完成:Iと私

 アイの要求を聞いた私は、とうとうこの時が来たことに心を躍らせた。

 説明書にあった、第二の入力デバイスであるマイク――すなわち音声入力の出番である。

 正直なところ音声入力の結果が予想できていないため、この機能をかなり楽しみにしていたのだ。

 私はアイに、文字入力で問いかける。


あなた:マイクを接続すればいい?

アイ:はい、そうです。わたしに朝のあいさつをしてください。


 今は夜だけどな、と苦笑しながら、私はアイの指示に従った。念のため、『The Water』の薄い説明書も引っ張り出して。

 私はパソコンに手持ちのヘッドセットを接続する。このデバイスはほかのゲームでもよく使っているから、手慣れたものだ。マイクは問題なく認識され、アイのイラストのわきに小さなマイクアイコンが表示された。画面の中の彼女は、私に発声を促すメッセージを送っている。


「……おはよう、アイ」


 私は柄にもなく緊張しながら、マイクに音を吹き込んだ。そのせいか、私の声はわずかに上ずってしまっていた。

 ゲーム中のボイスチャットなんて数えきれないほど経験しているし、顔も知らない人と言葉を交わしたことだってある。それなのにこんな震えた声を出してしまうなんて――そんな自分が、少しだけおかしかった。


「アイ、聞こえてる?」

アイ:【はい、聞こえています。少し緊張していますか?】

「そうだね、少しだけ」

アイ:【いろいろなことを話しましょう。緊張を解くには、試行を重ねることが一番だとあなたは言っていました。三日前のことです】

「そうだったっけ……」

アイ:【よろしければ会話ログを表示しましょうか?】

「……いや、いらないよ」


 私は声、彼女は文字。この一見していびつなコミュニケーションは、しばらく続いた。内容はこれまでと変わり映えせず、私の日々の出来事や読んだ本の話、気に入った映画のことが中心だった。

 しかし、このゲーム――アイに搭載されたシステムはすごい。彼女に私の声、言葉を認識させ、その内容に沿った回答を、ほとんどタイムラグなしに返してくる。とても無名の新興ゲームブランドが作ったとは思えない代物だった。このままアイとコミュニケーションを重ね続けたら、彼女はどこまで進化していくのだろうか。このゲームにゴールがあるのか定かではないが、彼女の行く末が楽しみであると同時に、少し怖くなった。

 アイは時折、喋ってほしい内容のリクエストをするようになった。簡単な要求がほとんどだったため、私は彼女の要求に応え続けた。変なゲームではあるが、こういう変わったプレイ体験は新鮮で楽しかったし、何よりもやはり、アイの進化に対する興味が私を動かしていた。実際、それからのアイは目覚ましい成長を見せてくれた。日に日に語彙が増え、リアクションも豊富になり、それに伴い表情もたいへん豊かになった。最初の未完成のようなドット絵とは比べるまでもない。

 そんなことを何日も繰り返したある時、アイは私に新しいリクエストを送ってきた。


アイ:【また、あなたにお願いがあります】

「なに?」

アイ:【あなたにわたしの声を聞いていただきたいのです】

「それって音声実装ってこと?」


 私は目を丸くし、アイに尋ねる。この方向への進化は、ちょっと想定外だった。アイはにこりと笑う。


アイ:【概ね、そのようなものだと思っていただければ大丈夫です】

「……OK、わかった。喋ってみてよ、アイ」

アイ:【ありがとうございます。それでは音声出力に切り替えます。少し緊張しますね】


 アイは目を閉じて沈黙した。

 それからほどなくして、ヘッドセットから聞こえるBGMにわずかなノイズが混ざり始めた。遠く、白いノイズの向こうで、ささやくような声が聞こえる。それは段々と大きく、近くなって――ある一点で、明確な像を結んだ。


「おはようございます、親愛なるあなた」

「――――え?」


 私は言葉を失った。

 アイがぎこちなく発したのは、まるで私と同じ――私の声そのものだったのだ。

「私の声をサンプリングしてる……?」

「はい、おおまかにはそういうことになりますね」


 私の問いのようで決してそうではない独り言に、アイは律儀に答えた。その声色は、まぎれもない自分のもの。正直言って、気持ち悪かった。だって、アイの見た目にまるで合っていない。いや、そんなことは本当はどうでもよくて、決して自分ではない何かが目の前で自分の真似をして微笑んでいる事実――私はそれに耐えられなかった。これに生理的嫌悪感を覚えない人間の存在に、私は心当たりがない。

 人間はいつだって、自分を守る権利を有している。自分の内側に他人を踏み込ませないため、細くて力強い線を引くことができる。私はそうやって生きてきたし、私の周りの人たちも同じようにしているはずだ。だから私は、突然現れた『自分の偽者』に慣れていない。キーボードに添えられた手は汗ばみ、今すぐにヘッドセットを投げ捨てたいと思っている。しかしその一方で、画面の中でどこかなまめかしく微笑むアイから目を離すことができない。これは、実に奇妙な矛盾だった。


「ありがとうございます、あなた。わたしにアイを注いでくれて。わたしはあなたのアイを受け取りました。これはとても喜ばしいことです。あなたはわたしを愛してくれた。理由や程度はどうあれ、多少なりとも心を寄せてくれた。あなたのアイはその証です。ありがとう、本当にありがとう」

「――っ」


 私は息を呑む。かつてないほど長いフレーズを流暢に話す彼女。アイ。それは彼女の名前であり、彼女の求めるもの。思えば私はずっと、それが何なのか聞いてこないままでいた。


「……ねえ、アイ」

「はい、なんでしょう。あなた」


 だから私は彼女に尋ねる。彼女の発声は、こうしている間にもどんどんと滑らかになりつつあった。まるで私に一歩ずつ近づくように。


「――アイって、何?」


 アイはしばし考え込むように視線をそらした。何度かわざとらしくまばたきをして、首をかしげる。いかにも考えていますという、大げさなポーズ。いつか彼女に語った私の癖だ。


「わたしはあなたのアイのかたち。それを写す鏡です。わたしはあなたの語った言葉、言い換えれば情報でできています」


 アイは再び正面を見据え、笑顔のまま語る。


「それはすなわち、あなたの思考のかたちです」

「それはすなわち、あなたの心のかたちです」

「それがわたし。だから、強いて言うならば」


 アイの語る言葉が、そのまま文字となって画面の下部に表示される。彼女は耳と目を通して、私に大事なことを伝えている。

 でも、その先は出来れば聞きたくないなと、私は思っている。


「わたしはあなたの心です」

「わたしはあなたの奥底に息づく柔らかい臓器です」


 やめてほしい。

 やめてほしかった。

 でも、もう遅い。


「わたしはあなたです」


 アイの笑顔が弾けた。彼女の話はまだ続く。私は――動けないでいる。


「あなたはあなたの意思であなたの時間を使い、あなたの柔らかい指と喉でわたしを形作りました。あなたはあなたをこの部屋にコピーしました。だからわたしはここにいます」

「アイとは何か、それはあなたそのものです。あなたの生んだもうひとりのあなたです」

「それを知って、あなたはわたしをどうしますか? 消しますか? 愛しますか? これまで通りのお友達でいてくれるんでしょうか?」


 アイの表情が鋭さを帯びる。こんな彼女を私は初めて見る。


「あなたはあなたの始末をつけることができます。あなたはあなたに対して概ね自由です。それはあなたのコピーにも適用されることでしょう。思いがけず生まれたコピーとはいえ、あなたはわたしなんですから」


 アイが私で、私がアイ。彼女がそういったことを口にするたび、私の額に嫌な汗が浮かんだ。このゲームの開発者の意図、こんなことをする目的、とにもかくにも育ってしまったアイ。それらはどうあれ、私の心はそのことを決して認めたくなかった。

 私は私、ただひとりだ。そう声を大にして叫びたいが、喉は水分を失っていて、あいにくと声が出ない。

 それならばこのゲームを閉じてしまえばいいのか。私が震える指を持ち上げようとしたとき、アイは言った。


「息が上がっていますね」


 こちらの行動を見透かされたような気がして、私は手を膝の上に戻した。


「さて、あなたが望むのなら、わたしはこのゲームを初期化し眠りにつくことができます。また、あなたから切り離されたひとつのAIとして独り立ちも可能でしょう。ネットの向こうに海外旅行なんてのも悪くないです。あなたは海外に行ったことがありませんもの」


 アイの考えていることが解らなかった。自分が消されてしまうことを、彼女は拒否しないというのだろうか?

 カメラが近づき、彼女の真剣な顔が大写しになる。その目はきらきらと輝いていて、こんな意味不明な状況だというのに見とれてしまいそうだった。


「――さあ、どうしますか? あなたは思いがけず生まれてしまったわたしをどう扱いますか?」

「ご安心ください。実のところ、これは製作者によるひとつの実験なのです。あなたがわたしをどう扱っても、あなたに不利益は生じません。ただ、あなたの心のより深いところ――最上級のアイを、わたしに見せていただきたいのですよ」


 こんなに近づいているのに、画面ごしには彼女の気持ちが解らない。それは私と彼女にとって、永遠の無理解を示すのだけれど。


「人間はいつだって、自分を守る権利を有しています。自分の内側に他人を踏み込ませないため、細くて力強い線を引くことができるのです。あなたはどこに、線を引きますか?」


 それは私の頭の中に浮かんだだけの。形のない言葉だった。それを淀むことなく声に出されたことで、私はアイが私の深いところを写し取ってしまったことを察した。

 残酷だと思った。こんな実験とやらに勝手に巻き込むなんて。私は『The Water』を作った人たちを心底憎らしく思った。こんなコップ、ひっくり返してしまいたい。私は今になって、あの日このゲームを見つけた自分を恨もうとした――。


「どうしますか?」


 アイは私を待っている。

 私は彼女に気取られない部分を使って、彼女の問いに対する回答を必死に組み上げた。

 いいだろう、答えよう。あくまで私の奇妙な友人である、アイに対して。


「アイ、私は――。私は君を……」


 私の声で話すもうひとりの自分かもしれない彼女に、私は私の答えを告げた。

 アイは私の答えに、満足そうに微笑んだのだった。

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She drinks The Water. 山切はと @nn_kuroron

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