四章

 俺たち三人だけじゃない。

 業務用ざるに頭を突っ込んだままの龍の巨体も、水蛇たちの水でできた体も、ふわりと浮かび上がった。


「なにこれ! なにこれ、なにこれ、なにこれ!?」


 千佳は龍の胴体にしがみついたまま金切り声をあげた。清孝は無表情で一点を見つめている。状況が飲み込めなくて思考停止している顔だ。水蛇たちはバランスを取れずに空中でくるくると回転し始めた。

 呆然としているうちにどんどんと地面は遠のいて、俺たちの体は地上から三メートルほどの高さにまで浮かび上がっていた。二階の部屋に立っているのと同じくらいの高さだ。床に足がついていればなんてことないけど今はとんでもない高さに感じられる。


 龍の尻尾にしがみついて呆然としていた俺はハッとした。


「忘れてた! 地球の位置だかなんだかの関係で百年に一度、数分間だけ蛇尾川へびおがわ周辺の重力が弱くなるんだ! まだ飛ぶ力の弱い子供の龍は重力が弱くなる瞬間を狙って空に飛び立つ……って、資料に書いてあった!」


「そういう重要なこと、普通忘れる!?」


「そういうとこだぞ、清史郎」


「そういうところだよ、清史郎!」


 目を釣り上げて怒鳴る千佳は怖いけど、淡々とした表情で上から目線の清孝にはイラッとする。そういうとこってどういうとこだよ、と思いながら俺はあたりを見回した。


 さっきよりも回転速度のあがっている水蛇たちはもう蛇の姿を保ってはいなかった。ぬらりと黒い水の塊は遠心力によって整形され、大粒の黒真珠みたいな姿になっていた。

 水のない川にごろごろと転がる石は含まれる成分の関係で磁石みたいに地面にピタリとくっついている。俺たちや水蛇同様、石まで浮かび上がってきたら頭を打って死にかねない。龍もそれをわかっていて蛇尾川の中流域にある、この水無川を選ぶのだ。


 そうこうしているあいだに清孝の体が斜めに傾き始めた。なんとか空中でバランスを取ろうと足をばたつかせていたが――。


「……だめだ」


 諦めやがった。

 ぼそりと呟いたかと思うと清孝も水蛇たち同様、くるくると回り始めてしまった。もちろん業務用のステンレスざるを抱えたまま。

 ざるから逃れた影――龍は頭を空へと向けた。


 イメージしていた龍とその姿はずいぶんと違っていた。


 手も足もない体。たてがみもない。目も黒くてつぶらで穏やかで可愛らしい。体が大きいだけでアオダイショウや水蛇の幼生と変わらない姿をしている。

 龍らしいところと言えば黄色掛かった白い鱗と、尻尾の先に涙滴型るいてきがたに生えた金色の毛くらいか。

 がっかりした気持ちで見つめていると不意に龍の頭がこちらを向いた。幼さの残る目がじっと俺を見つめ、ゆっくりと尻尾を振った。放してほしいと懇願するように。


 うるんだ黒くつぶらな目が泣き出す寸前の千佳の目と重なった。


「清史郎、なにやって、……っ!?」


 ふと気が付いたときには龍の尻尾は俺の腕からすり抜けていた。


 千佳が怒鳴るのを途中でやめたのは龍が激しく体をくねらせたからだ。頭も尻尾も自由になった龍は千佳を背に乗せたまま、さらに空高くへと舞い上がった。

 俺と清孝を置き去りにして、龍と千佳は十メートルほどの高さにまで浮上した。


 重力が弱まるのはほんの数分のことだ。

 重力が元に戻れば十メートルの高さから水蛇たちもいない、川の水もない石だらけの川に叩きつけられることになる。千佳だけか龍もろともかはわからないけど、どちらにしろただでは済まない。

 千佳もわかっているはずなのに龍の胴体にしがみついたまま離れようとしない。それどころか龍の体をよじ登り始めた。龍の体を伝って逆鱗までたどり着く気でいるのだ。

 割り合いに大人しい性格をしていると言われる龍も自分の身を守るためには噛みつく。噛みつかれれば痛いしケガをする。

 あまりにも危険だ。


 ――それ以上、近付かないで。早く放して。


 そう叫んでいるかのように龍は口を大きく開け、鋭い牙を見せつけ、頭を突き出したり引っ込めたりと威嚇を繰り返している。だけど千佳はよじ登るのをやめない。


「千佳、やめろ!」


 俺の制止も全く聞いていない。千佳は上だけを見てどんどん龍の体をよじ登っていく。


「清孝も止めろよ!」


「無茶言うな」


 清孝も止める気がない。

 と、いうか空中でくるくると回り続けるばかりでまともに龍も千佳も見ていない。宇宙に行くことがあったら清孝は完全に役立たずだ。戦力外だ。

 黒真珠みたいな姿になった水蛇と仲良くくるくるしている清孝に舌打ちして、再び千佳たちを見上げて――。


「千佳、離れろ! 脱皮が始まった!!」


 龍の様子に慌てて叫んだ。

 遠目だし龍の動きも激しいせいではっきりとは見えない。でも頭のあたりにひらひらと薄い皮膚のようなものが見えた。時間的にも脱皮して幼生から幼体へと変化する時間だ。

 もし、本当に脱皮なら――。


「千佳、いますぐ離れろ! いますぐだ!」


 俺の切羽詰まった声にようやく千佳が振り向いた。振り向いたけれど、唇をぎゅっと引き結んで首を横に振っている。頑固な千佳に俺はギリッと奥歯を噛んだ。


「いい加減にしろ、千佳! 本気で怒るぞ!!」


 俺の怒鳴り声に千佳の肩がびくりと震えた。そのすきを龍は見逃さなかった。


「きゃっ!」


 ふるりと体を震わせて千佳を振り落とすと勢いよく空を昇り始めた。


「千佳!」


 振り落とされた反動で落下してきた千佳を俺は慌てて抱き留めた。今の勢いのまま落ちたら石だらけの水無川に結構な勢いで叩きつけられることになる。千佳を胸に抱いて地面に背中を向けて、俺は背中に走るだろう痛みを覚悟して目をつむった。


 でも――。


「ほれ」


 清孝に軽く背中を蹴飛ばされ、俺と千佳の体はふわりと浮かび上がり、三メートルほどの高さで落ち着いた。

 空を見上げると龍はゆっくりと体をくねらせて飛んでいた。


 やはり脱皮が始まっていたのだ。

 風を受けて薄い皮が一気にめくれて、白っぽいアオダイショウの姿からイメージ通りの龍の姿へと変わっていく。


 蛇のような細長い体をした、西洋のドラゴンじゃなく東洋の龍に近い姿だ。猛禽類を思わせる鋭い爪の生えた手足、黄色掛かった白色の鱗、背中から生えたたてがみは美しい金色をしている。

 黒真珠みたいな姿になった水蛇たちと天女の羽衣のような龍の抜け殻が龍のまわりをひらひらと舞う様は幻想的で、俺は千佳を胸に抱きしめたままため息をもらした。

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