三章 デート回、プール回、勉強会

   ◇


 さらに翌日の放課後。

 この流れでいけば、次は誰だか決まってるよねってことで、今日はすいと一緒だ。


 そして現状、俺は自分の勉強というものがロクに進んでいなかった。

 ということで、翠に勉強を教えてもらうことに。

 学園での授業が終わるなり、俺は翠に連れられて緑門邸にお邪魔することになったのだが……


「でっけぇ」


 空を仰ぐようにして、目の前のそれを見上げる俺。


「まあね。さすがに卯野原さんほどじゃないけど」

「おっぱいの話はしてねぇんだよ」


 高級そうな私服に着替え、俺を出迎えてくれた翠に言う。

 フリルでひらひらした純白のトップスに、ハイウエストの黒いロングスカート。きゅっとくびれが締まり、その分胸の膨らみが強調されるような服装を纏っていた。まさにお嬢様といった形貌だ。


 だが、俺が言いたかったのはそれではなく、目の前に建つ大豪邸のことだ。

 でかい。……とにかく、でかい。

 語彙力が失われるほど、お城のように巨大な建造物が住宅街の一角で異質な存在感を放っていた。周囲の一軒家と比べても二倍以上はあるように見える。


「与一、こっちよ。さ、入って」

「お、お邪魔しまーす……」


 広すぎる玄関からおそるおそる敷地の中へと入って行く俺。

 見ると、まだ侵入して数歩だというのに高価そうな車が二台も視界に入ってきやがった。

 どうしても俺との場違い感が凄い。


 俺と成金は相容れない存在なので、この場所は落ち着かなくてしょうがなかった。

 素直に「帰りてぇな」と、そう思ってしまうくらいに。

 その思いなど届くはずも無く、俺は翠に同行しながら、リビング……いや客室か。とにかく、そんな場所に案内されるのだった。


「適当に座ってちょうだい」

「お、おう」


 これまた高級そうな革張りのソファに腰掛ける翠。とりあえず、俺はテーブルを挟んだ向かい側のソファに座ることにした。


「与一、飲み物は何がいいかしら?」

「そうだな。なるべく安くてマズい缶コーヒーを頼む」

「無いわよ、そんなもの……」

「それもそうか。残念だ」


 安い缶コーヒーを口にすることで、部屋の高級感を中和しようと試みたが、あっさりと失敗した。

 庶民の……いや愚民の俺には、お上品なものなんて口に合わねぇんだよな……


 とまあ、翠の勧めでお高い紅茶を淹れてもらい、お茶請けなんかも用意してもらってから二人で勉強会を始めるのだった。

 テーブルに教科書とノートを広げ、お互いに問いとの戦いを始める。


「英語のイントネーションねぇ。どこにアクセントを置くか……? そんなの地方訛りで違うに決まってんだろうが。やれやれ、これだから教科書通りの教育は……」

「問題に文句を言ってもしょうがないでしょ。ここは母音の発音が他と違うのよ」

「ふーん、そうなのか」


 翠に理屈を説明されるがよく分からなかった。しゃーない、この辺は捨てるか。

 とにかく、今は赤点を取らないことが肝要なのだ。高得点を狙うなど愚の骨頂。

 よって、捨てるべき箇所は捨てる。それが俺の勉強必勝法だ。


「あれ? ここの答えが合わないわね……、計算方法は間違っていないはずなのに……」


 と、翠も理科の問題で手こずっている様子だった。どれどれ……


「ああそこ、標準気圧の値が間違ってるな。一気圧をヘクトパスカルからパスカルの単位に桁をずらさないといけないんだよ」

「あ、なるほど! ……って、どうして与一が分かるのよ? これ、三年生のテスト範囲なのに……」


 訝しそうにしながら戦慄した表情を浮かべる翠だった。よほど驚いたのだろう。


「それはほら、前に俺がすもも先生に勉強を教わることがあっただろ? 実は、その時に教えてもらってたんだよな」

「ああ、あの丁半博打の時ね……。でも、どうして与一が、三年生の理科なんて教わっていたのよ?」

「余計なお世話かもしれないけど、いちおう翠に教えられるようにと思ってな。俺たちが一方的に教わるだけじゃ翠の負担になるだろうし。まあ、そんな感じだ」

「よ、与一が、私の為に……ふ、ふーん! ま、良い心掛けだと思うわ!」


 ぷいっとそっぽを向く翠。

 そんな風に表情を隠しているが、耳まで赤いので照れているのは丸わかりだった。

 なんだよ、こいつ可愛いところあるな。


「でも、そういうことなら、私も遠慮無く与一に教えてもら――」


 と、翠が言いかけるが、不意に部屋の外からドタドタと騒がしい足音が近づいてくるのが分かった。な、何事だろうか……?

 そして、不意に部屋のドアが勢いよく開け放たれる。


「ただいま! 帰って来たよ、翠!」


 スーツの上着を片手に持ち、刺しゅう入りのワイシャツを纏った四十代くらいの男性が部屋に侵入してきた。だ、誰だ……?


「お、お父様!? どうしてこんなに早く? まだ仕事中だったのでは?」


 驚きつつ、翠はソファから立ち上がって言った。

 お父様だって……? この人、翠の父親だったのか。言われてみれば、顔に翠の面影が感じられる気がするな。翠の父親と言えば、『ラビリンス』グループの大企業の社長だったはず。平日のこの時間なら、普通はまだ就業時間中なのだろうが……


「秘書から聞いたよ。犬飼与一くんが我が家に遊びに来ていると。そんな状況で仕事なんてしている場合じゃないだろう。ははははは!」


 軽快に笑う緑門父。要するに会社サボって来たってことじゃねぇかよ。大丈夫なのか?

 とまあ、それはそうと俺も挨拶くらいしておくか。


「あ、犬飼与一です。お邪魔してます」


 頭を下げて一礼。正しい礼儀作法など俺は知らないし、それっぽいことをしておく。

 こういうのは形式ではなく、気持ちが伝わればいいのだ。知らんけど。


「やあ、よく来てくれたね、与一くん! ずっと会いたかったんだよ。本当は僕から会いに出向くつもりだったのだけれど、翠に止められていてね」

「だって、恥ずかしいじゃない。お父様が何を言い出すか分からないし……」


 ジト目で父親の睨む翠。


「と、そういうことだったんだよ。だから、今日はチャンスだと思ってね。僕から出向くのではなく、ただ我が家に帰って来ただけ。つまり、あくまで翠の言いつけは守っていることになるだろう?」

「ただの屁理屈じゃない。はぁ……、こういうところ、誰かさんと似ているわよね」


 言って、翠は俺に視線を寄こしてくる。まあ、俺が言いそうなことではあるけど。

 それにしても、俺に会いたかったというのはどういう了見だろうか。

 そう思案していると、緑門父が俺の元まで来ながら話を続ける。


「“友情人狼”の件、悪かったね。過程はどうであれ、僕が翠と与一くんを貶める結果となってしまった。大人として不甲斐ないばかりだ。それに止まらず、与一くんは身を挺して僕の会社を守ってくれたそうじゃないか。だから、改めてお礼を言いたかったんだ。……本当にありがとう、与一くん」


 そう言って、丁寧に頭を下げてくる緑門父。なるほど、そのことだったか。


「とりあえず、顔を上げてください。俺、シリアスな雰囲気って苦手なんですよね。それに、悪いのは全部『ラビリンス』組織ですから。会社の件も、成り行きで俺の感情の為にそうしただけです」

「そうか。そう言ってくれると助かるよ。さすが、“友情人狼”をクリアした男だ」

「そんなに、たいしたことはしてませんって……」


 いちいち大袈裟だな。俺なんて『ラビリンス』では、ただのDランク運営だ。

 そんなに特別な存在というわけでも無かろうに。


「でも、こうして与一くんと会えて僕は嬉しいよ。ああ、そうだ。どうせだし、良いワインでも開けようか。えっと、どこにあったかな……」

「開けるのは勝手ですけど、俺、まだ未成年ですからね……?」

「ははははは! その辺は、まあ、ほら? ね? いやー、娘の彼氏とお酒を飲むのが僕の夢だったんだよ!」

「なに誤魔化そうとしてるんですか……、あと彼氏じゃないんで」


 未成年の飲酒は法律で固く禁止されています。デスゲーム運営が何言ってんだと思われるかもしれないが、常識から外れて非道な人間になってしまったら、俺の復讐も安っぽくなりそうなので却下だ。俺には俺のライン引きがある。流儀みたいなものだ。


「まったくもう……、だから与一には会わせたくなかったのよ。それに、お父様は私が彼氏を作ることには反対だったんじゃないの? お見合いの話が来るたびに、お相手の写真で焚火していたくせに……」

「そりゃあそうさ。大事な娘だからね。でも、翠と一緒になる相手が与一くんなら話は別だよ。はははは!」

「もう、ホントに調子が良いんだから。それに、大事な娘にデスゲームを強制させるような父親がどこに居るのよ……」


 呆れるように深く溜息を吐く翠だった。そういえば、そんなこともあったな。

 そもそも、俺と翠が知り合ったのが、過去の『ラビリンス』でのことだ。

 確か、父親に参加を強制されたという話だったが、この緑門父を見ていると少しばかり違和感のある話だった。


「確かに僕は、人生経験の一環として翠を『ラビリンス』のデスゲームに送った。もちろん、翠は将来的に立場のある人間になるからね。でもそれも、可愛い子には旅をさせよ、という親心からだ」

「いやでも、本当に親心があるなら、そもそも娘をデスゲームなんかに参加させないんじゃないですかね……?」

「おっと、勘違いしないでくれよ? 僕だって考え無しに、翠をデスゲームに送ったわけじゃない。もしもの時は、『ラビリンス』に金を流して救済する準備もしてあった。まあ、与一くんの活躍のお陰で、その必要は無くなったけどね」


 お茶目にウインクしてきやがる緑門父。

 ん……? ってことは、その頃から一方的に俺のことを知ってたのかよ。道理で緑門父からの好感度が異常に高いわけだ。

 それに加えて、あの時のデスゲームでは翠の無事は確定事項だったのか。

 クソ親父め、あの頃の俺の苦労を返せ。


「つーか、そもそも人生経験なら、別にデスゲームじゃなくても良かったんじゃ……」

「いいや。そこは譲れないよ。何せ、僕自身も『ラビリンス』の経験者だからね。あのゲームで、僕は人間的に大きく成長できたと思っている。だから、多額の救済金を用意してでも、翠にデスゲームを経験してきてほしかったんだよ」

「そ、そうですか……」


 そうか、分かったぞ。さては、こいつもデスゲ脳だな。

 やっぱり、デスゲーム生還者は頭のおかしいやつばっかりだな……

 しかも、まさかデスゲームに戻ってくるのが本人じゃなくて娘とはな。


「コホン。お父様、そろそろ私は与一と二人きりで勉強会に戻りたいのだけれど?」

「ああ、すまなかったね。与一くんとの話が楽しくなってしまって、ついね」


 そう言うと、緑門父は軽い足取りで部屋の外に――出る前に俺の方を振り返った。


「おっと、そうだった。与一くん、野暮なことは言わないから、今日は二人でゆっくりじっくり楽しんでいきなさい」

「いや、今日は遊びに来たんじゃなくて、勉強を――」

「うちは経済的にも余裕があるから、いつ子供が出来ても問題は無いよ。出来れば、早い方が僕としても安心できるかな」

「おい何の話をしてやがるんだ……」


 何故だろうか、知らぬ間に所々の外堀が徐々に埋められている気がするな。

 俺は早くこの愚父を部屋から追い出さなければいけない気がした。むしろ、何なら俺が出て行くまである。帰りてぇな。色んな意味で。


「も、もう、お父様ったら……」

「ははははは! じゃあね。頑張るんだよ、翠!」


 バタンと部屋のドアが閉められた。途端に静かになる部屋。

 そして、頬を紅潮させた翠がもじもじしながら上目遣いで俺に言うのだった。


「えっと……、私の部屋、来る……?」

「行かない」


 端的に断った。俺がそう言うと、翠はむぅっと不満そうな顔で頬を膨らませる。

 今日はあくまで勉強をしに来たのだ。異論は認めない。


 しかし連日のことなので、わざわざ言うまでもないとは思うが、何となくソワソワした雰囲気の中での勉強など身が入るわけも無く、この日の進捗とてイマイチだった。

 くっ、毎度毎度どうしてこんなことに……!

 勉強なんてロクに出来ていないのに、疲労だけが一方的に溜まっていく俺だった。


   ◇


 帰宅後のこと。


「与一くん、なんか無理してないかしら?」


 俺が机に向かって勉強をしていると、隣から心配そうな声音で未来が俺の顔を覗き込んできた。


「まあ、ちょっと……いや、かなり疲れてはいる。でも、テストも近いからな」


 教科書から顔を上げ、両腕を身体ごとぐぐっと伸ばすと嫌な音が鳴る。

 目元もしょぼしょぼするし、確実に身体が疲れを訴えていた。

 そのくせ、テスト範囲の勉強はあまり進んでいない。困ったものだ。


「一旦、休憩にしましょ? そんな状態で勉強しても、疲れるだけで頭に入らないでしょうし」

「まー、それもそうだなー」


 持っていたシャーペンをほっぽり出して、俺はぐでーっとテーブルに身体を預ける。

 マジ疲れた。勉強、マジ嫌い。


 語彙力が溶ける俺だった。今まで『ラビリンス』の権限をフル活用してテストを避けてきた分、余計に勉強という行為が辛い。

 なんか分かんねぇけど、明日にでも世界滅びねぇかな……。思考が謎の現実逃避を始めるのだった。


「与一くん、よく頑張るわね。どういう事情かは知らないけれど」

「まあ、色々と込み入った事情がな。そのうち話すから、それまで待っていてくれ」

「ええ、そうさせてもらうわ」


 優しく微笑む未来。どうやら、信頼してくれている様子。

 そして、テーブルの一辺に鎮座する皿から、チョコを一つ手に取り、それを俺の口元に押し付けてくる。


「でも、あんまり無理をするなら私も止めるわよ?」


 と、意地悪そうな表情で未来は言った。

 俺は押し付けられたチョコを噛み砕き、嚥下してから返事をする。


「ま、多少の無理なら止めてくれるなよ。俺だって退学にはなりたくないし、何よりお前らを退学にさせたくない」

「っ……! よ、与一くん……! そんなにカッコ良いことを言うなんて、よっぽど疲れているのね。可愛そうに……」

「あれー? 俺って、疲れてないとカッコ良いこと言っちゃいけないのか?」

「当然よ。いつもの与一くんなら、もっと捻くれているはずだわ。これは重症ね」


 当然なのかよ……

 疲労度の判断材料に不服があるが、確かに無理をしている自覚が無いわけじゃない。

 ぶっちゃけ、ここまでの精神疲労は久しぶりな気がするな。おそるべし、期末試験。


「まあ、やれるだけ頑張ってみるよ。でも、心配は無用だからな」


 身体をテーブルから持ち上げ、上半身を起き上がらせる俺。

 チョコの糖分が脳へ届いたのか、それとも小休止の甲斐あってか、はたまた未来のお陰なのか……、とにかく少しばかり頭はスッキリした。もう少しだけ、頑張るかなっと。


「んー、そうね。だったら、明日は――」


 未来が小さく何かを呟いたが、それを最後まで聞き取ることは出来なかった。

 何か言ったか、と視線を送っても、未来はただ俺に微笑みを返してくるだけだった。

 まあいいか……


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る