葉を乗せた。








✳︎✳︎✳︎







「お待たせいたしました。こちらが当店のパティシエ特製、ティラミスでございます」



「美味しそうね⋯⋯!」


 本から顔を上げたダリアはトレーの上のティラミスを見るなりパァッと表情を明るくする。初めは何処か達観たっかんしたようすの彼女だったが、意外にも素直な一面もあるようだと、ユーマは心の中でクスリと笑う。


「ありがとうございます。どうぞ、ティラミスとウバのマリアージュをお楽しみください」


 ユーマはそう言いながら、既に空になっているカップに熱いミルクティーを注いだ。

 ダリアは嬉しそうに「ありがとう」と言って、早速スプーンを手に取りティラミスをすくった。



「4層になってるのね? 私が食べたことのあるものと違うわ⋯⋯」


 小ぶりのスプーンの上に乗るティラミスをじっくりと見つめたかと思うと、ダリアはぱくりと一息にそれを口に含んだ。そして、瞳を閉じてじっくりと味わう。


 しばしの沈黙の後、ゆっくりと瞳を開いたダリアはキラキラとブラウンの瞳を輝かせ、興奮気味に口を開いた。


「⋯⋯っ! 美味しい! ⋯⋯口に入れた途端、広がる濃厚なマスカルポーネチーズの味に、コーヒー香るしっとりと柔らかいビスケット生地⋯⋯。どっしりとした重厚感があるのに、軽い口当たりでいくらでも食べられそうだわ⋯⋯!」


 そう言いながら、パクパクとティラミスを口に運ぶダリアは、口休めにウバのミルクティーに口をつける。


「⋯⋯ミルクティーは絶対に合うとは思っていたけれど⋯⋯ウバのすっきりとしたメンソールの香りと渋みが濃厚な味のティラミスにぴったりね⋯⋯!!」


 来店時の暗い表情が嘘のように、笑顔で食事を楽しむダリア。そんな彼女の姿を目にしたユーマはフッと微笑む。


「お気に召したようで良かった。それでは、ゆっくりとお食事をお楽しみください」


 ユーマは軽く頭を下げ、食事を楽しむダリアの邪魔をしないよう静かにフロアの定位置へと戻った。





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