五章
1
「なんで……止めたのさ、さっき」
俺の胸に額を押しつけたまま千佳が涙混じりの声で尋ねた。
「脱皮したばかりの龍の皮膚はすごく弱いんだ。人間が触れたら感染症に掛かって死んじゃ……ぐふっ!」
調べた結果を素直に告げるとみぞおちに拳が叩き込まれた。
「だからなんなのよ! 龍だから? 百年に一度きりだから!? だから清史郎よりも死ぬべきじゃないって!? ふざっけんな!」
「ぐ、げふ……ちょ、ちょっと待っ……死ぬ! 寿命より先に死ぬ!」
容赦なく何度も叩き込まれる拳に俺は悲鳴をあげた。涙が出そうになるくらい良いパンチだ。
でも――。
「……諦めないでよ、清史郎」
そう言ったきりパンチは止んで、千佳はまた黙り込んでしまった。
龍と命の重い軽いを競う気なんてない。どう考えても俺の惨敗だ。人間がこの星に来た経緯と懲りずにこの星でやっていることを考えたらなおのこと。
正直、自分があと半年で死ぬなんて実感がわかないというのもある。死ぬのが怖いなんて感覚もない。千佳が泣くなんて天変地異みたいなことが起こる方がよっぽど怖い。
「私がやれるだけやらなかったせいで清史郎が死んじゃった」
なんて言って、小学生のときみたいにギャン泣きされる方がよっぽど怖い。
だから俺は千佳の肩を叩いた。
「願いを叶えるには龍の逆鱗に触って願い事を三回唱えて、放した龍が無事に空を昇っていかないといけないんだ。感染症にかかって死んじゃったら元も子もない。それに……」
ようやく顔をあげた千佳は涙だけじゃなく鼻水まで垂らしたぐしゃぐしゃの顔をしている。ひどい顔に苦笑いして俺は空を指さした。
「千佳と清孝と俺と、三人で龍を見るのが今日の一番の目的だろ? 百年に一度しか見れないんだ。千佳も清孝も俺も、誰も二度と見られない」
龍を捕まえるなんて計画を千佳と清孝が言い出した時から何度も言ってきたことだ。
「三人でいっしょに見送った龍なんだ。無事に地球にたどり着いてほしいし、長く元気でいてほしいだろ?」
にやりと笑って見下ろすと千佳はぐしゃぐしゃの顔で唇を尖らせ、俺をじっと睨みつけていた。不満げではあるけどこれ以上、パンチを食らうことはなさそうだ。
「ほら、もうすぐ龍が見えなくなるぞ」
だめ押しに言うと千佳は唇を噛みしめてようやく空を見上げた。隣にやってきた清孝も同じように空を見上げた。
龍の姿はずいぶんと小さくなっていた。
地球が龍にとっての故郷なのか。人間のいるこの星が嫌になったのか。なんにしろ龍はこのあと宇宙を泳いで地球へと向かう。
黒真珠みたいな姿になった水蛇たちは龍と一緒に空をのぼっていき、途中で雲になり、雨として地上に戻ってくる。そうして水のない
龍と一緒に空をのぼっていく水蛇たちが再び孵化する様子は千佳と清孝は見られるけど……多分、きっと俺は見られない。
だから空をのぼっていく黒真珠みたいな姿の水蛇たちからは目をそらした。
「職業・学生の俺たちが龍を捕まえるなんて最初から難易度の高すぎるクエストだったんだ。もうちょっと現実的なところから攻めるべきだったな」
龍の姿を見送ったあと、清孝が大真面目な顔で言った。ちなみに龍を捕まえようと言い出したのは清孝だ。
「現実的ってなにさ」
俺が差し出したびしょぬれのハンカチで涙と鼻水を拭きながら千佳が尋ねた。
「毎日笑うと寿命が七年延びるという研究データがあるらし……ぐふっ」
真顔で答えると千佳は俺の腹に拳を叩き込んできた。良いパンチだ。現実的で、龍を捕まえるよりもずっと簡単な提案をしたつもりなのにご不満のようだ。
「へらへら笑ってんな、清史郎!」
千佳はドスの利いた声で一喝、勢いよく立ち上がると俺を睨み下ろした。
「ぜっっったいに諦めないから! 次行くよ、次!」
「次?」
「……次?」
「つ、次は……人魚とか!」
俺と清孝が同時に尋ねると千佳はしどろもどろでテキトーなことを言い出した。
「人魚の肉を食べると不老不死になるって言うじゃない!」
「不老不死は困るかな。それになんか腹壊しそう」
げんなりとした顔で言うとガシリと肩を掴まれた。振り返ると清孝が真剣な表情で俺を見つめていた。
「俺もいっしょに食べてやる。焼き肉のタレで」
龍だけじゃなく人魚も焼いて食う気か。しかも焼き肉のタレで。
「馬鹿ね、清孝。鮮度抜群なんだよ? まずは刺身、次に炙って塩でしょ!」
「それだ」
清孝のことを馬鹿にしておきながら胸を張って馬鹿なことを言う千佳に、清孝も清孝でなぜ大真面目な顔でうなずいているのか。
「どっちも馬鹿だ、馬鹿」
盛大に馬鹿にして鼻を鳴らすと千佳がキッと睨み付けてきた。
「うるさい、清史郎! いいから人魚について調べるの! わかった!? 清孝、車のカギ貸して。着替えてくるから。あんたたちは私の着替えが終わるまでそこでステイ!」
清孝から車のカギを受け取ると千佳は駆け出した。
「結局、調べるのは俺かよ……って、イテッ!」
土手を登る千佳の背中を眺めてぼやいていると俺の背中を清孝が蹴飛ばした。
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