神の子



 そらちゃんといっしょに過ごす時間は驚くほど早く過ぎていきます。

 もう飽きてしまったおもちゃも、おままごとも、ゲームも、漫画も、絵本も。

 なんであれそらちゃんといっしょなら初めて見るもののようにおもしろいのです。

 お母さんがお部屋に置いていってくれた、包み紙で包まれた小さなチョコレートのお菓子。

 それをそらちゃんと一つずつ口に頬張ると、いつもよりずっと甘くておいしくて、ほっぺたが落ちそうなくらい。


「おいしいねえ、から」

「うん。そらちゃんといっしょだと、すっごくおいしい」


 ベッドの上で二人並んで座って、背中を壁にゆだねて。

 肩と肩とをくっつけて、わたしたちは窓の外を見ていました。

 もう時間は夕方の六時を過ぎていて、外はすっかり真っ暗闇です。

 部屋の電気はつけていません。真っ暗な部屋の中で、わたしとそらちゃんが隣り合っています。


「ごはんの前におやつ食べたら、怒られちゃうんだけどね」

「お母さんとお父さんは、からのことをそんなによく怒るの?」

「機嫌がいい時は怒らないよ。でも悪い日はちょっとしたことですごくいろいろ言われるかな」


 お母さんは本当に怒ると物を投げます。

 お父さんは、テーブルをどん!って強く叩くのが好きなイメージです。

 叩かれることもたまにあるので、それだけはめんどくさいかな。

 そう説明すると、そらちゃんはしばらく黙って。

 それから、「そっか」とだけ小さく言いました。

 

「いいなあ」

「? 怒られるのが、うらやましいの?」

「うん。お母さんもお父さんも、わたしのこと見てくれないから」


 そうだ、とわたしは思い出しました。

 そらちゃんは、お母さんやお父さんと離れて暮らしているらしいこと。

 ふくざつなご家庭なのかなとそう思ったのをよく覚えています。

 だからそらちゃんにしたら、お母さんやお父さんといっしょに暮らせてるってだけでもすごくうらやましいのかもしれない。

 そう思うと、悪いことを言っちゃったかなと思えてきて。

 そらちゃんを少しでも元気づけようと、わたしは前々から思っていたあることを言いました。


「そらちゃんも、うちの子どもだったらよかったのにね」


 わたしはひとりっ子です。

 別に妹や弟がほしいわけじゃありません。

 むしろ家の中に人が増えるのは、いやだなあと思います。

 でもそれがそらちゃんなら話は別です。

 わたしのお母さんはそらちゃんのことが嫌いだから、“もしも”の夢でしかないけれど。

 もしそらちゃんがわたしの妹だったなら、どんなに毎日楽しかったことでしょう。

 朝起きてから夜眠るまで、ずっとそらちゃんがそばにいてくれる。

 わたしにとってこれ以上に幸せなことは、ちょっと思いつきません。


 わたしのそんな言葉を聞いたそらちゃんは、にぱっと、わたしの大好きな笑顔で笑って。

 それからわたしに向けて、こう言いました。


「だったらわたし、からのお姉ちゃんだね」

「ええっ。そらちゃんは妹じゃないかな」

「ううん、お姉ちゃんだよ。からがわたしの妹なの」

「そらちゃんがお姉ちゃんは、ちょっと想像できないなあ」

「むーっ。想像できてもできなくても、そういうことになるのっ」


 ほっぺたをぷうっと膨らませて言うそらちゃんがかわいくて、わたしはくすくす笑います。

 そらちゃんには悪いけど、そらちゃんがお姉ちゃんだなんてやっぱり想像できません。

 そらちゃんはいつだって感情豊かで、表情がころころ変わって、からかうと顔を真っ赤にして怒ってくれる子です。

 自分で言うのもなんですが、わたしよりずっと子どもらしいんじゃないかなって思います。


「でもそらちゃんといっしょなら、なんでもいいや」


 お姉ちゃんでも、なんでも。

 大事なのはそらちゃんがそこにいてくれること。

 わたしの、わたしだけの、お友達。

 そらちゃんと出会うまでの毎日をどう過ごしていたのか今じゃさっぱり思い出せません。

 わたしの人生は、すっかりそらちゃんのためだけの人生に変わってしまっていました。


「まだ学校はおやすみなの?」

「うん。だけど学校の人がうちに来るのは、ちょっと嫌かな」

「今日来てたひと?」

「うん。死んじゃったみたいだけど」

「あのひとだけじゃないんだ」

「学校の先生がね、うちによこしたみたいなの」

「そっか」


 そらちゃん、吉田さんが来たことを知ってるんだ。

 それに、死んじゃったみたいって言っても特に驚いた様子はなくて。

 ああ、もしかしたらそらちゃんがどこかにやってくれたのかなあとなんとなくそう思いました。

 そらちゃんはふしぎな子だから。

 わたし以外の誰にも見えないふしぎな子。

 そんなそらちゃんになら、わたしの嫌いな人をどこかにやってしまうこともできるのかもしれません。

 だとしたらそらちゃんは、わたしが思ってるよりもっとずっとすごい子なのかも。


「そらちゃん、わたしね」

「うん」

「そらちゃんのこと、世界で一番だいすきだよ」

「えへへ。わたしも、からのことだいすき」


 ほっぺをこすり合わせながら、そんな分かりきったやり取りをします。

 外崎先生もそろそろいなくなるでしょう。

 それがそらちゃんのせいなのかどうかはわかりませんが、そんな気がしました。

 

 と――その時でした。

 わたしの部屋のドアが、こんこん、とノックされたのは。


「嘉良、起きてたか?」


 お父さんの声です。

 わたしは「いるよ」と返事をしました。 

 慌てなくても、どうせお父さんにもそらちゃんのことは見えません。

 ドアを開けると、お父さんは「なんだ、電気もつけないで」と言って。

 ぱちりとわたしの部屋の電気をつけました。

 そして、お父さんは。



「――――――――――――は?」



 何かすごく、恐ろしいものを見るような。

 ありえないものを見るような目をして、それをこれでもかと見開いていました。

 あれ。わたしは、小首をかしげてしまいます。

 気付くと視線を隣に動かしていました。

 隣に座ったままのそらちゃん。そらちゃんは、お父さんのことを見ています。

 ? あれ。もしかして、お父さん。


「か、ら。おま、おまえ、お前っ、そ、それ――」


 そらちゃんのことが、見えるんでしょうか。


 もしかして、そらちゃんが家族だったらいいなって願いごとまで叶ってしまったのかな。

 だったらそれはとっても嬉しいことです。

 お父さんに聞いてみましょう。そらちゃんが見えるのかどうか。

 そう思った時にはしかし、お父さんはやけに急いだ調子で居間の方に歩いていってしまいました。

 

 だけど、よくよく考えるとお父さんはとても失礼です。

 わたしは、ちょっとむっとしてしまいました。

 そらちゃんが見えるのはいいですが、あんなまるでおばけでも見るような顔をするのは女の子に失礼というものじゃないでしょうか。

 

「ひどいね、そらちゃん」


 そらちゃんは何も言いませんでした。

 何も言わないで、わたしに背を向けたまま。

 ただじぃっと、お父さんの去っていった方向を見つめていました。



◆◆



 るるる、るるるる、るるるるる。

 るるるるる、るるるるる、るるるるる。

 るる、るるる、るるるるるるる、るるるるるる。



 頭が痛かった。

 起き上がってみると目眩までする。

 無理もない、昨日の今日だ。

 小綿嘉良の家に向かわせたカウンセラーが帰りに死んだ。それも、普通の死に方ではなかった。

 また、人が死んだ。

 また、小綿嘉良の周りの人間だ。

 どうなってる。何が起きている――ああ、頭が痛い。寝酒の分量を間違えたか。行きの車で検問に引っかからなければいいが。



 るるる、るるるる、るるるるる。

 るるるるる、るるるるる、るるるるる。

 るる、るるる、るるるるるるる、るるるるるる。



 おまけに耳鳴りもひどい。

 誰かが歌っているようだ。

 俺の頭の中で、誰かがうんと下手くそな歌を歌ってる。

 煩い。煩い、煩い煩い煩い煩い――煩え。

 試しに目の前の壁に、思い切り頭をぶつけてみた。

 ごんっという重い衝撃と、瞼の裏に散る火花。

 痛い。痛かったが、しかし。


「おお」


 頭をぶつけた瞬間に、耳障りな歌がやんだ。

 これはいい。相変わらず頭は痛いが、あの雑音がないだけでもだいぶマシだ。

 しかしそう上手くはいかなかった。

 頭をぶつけたことによる鈍痛が引く頃には、またあの歌が何処からともなく涌いてきた。



 るるる、るるるる、るるるるる。

 るるるるる、るるるるる、るるるるる。

 るる、るるる、るるるるるるる、るるるるるる。



 がん、がん、がん、がん。

 頭をぶつける。歌が止まる。

 また歌が出てくる。ああ鬱陶しい。

 頭をぶつける。がんがんがんがん。歌が止まる。

 しかしいい加減こっちも学習している。

 どうせまたすぐに鳴り始めるに違いない。

 ならもうとことんやってやる。二度と出てこれないようにしてやろう。

 がんがんがんがん。がんがんがんがん。



 るるる、るるるる、るるるるる。

 るるるるる、るるるるる、るるるるる。

 るる、るるる、るるるるるるる、るるるるるる。



 ほら見たことか性懲りもなく鳴り始めやがったこの下手糞め。

 どれだけやろうが無駄だ。がんがんがんがん。ぶつければぶつけただけ歌が治まる。

 ぶつけている間にも聞こえている気がするがきっとこれは気のせいだろう。

 仮にそうだったとしてもそれすら聞こえなくなるくらい打ち付けてやれば関係ないので問題ない。

 ごしゃ、べき、音の質がだんだんと変わるにつれてなんだか気持ちが良くなってきた。

 どうやらやはりまだ昨日の酒が残っているらしい。

 いい気分だ。蕩けるほどにいい気分だ。がんがんがんがん。がんがんがんがん。

 理性だとか責任だとか立場だとかそういう重苦しいしがらみが全部溶けていくような感覚だった。

 溶けていく。気持ちいい。まるで俺という人間を覆っていた殻が破けてそういう鬱陶しい中身が外に漏れていくみたいだ。

 ああきもちいいなあそういえば相沢加代は脳腫瘍で入院しているんだったか脳みそがおかしくなるんならあいつもこんなに気持ちいいことを

 おれよりずっと長くひとりじめして愛して愛して愛していたのか学校を休んで心配もかけてなんて悪いやつだ次の通知表がたのしみだな

 おれも死ぬならああいう病気になって死にたいな加代は当たりくじを引いたってわけかうらやましいなあうらやましいなあうらやましい、

 どうかどうかどうかおれの脳みそも全部おかしくしてください殻の外に。殻の外に。からのそとに。から、から、殻――嘉良?

 


 るるる、るるるる、るるるるる。

 るるるるる、るるるるる、るるるるる。

 るる、るるる、るるるるるるる、るるるるるる。



 あ れ  ちが う な  顔  は 同じ だけど、 なんか ちが



 がんがんがんがん。がんがんがんがん。

 がんがんがんがん。がんがんがんがん。

 がんがんがんがん。がんがんがんがん。がんがんがんがん……



       え    お まえ       だ   れ    



 ――――るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる。



◆◆



 叶恵は昔から生意気なやつだった。

 頭も悪けりゃ要領も今ひとつ悪い。

 自分で家のこと一つ出来ない癖して口ばかりは達者で、口を開けばこの村はクソ溜まりだだの何だのと眠たいことばかり喋るガキだった。

 もう死んでしまった爺さんはとにかくあいつと仲が悪かった。

 事あるごとに手をあげて折檻していたし、叶恵がある程度でかくなってからは取っ組み合いの喧嘩になることだってしばしばあった。

 だけどあいつもいつかは落ち着いて、てめえの身の程ってものを弁えてくれるんだろうと心の何処かで信じていた。


 だがあいつは、叶恵はあたしの想像を越えたバカだった。

 中学校を卒業したその日の内に荷物をまとめて、金を盗んで家出しやがった。

 爺さんはカンカンだったし、あたしもこれ以上ないほど腸が煮えくり返った。

 今まで育ててもらった恩を何だと思ってやがるんだと、怒りを通り越して情けなくすらなった。


 とんだ生まれぞこないだ。あたしは、まともな子どもを産めなかった。

 爺さんはついぞ死ぬまで、叶恵の名前を聞くことすら嫌がっていた。

 近所の連中にも未だに噂話を立てられている。叶恵という失態があるもんだから、でかい口の一つも叩けなくなっちまった。


 そんなガキが、今から十年前。

 家を飛び出して十年とちょっとした頃に、のこのこ帰ってきやがった。

 金でも尽きたかと思ったら、言うに事欠いて“はらから様”に祈りに来たと抜かす。

 人生であの時ほど呆れたことはない。こいつはあの頃と同じかそれ以上のバカになっちまったんだと頭が痛くなった。

 土下座でもして詫びるんなら、受け入れてやらないこともねえと思っていたのに。

 

 

 はらから様はダメだ。

 あれは、確かに神だが良くないものだ。

 いつからあの森にあるのかも分からない。

 あれは確かに施しているつもりなのだろうが、神の目線から行われる施しがあたし達人間の都合に合っているとは限らない。

 同胞(はらから)という名前が一番の証拠だろう。

 あれが産ませるのは人の同胞ではない。神の同胞だ。

 人には神を育てられない。神は人として生きられない。



 その証拠に、あれに祈った女は次から次へと悲惨な末路を辿ってきた。

 よく知っている、何人も何人も見てきた。忘れられるわけがねえ。

 吹き出物の塊のような子ども、皮膚のない子ども、蛇のように曲がりくねった首の子ども。

 見るだけで吐き散らかしたくなるようなおぞましい、醜い赤子を、どいつもこいつも愛おしそうに抱き締めながら死んでいくんだ。

 あのうっとりとした顔の気持ち悪さは、どうにも喩える言葉が思いつかない。


「だから言ったろうが、止めろって……」


 あのバカがはらから様に祈ることを、あたしは止められなかった。

 後ではらから様の社が崩れたって話を聞いたが、あたしにとっては最早全部がどうでもよかった。

 叶恵は死んだだろう。これでうちの汚点はようやく払拭された。ああ、肩の荷が下りた――

 そう思っていたからだ。しかし、バカは運だけは良かったようで。叶恵は、生き残って子を産んでいたらしい。


 だが、結局あいつはあたしに泣きついてきた。

 子どもの周りで人が死ぬ。次から次へと人が死ぬ。

 子どもは気が触れているかもしれない。見えない何かと親の目を盗んでは楽しそうに喋っている。


 そら見たことか、と思った。

 はらから様の社が崩れたことで何かが狂い、命までは取られなかったのだろうが。

 それでも世の中美味い話はない。

 神の子は、人間には育てられない。神の子は、人間の社会では生きられない。

 現にこうして辻褄が合おうとしてる。十年越しに、神の子を産んだツケを支払わされようとしている。

 

 あたしの知ったことではない。

 ようやく社が壊れて、あの腐れ神に祈るバカが出ることもなくなったんだ。

 あたしはもう二度と、はらから様には関わりたくない。

 だから叶恵の電話は話を聞くだけ聞いて切ってやった。

 知ったことじゃねえ。おめえはあたしとは赤の他人だ。三行半を突きつけてやった。

 せいせいしたが、叶恵の阿呆。泣き落としのつもりなのか、あたしに何やら郵便を送ってきやがった。


 どうした。金でも詰めたか。

 あのバカの考えそうなことだ。

 薄い封筒を開けて中身を机の上に出すと、一枚の写真が落ちてきた。


「……何なんだ、あのバカ娘は。今更こんなもん見せやがって」


 そこに写っているのは一人の子どもだった。

 ソファにちょこんと座って、ソフトクリームを食べている子ども。

 黒い髪に白い肌、大きな目にどこか空寒い表情。

 そのくせ口の周りにクリームをべっとり付けているのが妙に滑稽だ。

 写真の枠の外に、『嘉良』と書いてある。名前か、これは。

 

 ひと目見て分かった。

 こりゃ、神の子だ。

 人の顔をしていない。

 人の子は、こんな人形みてえな表情(かお)はしねえ。

 あのバカ、本当に神の子を産みやがったんだ。

 そして今まで、育ててきやがったんだ。

 バカが。旦那も何考えてやがる。自分にも母親にも似てねえガキが産まれた時点で気付け、阿呆。

 

「爺さん、もう死んじまったよ……」


 おぞましい。穢らわしい。

 今更、こんな孫の顔なんぞ見せてきやがって。

 とことんまでに親不孝者だ。

 どうしようもねえ、クソ娘が。


 あたしはその写真を、仏壇まで持っていった。

 爺さんが眠る仏壇。叶恵とは最後まで仲が悪かった爺さん。

 ほらよ、見れ。孫の顔だぞ、あのバカ、とんでもねえガキを産みやがったぞ。

 なあ、爺さん……。

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