人の子
『嘉良をうちに連れて来い。
その歳まではらから様の子を育てた例は知らねえが、あの忌まわしい神のことはあたしら村の年寄りが誰よりよく知ってる』
ババア――母親からの電話が来た。
受話器を取ると、開口一番母親は私にそう言った。
ぶっきらぼうな言い草だったが、孫の写真に絆されてくれたらしい。
普段なら現金な奴めと悪態の一つもついていたかもしれないけど、今はその言葉がこの世の何よりありがたかった。
「……分かった。今すぐ向かった方がいいよね」
『ああ、今すぐ来い。じゃねえとどんどん人が死ぬぞ』
「嘉良の担任も死んだ。壁に自分で、頭蓋骨が割れるまで頭ぶつけて死んだって」
『それ以外に変わったことはあったか?』
外崎が死んだという連絡を受けたのは今朝、起きがけ一番のことだった。
驚きよりも「またか」という感覚の方が勝った。
ただ、もう一刻の猶予もないことはよく分かった。
その矢先に母からのこの電話だ。重ねて言うが、本当にありがたかった。
「旦那がね、昨日――嘉良が知らない女の子と一緒にいるのを見たらしいの。
色々あってオカルトとか絶対信じない奴なんだけど、顔色真っ青にして歯ガタガタ言わせながら、嘉良を誰かに見せようって」
『旦那と代われるか』
「分かった。今――」
『ああ、その前におめえにも一つ質問しとく。
おめえ、不妊だったんだろ? はらから様に祈りに村(こっち)へ来る前にも、旦那と子作りはしてたんか』
「……してたよ、当たり前でしょ。子どもを作る努力はずっとしてた」
『そうか。分かった』
それが、どうしたってんだよ。
焦る気持ちはあったけど、今母親に当たっても仕方がない。
最後の頼みの綱なのだ。それに、母親は既に何か閃いているような様子だった。
なら、もう全部任せる。全部、言われた通りにする。何を言われても、信じてやる。
半ばやけっぱちのような心境で、あたしはソファに座って何やら俯いていた正志に受話器を渡した。
◆◆
『おめえが叶恵の旦那か』
「あ……は、はい。正志って言います」
『ちっ。あのバカ、親に旦那の名前も伝えねえで。おめえも大変だろ、あいつは能が足りねえ癖して気だけは強えからな』
「そうですね、まあ……。でも叶恵とは仲良くやらせてもらってますよ」
『そうか。おめえがいいなら、いいんだけどよ。迷惑かけたな』
叶恵の母親……お義父さんと話すのはこれが初めてだった。
とはいえ叶恵は酒に酔うと実家の愚痴ばかりになるので、その人となりはよく知ってる。
実際に声を聞いてみると、口調といい声色といい、なるほどあいつの母親だと実感した。
あいつに言ったらキレられそうだけど、よく似てる気がする。機嫌悪い時の叶恵にそっくりだ。
『で。おめえ、嘉良の隣に何を見た?』
「――っ。あ、あれは……」
『落ち着け。男がイモ引くもんでねえ。おめえが見たもん、落ち着いて喋ってみろ』
……昨晩。
叶恵から突拍子もない話を聞かされた俺は、正直いっぱいいっぱいだった。
こんな時につまらねえ作り話してんじゃねえと怒鳴りつけたい気分にもなった。
でもあれは、叶恵の頭で咄嗟に作れる話だとはとても思えなくて。
頭の中が信じたくない自分と信じるしかないだろと諭してくる自分のせめぎ合いでぐちゃぐちゃになって――嘉良の顔でも見て落ち着こうと、思った。
「……ノックして、扉を開けたんです。
そしたらあいつ、電気もつけないでいたみたいで」
だから電気をつけました。
頭の中で、昨日の光景が自動的に再生される。
スイッチを押すなり、ぶんっ……という音がして。
部屋の中が明るくなった。その時、嘉良の隣には――
「何かがいたんです」
『何か、か』
「はい。人の形をしてましたけど、絶対あれは、人じゃない」
もうひとりの、嘉良がいた。
背丈も体格も嘉良と瓜二つだった。
髪の長さも肌の色も、全部同じ。
なのにその顔だけが、違った。
嘉良ではなかった。
「鼻がなかったんです」
漫画のキャラクターみたいに、鼻がなくて。
「目も、眼球が入ってなくて……。
眼窩、って言うんでしたっけ。そこには何か、黒いものがぐるぐるぐるぐる渦を巻いてて」
眼球があるべき場所には、墨汁みたいな黒い何かが渦を巻いていて。
「口はぽっかりと開かれていて、そこも、黒いのが、ぐるぐる、してて……」
口も、それと同じ。
あんぐりと、ではない。
ぽっかりと開かれた口の中で、黒いものが渦巻いていた。
あれは人間の顔じゃない。あんな人間が、いるわけがない。
だからあれは“何か”だ。そう呼ぶのが正しいんだと思う。
人じゃない“何か”。俺たちの幸せな家庭に居てはいけない――やばいもの。
『そうか』
俺の告白を聞いた義母さんは、短くそう言った。
いや、もっと驚けよ。だとか。
それだけ? だとか。言いたいことは色々あった。
だけど俺がそれを言葉にするよりも早く、義母さんが吐き捨てた。
それはまるで。俺と、電話している俺の姿を見つめる叶恵の二人に対する、ひどく冷たい呆れのような声色で。
『それがおめえらの本当の子どもだ』
「――は?」
続いた言葉に、俺は思わず礼儀も弁えずにそう返していた。
「いや、何言ってんすか……。こんな時に冗談とか、マジでやめて下さいよ」
『冗談じゃねえよ。そいつが産まれる筈だった本当の子どもだ』
「じゃあ……なんだ? あんたは――嘉良は産まれるべきじゃなかった子どもだって言うのかよ? えぇ……!?」
『おう、そうだぁ』
声を荒げた俺に対し、義母さんは何処までも静かだった。
呆れと、哀れみと、大きな大きな罪悪感。
それらが入り混じったような声で、義母さんは肯定した。
嘉良は産まれるべきじゃなかった。本当に産まれるべきだったのは、嘉良ではなく。
俺が見た、あの“何か”だと。義母さんは、そう言っている。
『おめえには本当に、謝っても謝り切れねえ。これは全部、叶恵のバカ野郎のせいだ』
◆◆
“はらから様”のルーツについては、現地の村民ですら知らない。
過去の何らかの災禍で、資料が遺失してしまったのか。
それとも敢えて、意図的に後世へそれが伝わることを阻止したのか。
それは今年で御年七十になる倉嶋雛子でさえ知らない。
ただ、はらから様の持つ性質については分かっている。
はらから様は女に子どもを授ける。
しかしそれは神の子だ。
神の子は人の形をしないで産まれてくるし、産んだ母体も出産後遠からぬ内に必ず死ぬ。
産まれた子は村民が絞める。そうでなくとも、長生きをしたという話は伝わっていない。
はらから様は恐ろしいものだ。純然たる善意で神の子を人に孕ませ殺す、慈悲深き死神なのだ。
しかしそれでも、はらから様に祈るものは絶えなかった。
理由は決まっている。はらから様の祀られるかの村において、子を成せない女というのは――“出来損ない”とされてしまうから。
女として産まれたからには子を成すのが役目。
それを満足に果たせないのなら、どれだけ器量のよい妻であろうが出来損ないである。
そんな価値観が当たり前に染み付いた村は、はらから様への参拝者もとい犠牲者を生む絶好の土壌だった。
倉嶋叶恵改め小綿叶恵がそれに縋ったのも、ひとえにこの村で育ってきた故の価値観が根底にあったからだ。
子を成せない女は出来損ないだと、幼い頃からそう教えられてきた叶恵は強迫観念に駆られていた。
不妊治療に狂い、追い詰められ、切迫し、最後にはとうとう出奔した故郷に舞い戻り、はらから様へ祈ることを決めるまでに至ってしまった。
――その時既に、自分の胎に待ちに待った新しい命が芽吹いていたとも知らずに。
『確証はねえ。あくまであたしの考えだ。
それを前提に聞け。叶恵は、恐らくはらから様に祈った時点で既に子どもを孕んでいたんだろう』
「俺の子を……って、ことですか」
『ああ。あいつがトチ狂って不逞でも働いてねえ限りは、おめえの子をだ』
小綿叶恵は、はらから様に祈りを捧げ。
そして祈りは成就した。
叶恵の胎には神の子が宿った。
しかし誤算が一つ。その時既に、叶恵は正志の子を孕んでいた。
はらから様という恐ろしい神に祈るまでもなく。
叶恵の念願は、叶っていたのだ。
そして。
『そして叶恵は、嘉良だけを産んだ』
叶恵は、神の子のみをこの世に産み落とした。
それが小綿嘉良。
小綿夫妻の長女。
では、本来産まれる筈だった人の子は何処へ行ったのか?
その答えは、残酷なほど単純だ。
“双子にはならなかった”、これが全てである。
『流れたんだか、それともあたし達には及びもつかねえ理屈で母体の外に弾き出されたんだかは知らねえが。
本当に産まれる筈だったおめえらの子どもは、あのバカがはらから様から嘉良を授かったことで産まれる前に消されちまった』
当然、叶恵も正志もそんなことは知る由もない。
医者が何も言わなかったということは、胎内に“人の子”の形跡は一切なかったのだろう。
割り込んだ神の子は本来の子どもの存在を完全に消し去って、我が物顔でこの世に生誕した。
嘉良、という名前を授かって。静かに、産声をあげた。
『叶恵から、おめえが嘉良と一緒にいる何かを見たって聞いた時点で“まさか”と思った。
けどよ、おめえの話を聞いて半ば確信したよ。
断言は出来ねえが、恐らく真相はそれだ』
「ちょっ……と、待ってくださいよ。じゃあ――嘉良じゃ、ないんですか? 人をバタバタ死なせてる、諸悪の根源は……」
『ああ』
本来――神の子は人の形をして産まれて来ない。
そして、神の子を出産した母体は恍惚の笑みを浮かべながら死ぬ。
だがその法則性は、小綿母子には適用されていなかった。
その理屈は、正直なところ雛子にも分からない。
強いて理屈を与えるならば、やはりはらから様の社が崩壊したことだろうか。
それがどう作用したのか定かでないが、とにかく人間には及びもつかない何らかの高次の理屈なり偶然なりが働いた結果。
小綿嘉良は人の姿で産まれ、小綿叶恵は命を落とさなかった。
『嘉良だけなら、ひょっとすると普通に生きられたのかもしれねえ』
神の子とその母の物語は、そこで終わっているはずだったのだ。
もしかしたら、神の子である嘉良の寿命は人並みほどはなかったかもしれない。
神のうちとされる七つを超えたはいいものの、生きて大人にはなれなかったのかもしれない。
だが、人生を全うすることはきっと出来た。嘉良だけならば。
『死を振り撒いてんのは、嘉良のせいで産まれ損ねちまった赤ん坊だ』
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