第三章 支配者たちの晩餐・5

 その人は、グエン王子だった。

 彼は何のためらいもなく、すたすたとダンバーへ向かっていく。いくら帝国共通語が分からないとはいえ、この場の雰囲気を理解していないのだろうか。

「何だお前? そこをどけよ」

「ダンバさん、ワタシ、グエンです。ニアーダから来たデスヨ。お会いデキテ、嬉しいですネー!」

 グエン王子は両手を差し出し、笑顔でダンバーに握手を求めた。

 めちゃくちゃな帝国共通語で、しかも素っ頓狂な大声だった。ダンバーが面食らっている。この場にいたユーゴー人のほとんどは、笑いをこらえきれずに噴き出した。なんだか意地悪で、嫌らしい笑い方だった。

 同時にハーレイは気づいていた。ユーゴー人でない人は、みな一様に表情を凍りつかせていた。ダンバーがグエン王子を(比喩ではなく、言葉通り)殺してしまうのではないかと、本気で心配していた。ダンバーにそれだけの権力を認めているのだ。彼らは自国に戻れば他に並ぶ者のない貴人たちなのに、ここでは馬車の列を妨げないかと道端で怯える庶民たちと大差なかった。

「……もういい。馬鹿らしくなってきた」

 水を差されたダンバーは、急に拳を収めて大広間の扉を開けた。

「どこ行くの、ダンバー兄さん」

「部屋に帰って寝るんだよ」

 ライサンダーを殴る気は失せたらしいが、念のためクロードがダンバーの後を追う。ふたりが出て行くと、誰からともなく安堵のため息が吐き出された。そして、まるでそうしなければならないとでもいうように、宴はもとのくつろいだ雰囲気を取り戻し――あるいは取り繕って、あちこちから談笑する声が上がりだした。

 グエン王子は何かニアーダ語で言った後、セニシカ女王に手を差し伸べ、白絹の手巾ハンカチで懸命にドレスの染みを拭おうとしている。そんなことをしても無駄で、双方に落ちない汚れが残るだけだ。それでも、グエン王子はやめようとしなかった。

「あの……」

 ハーレイはおそるおそるグエン王子に話しかけた。

「ありがとう、ございました」

 グエン王子が立ち上がって、ハーレイへ向き直る。絶好の機会が訪れた。

〈はじめまして、僕の名前は、ハーレイといいます〉

 ハーレイはたどたどしいニアーダ語で話しかけた。

〈あなたのお父さん……は、僕の友達です。彼は、元気です。国王陛下に、どうぞよろしくお伝えください〉

 ニアーダからの国賓にアテュイスの消息を伝えてあげたい。それがハーレイの「企み」だった。

 だが帝国共通語や「アテュイス」「チュンナク王」といった名前を使っては、誰かに聞かれるかもしれない。だからハーレイはサナミアにニアーダ語で自己紹介すると嘘をついて、必要な言葉を教えてもらったのだ。

 サナミアに習った言葉からつなぎ合わせたニアーダ語が、文法的に正しい自信はない。しかしグエン王子の笑みが一瞬硬直したのを見ると、ハーレイの言いたいことは理解してもらえたらしい。

「おお、アリガトウ、ハーレイ皇子、ワタシ嬉シイヨ」

 グエン王子は腰をかがめて、ハーレイを抱きしめてくれた。

 企みは成功した。喜んでくれたのだ!

 ところが、達成感が胸中を満たしたのもつかの間、

「でも、いまのは聞かなかったことにしておく」

 あまりの驚きに声も出なかった。

 グエン王子が耳元で囁いた帝国共通語は、アテュイスやサナミアよりもずっと流暢だったのだ。

「可愛いハーレイ皇子に忠告する。私の伯父貴おじきを信用するな」

 身を離したグエン王子が一瞬だけ目を見開く。アテュイスと同じ、緑がかった灰色の瞳。彼はまた元通りの笑みをたたえ、その美しい色を細めた目の奥に隠してしまった。

「お肉! ワタシお肉食べタイですネー!」

 グエン王子はまた帝国共通語が下手なふりをして、あっけらかんと去って行く。残されたハーレイはただ呆然と立ち尽くすのみだ。

 ――どういう意味? 全然分からないよ。

 結局ハーレイはご馳走を何ひとつ口にしないまま、宴をあとにした。

 たくさんの火が灯された大広間と違い、回廊の灯りはまばらで寒かった。ライサンダーは中庭で薔薇垣の側に立ち、衛兵の一人と何か話をしていたが、浮かない顔のハーレイを見つけるとすぐに駆け寄ってくる。彼の白い吐息が、薄闇の中でかすかに浮かんで消えた。

「いかがなさいました、殿下」

 ライサンダーに殴られた様子はない。ひとまず安心する。

「ねえライサンダー、ユーゴーは……僕の国は、ほかの国の人たちにいったい何をしているの?」

 穏やかな次兄が言った「支配」という言葉。「属国」と言い放つ長兄。下手な帝国共通語をつけつけと笑う人々。怯えた国賓たち。いずれもハーレイが予期していたのとは真逆のものだった。

「君は『国賓の皆様に失礼のないように』って言ったよね? でもあの扉の向こうは、『失礼』でいっぱいだった。少なくとも、僕にはそう見えたよ」

 分厚い眼鏡の奥に、ライサンダーの困惑がありありと浮かぶ。その黒い瞳を捉えて、ハーレイは言った。

「僕には知らないことが多すぎる。ライサンダー、僕は本当のことが知りたいんだ。だって僕は……」

 ハーレイはその続きをためらった。

 こんなこと、本気で思っているわけではない。方便でも言いたくないし、認めたくもない。

 でも、言わざるを得なかった。ライサンダーに教えを請うためには。

「僕は、皇帝になるかもしれない人間なんだから」

 そうでもしなければ、あの言葉の真意には一生近づけないような気がしたからだ。

 ――私の伯父貴を信用するな。

 それでもハーレイは、アテュイスとの友情を信じている。

 

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