帰宅
そらちゃんとわたしがいつ出会ったのかは、実はあんまり覚えていません。
去年は外で誰かと遊んだ記憶がまったくないので、多分今年のことだと思います。
うっかりお母さんにそらちゃんのことを話してしまったのが夏休みの始まる前だったはずなので、そらちゃんとの出会いは春の終わりごろか、夏の始まりごろだったのかもしれません。
でも、どうやって出会ったのかはやっぱりよく思い出せないのです。
いつのまにか、気付いたらそらちゃんと遊ぶようになっていたような。そんな気が、します。
ベッドの上からちらっと壁掛け時計に目を向けると、もう時計の針はてっぺんの「12」を過ぎていました。
日付が変わるまで夜更かしするなんて、大人に知られたらきっと怒られてしまうでしょう。
でもわたしだって好きで夜更かししているわけではありません。
眠れないのです。前にそらちゃんのことで怒られ、お外で遊ぶのを禁止されていた時も毎日こうだった気がします。
そらちゃんと遊んでいることがばれてから、もう五日も経ちました。
お母さんの言いつけ通り、学校には行っていません。お父さんも行くなと言っています。
でも、たまに昼間玄関の方からお母さんの怒鳴り声が聞こえるので、先生はわたしの様子を見に来てくれているみたいでした。
家から出られない、そらちゃんと遊べない、ただ簡単な問題集を解いてゲームして漫画を読むだけの毎日。
退屈です。本当につまらなくて、ついついお昼寝をしてしまうので、夜眠れないのはそのせいなのかもしれません。
そらちゃんに会いたい。
そらちゃんに会いたいです。
そらちゃんに会えれば、声を聞ければ、こんな退屈な気持ちなんて吹っ飛ぶのに。
はあ、とため息をついて。わたしは、目をもう一度瞑り直しました。
こうしていたって明日起きるのがつらくなるだけです。
学校に行けないのに、お母さんはわたしが遅くまで寝ていると怒りますし。
目を瞑って、なるべくなにも考えないようにして。
意識がようやくふわふわとし始めた頃──わたしの耳が、小さな音を聞き取りました。
こん、こん。
「あ……」
それは、とても。
とても小さな音だったので、きっと、こんな夜中じゃなかったら聞き取れなかったでしょう。
でも、わたしは確かにその音を聴きました。
そして、こう思ったのです。
そらちゃんだ。
そらちゃんが、会いに来てくれたんだ──。
「そらちゃんっ」
勢いよく部屋を飛び出そうとして、思い止まります。
あんまり大きな音を立ててしまったら、お母さんたちを起こしてしまうかもしれません。
だからなるべくゆっくり、そっと扉を開けて。
そろりそろりと静かな足取りで、廊下の電気もつけないで玄関まで向かって。
そこでまた、とんとん、と音がしました。
扉の磨りガラス越しに、小さな影が見えます。
見間違えるわけがありません。この背丈も、体格も。
間違いなく、わたしの大好きなそらちゃんのそれでした。
「そらちゃん──だよね。会いに来てくれたの?」
「うん。からに何かあったんじゃないかと思って、心配になって」
「ごめんね……お母さんに、お外で遊んじゃダメって言われて。そらちゃんスマホ持ってないから、連絡もできなかったの」
「あはは。お母さん、厳しいって言ってたもんねえ」
そらちゃんは特に落ち込んだり拗ねたりしている様子もなく、いつも通りです。
外は寒いだろうし、早く中に入れてあげなきゃ。
そう思って扉に近付いて、あれ、と思いました。
鍵とチェーンが外れているのです。
わたしの両親はとても防犯意識が高くて、ちょっと外に出る時にも必ず鍵をかけます。
家にいる時だって、お父さんが帰ってきていようが必ずチェーンをかけます。
それなのに、よりによって寝ている間という一番危ない時間帯に、チェーンどころか普通の鍵すらかけてないなんて。
珍しいこともあるもんだなぁ、と思いました。
「寒いでしょ。鍵開いてるから、静かにドアを開けてね」
「あけて」
「え?」
「からが、あけて」
ああ。
もし音を立ててわたしのお母さんたちを起こしてしまったらと、怖がってるのかな。
そう思ったわたしは、ごめんごめん、と謝りながら静かにドアを開けてあげます。
それでもぎぃぃ……という音は鳴ってしまい、心臓がどきりと跳ねました。
でも幸い、二階の方から物音はしません。お母さんたちが起きてくる様子は、ありません。
「ありがと。から」
「うん。いらっしゃい、そらちゃん」
ドアの隙間から、ぴょん、とそらちゃんがお家の中に入ってきました。
友達を自分の家にあげるのは、生まれて初めての経験です。
今度は磨りガラス越しではない、面と向かって見る何日かぶりのそらちゃん。
ドアの磨りガラス越しに差し込む月明かりだけに照らされた彼女はいつも通りの人懐っこい笑顔を浮かべています。
ああ──そらちゃん。かわいいなあ、かわいいなあ。
「わたしの部屋に行こう。いつかそらちゃんを招待したいと思ってたんだ」
「わたしも、このおうちに来てみたいとずっと思ってた」
くすくす、くすくす。
ふたりぶんの、押し殺した笑い声が夜の廊下に小さく響きます。
部屋のドアを開けて、中にそらちゃんを入れた瞬間のなんとも言えない感覚は二度と忘れられそうにありません。
真夜中に、大好きな友達と秘密の遊びをする。
その状況に、わたしはらしくもなくわくわくしてしまっていたのです。
「これがからの部屋なんだ。結構広いね」
「あんまり部屋にはいないんだけどね。普段は、宿題やる時と寝る時くらいしか使ってないよ」
「えぇ〜、もったいないなぁ。自分だけの部屋なんて、秘密基地みたいで楽しそうなのに」
「そうでもないよ。鍵もないし、あと今の時期は寒いしね」
ぽふん、とわたしのベッドに座ったそらちゃん。
その隣にわたしも座ると、そらちゃんがかくんと寄りかかってきました。
甘えんぼさんだなあと頭を撫でてあげれば、そらちゃんはこそばゆそうに目を細めます。
「それにしてもそらちゃん、よくわたしのお家わかったね」
「この間教えてくれたじゃない」
そういえばこの間、この辺りをそらちゃんと散歩した時に、あれがわたしのお家だよ、ってちょっと遠くからだけど指で示してあげたんでした。
でもまさか、こんな夜遅くにひとりでやってきてくれるとは思いませんでした。
そこでわたしは、前々からそらちゃんに聞きたかった質問を投げかけてみることにしました。
「そらちゃんのお母さんとお父さん、どんな人なの?」
「ふふ、ないしょ」
「えー。……でも、めんどくさくなさそうでいいね。こんな時間に抜けてこれるなんて」
「うん。わたしの近くにはいないからね」
「……ふくざつなご家庭?」
そらちゃんはにこにこ笑っていましたが、あんまり触れられたくないお話なのかな、と思いました。
だから話を切り替えて、今のわたしの話をすることにします。
「わたしね、今学校行ってないんだ」
「え、なんで?」
「お母さんもお父さんも行くなって言うの。遊びに行くのも禁止されてるから、最近はずーっとお家でゲームか勉強、ときどき漫画」
「うえー……つまんなそー……」
「うん。そらちゃんと遊んでる方がずっと楽しいよ」
そらちゃんと毎日朝から晩まで遊べるなら、学校になんか行けなくたって全然いいんですけどね。
そんなことを考えた時、ふと、あることが気になりました。
「そういえばそらちゃん、明日になったら帰っちゃうの?」
「ううん。これからはね、お外じゃなくても遊べるよ」
「わたしのお家でも?」
「うん。お家でも、お部屋でも、お風呂でも。どこでも遊びにいけるから」
「そらちゃんは、ほんとに不思議な子だね」
「えへへ」
そらちゃんは何者なんでしょう。
わからないけど、わからなくてもいいや、と思います。
だって、わたしの隣でころころと可愛らしく笑っているそらちゃんは、誰がなんと言おうとわたしの一番の宝物なんですから。
それから。
わたしたちはあれこれ、他愛ないことを話して。
そうしているうちにわたしがだんだん眠くなってきたので、そらちゃんと一緒に毛布にくるまって、寝ることにしました。
自分以外の誰かと一緒に寝るのはとてもあったかくて、ほわほわして、なんだか久しぶりに気持ちよく眠れそうな気がしました。
「おやすみ、─────」
そらちゃんが何か言った気がしましたが、その時にはもうわたしの頭はふわふわしていて、何を言ったのかはわかりませんでした。
何も考えられなくなりながら、そらちゃんをぎゅっと抱きしめて、わたしはただ眠ったのです。
◆◆
「ふあ」
目が覚めて、身体をベッドから起こして。
伸びをして──あれ、と思いました。
「そらちゃん?」
そらちゃんが、どこにもいないのです。
確かに一緒に毛布にくるまって眠ったはずなのに、影も形も見当たりません。
もしかして、ゆうべのあれは夢だったのかな。
なんて一瞬思いましたが、ちがう、あれは夢じゃないよ、とわたしの中のわたしがそう訴えかけてきます。
その証拠に。わたしは今、そらちゃんと会えない間感じていた寂しさのようなものを、まったく感じていませんでした。
だってそらちゃんは昨日、言っていたんですから。
これからはお外じゃなくても、どこででも一緒に遊べる──遊びに行ける、と。
ならきっと、すぐにそらちゃんはまたわたしの前に顔を出してくれるに違いありません。
そう考えると寂しく感じるどころか、わくわくすらしてきます。
そらちゃんがまた遊びに来る前に今日のお勉強を終わらせておかないと、と自然と気合いも入りました。
「お母さん、おはよう」
「……おはよ、嘉良」
起きて台所に行くと、お母さんは少し疲れたような顔をしていました。
昨日あまりよく眠れなかったのでしょうか。
一瞬、そらちゃんを中に入れたことがばれたのかなとも思いましたが、そういうわけではなさそうなので安心しました。
顔を洗って、歯を磨いて、朝ごはんを食べます。
クロワッサンを牛乳で流し込んだら、ごちそうさまの挨拶をしてまた部屋に。
正直なところ、家に居てもそらちゃんと遊ぶことができるようになった今、お母さんのご機嫌を取る必要は別にありません。
でもやっぱりどうせ遊ぶなら外がいいし、何より言うことを聞かずにお母さんを怒らせてしまうのは面倒です。
なのでわたしは、昨日までと変わらずちゃんと勉強をすることにしました。
正直、お勉強することは別に苦ではありません。
覚えればいいだけの簡単なものなので、いじわる問題が並んだなぞなぞの本なんかよりよっぽど楽に解けます。
今日はそらちゃん来るかなあ。
もし来たら、何して遊ぼうかなあ……なんて考えながらドリルを進めていると、だんだんトイレに行きたくなってきました。
席を立って、廊下に出て、居間の隣を通るとき。
イライラした様子で、お母さんが誰かと電話しているのが聞こえました。
「あのですね、嘉良が学校に行けなくなったのは元はと言えばあなたがしっかりしてないからなんですよ? なんで私たち親が悪いみたいになってるんですか!?」
ああ、外崎先生と電話してるのかな。
でも、わたしが学校に行けなくなった、っていうのは少し違う気がします。
わたしはあくまで、お母さんたちに言われて行かなくなっただけなんですよね。
お母さんが学校に行ってほしいと言うなら、行っても全然構わないんですけど。
「……スクールカウンセラー? はい、えぇ──……そうですか、分かりました。学校に行けない子どもに対して先生が一番最初に取るやり方は他力本願なんですね。私ね、今まであなたほど頼りない先生は見たことがないですよ」
まあ、どうでもいいや。
そう思ってわたしは、トイレへ向かおうと一回止めた足を動かし始めます。
そんな去り際のわたしの耳に飛び込んできたのは、思わず「うえぇ」と声を出してしまいそうになるようなお母さんの言葉でした。
「じゃあ、その吉田さんってカウンセラーの方が午後に来るんですね? 分かりました。その方だけなら家に上げても構いません」
スクールカウンセラー。吉田さん。
改めて聞くまで名前は忘れていましたが、何故かあの人がお昼から家に来るそうです。
せっかく午前中にお勉強を全部終わらせて、午後からはそらちゃんを待ちつつのんびりする予定だったのに。
これじゃ全部台無しです──ああ、もう。
めんどくさいなあ。
◆◆
「嘉良ちゃん、久しぶり。元気にしてた?」
「はい。特に変わったところはありません」
お昼ご飯を食べて、いつもならお昼寝を始める頃。
吉田さんは本当にわたしの家にやってきました。
一応外崎先生と教頭先生も一緒に来たみたいでしたが、玄関先でお母さんがすごく怒っていたので、たぶんあの人たちは上がってはこないでしょう。
吉田さんは少し気まずそうな笑顔でお母さんに頭を下げると、わたしの方を見て、「お部屋でお話したいな」と言いました。
まさか嫌です、なんて言うわけにもいきません。
そうなったら吉田さんは良くても、お母さんが怒り出すでしょうから。
仕方がないのでこくんと頷いて、わたしは吉田さんを自分の部屋まで案内して……そうしてこんな風に何の味もしない会話をしているのでした。
「お外で遊んだりはしてるの? それとも、ずっとお家の中?」
「外遊びはしばらくやめなさいって、お母さんに言われてるので」
「そうなんだー……あ。これってあれだよね、ニンテンドースイッチ。嘉良ちゃん、ゲーム好きなの?」
「はい。好きですよ」
「そうなんだ。私もたまにだけどやるんだよ、ゲーム。嘉良ちゃんはどんなゲームが好きなの?」
「マリオとか、格闘ゲームとかですかね」
カウンセラー、というのは心に問題を抱えた人の悩みを取り除いてあげるのが仕事だと、何かのテレビ番組で聞いたことがあります。
なら、このお話も吉田さんによるわたしへのカウンセリングの一環なのでしょう。
そうわかった上で吉田さんのお話に耳を傾けると、なんとも言えず空しい気持ちになります。
「じゃあ嘉良ちゃんにもうひとつ質問。嘉良ちゃんは、好きなスポーツとかある?」
「ないです。身体を動かすのは得意じゃないので」
「えー、もったいないよ。よかったら今度のお休みの日にでも、私と一緒に身体動かしてみない?」
「……、……」
──めんどくさいなあ、これ。
早く終わってほしいのですが、どうもこの人は、わたしの特にありもしない心の傷を埋め合わせようと張り切っているようで。
このままだと、まだまだ時間がかかりそうでした。
かと言ってわたしがもういやです、帰ってくださいなんて言うわけにもいきません。
どうしようかなあ、と思いながら話に応じていたのですが、どうもわたしのそんな内心は声色に出てしまっていたみたいで。
「私とお話するの、つまんない?」
「そんなことはないです」
「いいよ、無理しなくても。こういうお仕事してるとね、なんとなくわかるんだ」
急に吉田さんは、そんなことを言い出しました。
怒られたらめんどくさいなと思いましたが、そういう様子でもなさそうです。
ちょっと困ったように笑って、吉田さんは今までとはまったく逆に、目の前のわたしに対して“踏み込む”質問をしてきました。
「嘉良ちゃん。この間お話したとき、嘘……ついてたよね」
「そんなことはないです」
「ごめんね、外崎先生から聞いたんだ。嘉良ちゃんが言ってた子たちと仲良くしてる様子はなかった、って」
「…………」
まあ、外崎先生に直接聞かれたらそりゃばれちゃいますよね。
琴藤さんはともかく、若林さんなんかたぶん一回も話したことないですし。
となると、この人はもうわたしがみんなが言うところの“友達ごっこ”を本当はしていると確信しているんでしょう。
友達ごっこなんかじゃなく、そらちゃんというとても大切な友達と本当に遊んでいるんですけどね。はあ。
「ねえ、嘉良ちゃん」
「はい」
「嘉良ちゃんは、“お友達”のことが大好きなんだね」
「はい。なので、入ってこないでもらえませんか」
ここまで知られてしまったのなら、もう隠す必要もないでしょう。
わたしとしても嘘をつかなくていいのは気が楽でした。
つまんない人ほど、わたしのつく嘘を見抜いてしまいます。
だからわたしは、正直に話して。
その上で、この人を拒むことに決めたのでした。
「……そんなこと言われたら悲しいなあ。私も嘉良ちゃんのお友達にしてほしいんだけど、ダメかな?」
「はい。わたしは吉田さんのことが好きじゃないので、友達にはしたくないです」
「……、……そっか。
じゃあ、私のことは嫌いでもいいからさ。その子の他にもお友達を作ってみるつもりはない?
いつもおんなじ子とだけ遊んでるより、いろんな子と遊んだ方が絶対楽しいと思うよ!」
「いらないです」
それは、自分でもびっくりしてしまうほど冷たい声でした。
でも言いすぎちゃったかなとか、そういう申し訳ない気持ちはまったく湧きません。
「それは……、みんなが嘉良ちゃんに意地悪するから?」
吉田さんは悲しそうな顔をしながら、眉をハの字にしておずおずと質問してきました。
ああ、そういう考え方もできるんだ。
わたしはちょっとびっくりしてしまいました。
その発想は、わたしの中にはまったく無かったものだったからです。
そういえば、わたしはいろんな子に意地悪をされてきました。
石をぶつけられたり、机を蹴っ飛ばされたり、ランドセルの中身をごみ箱に捨てられたり、ロッカーに閉じ込められたり。
言われてみれば確かに、“みんな”のことを嫌いになるには十分な理由です。
「はい。そうですよ」
ちょうどいいので、そういうことにしようと思いました。
どういう顔をしようか迷ったのですが、とりあえず笑っておきます。
すると吉田さんは何を言うでもなく、その場で固まってしまいました。
自分で質問しておいて、そうだと認められたら困ってしまうなんて、本当に勝手な人なんだなあ。
「みんながわたしに意地悪するのでわたしはみんなのことがきらいなんです。
だから、みんなとはお友達になりたくありません。
わざわざおうちまで来てもらったのにごめんなさい。そういうことなので、よろしくおねがいします」
「……嘉良ちゃん。あなたは――」
そんな気持ちが、もしかしたら漏れ出してしまっていたのかもしれません。
吉田さんは何を言ったらいいかわからないような顔をしていました。
なんでもいいので、話がまだあるなら早くしてほしいなと思いました。
なので、よくないと分かってはいるのですが、わたしはついつい急かしてしまいます。
「なんですか?」
「えっと、その……、……ううん。
ごめんね、やっぱりなんでもない。今日はいろいろお話聞かせてくれてありがとうね」
「はあ」
なんでもないなら、いいんですけど。
吉田さんはかばんを持って、わたしにわざとらしい笑顔を向けました。
「今日はもう帰るけど、何かお話したいことがあったらいつでも外崎先生に伝えてね。
そしたら私、いつでも来るから」
「ありがとうございます」
もう来ないでくださいと言ってもよかったんですが、あんまり失礼なことを言ってお母さんに知られたらめんどくさいのでやめました。
逆に言えば、わたしが呼ばなかったらもう二度とここには来ないってことかもしれませんし。
もう二度と会うことがありませんように、と思いながら、ぺこりと一応頭を下げておきます。
吉田さんは手を振りながら、わたしの部屋から帰っていきました。
ああ、めんどくさかった。
ベッドにぼふんと横になって、ぼーっと窓の外に広がる空を眺めます。
空――そらちゃん。今日は、ここに来ないのかなあ。
吉田さんなんかよりそらちゃんに来てほしいです。
そらちゃんならいつでも来てほしいし、いつまでだって居てくれて構わないのに。
どうして楽しいことばっかりしながら生きられないんだろう。
人生っていうのは本当に、思い通りにならなくてむかつくなあと思いました。
◆◆
私は、決してカウンセラーとしての歴が長い方ではない。むしろこの業種では若手の方だと思う。
経験も浅いし、正直自分みたいな若輩が一人でデリケートな子どもの心に寄り添うなんて荷が重いといつも感じている。
ひどいいじめに遭った子と話すと我が事のように心が痛むし、意図せずその心の傷に塩を塗り込んでしまわないか怖くて怖くて仕方がない。
そのくせ給料だって決して高くはない。割に合う額だとは、少なくとも私は思えなかった。
でも、自分がカウンセリングした子が調子を取り戻していくのには他の何物にも代え難い喜びがあった。
だからなんとか続けられている。
今から転職するとなるとこのご時世じゃしんどいだろうし、せめて少しずつでもこなれていけたらいいなあと思いながら仕事をしてきた。
その中で、いろんな子どもを見てきた。
いじめられている子、家庭環境に問題のある子、自分の性自認に悩む子、ひねくれている子。
生まれつき障害があって、それに対する周囲の不理解に苦しむ子。本当に、いろいろな子どもと話をしてきた。
――だけど、あんな子を見たのは初めてだった。
小綿嘉良ちゃん。いじめに遭っている小学四年生。イマジナリーコンパニオンを持つ女の子。
言っては悪いけど、ありふれたケースだと思った。
イマジナリーコンパニオンの影響による周囲との不和。
そのせいでどんどん自分の殻に閉じ籠もってしまうという悪循環が起きているのだろうと、そう思っていた。
最初に会った時も、変わった子だとは思ったけれど――それ以上の印象になることはなかった。
でも、今日実際に家まで行って顔を合わせて、話し合ってみて分かった。
あの子は、普通じゃない。
それはきっと、この仕事をしている人間が絶対に言ってはいけない言葉。
でも私はそう思わずにいられなかった。
あの子は、私が今まで面談してきたどの子どもとも違う。
何かが。言葉では説明できないけど、何かが、おかしい。
「……普通の小学生は、あんな顔しないでしょ」
いじめに遭っている子どもは、それを認めたがらない場合がほとんどだ。
だから、直接的にそう聞くのは基本的にタブーである。
だけどあまりにも堅い心の檻に閉じ籠もってしまっている場合は、荒療治だと分かっていても、そうでもして取り付く島を作らなければいけないこともある――カウンセラーになったばかりの頃に、定年退職間際の先輩から聞いたテクニックだった。
本当はやりたくなかった。でもあの子は本当に深く閉じ籠もってしまっているみたいだったから、仕方なく核心を突いた。
そしたら。
あの子は、笑って答えた。
『そうです』と。
本当に形だけの、相手に合わせるためだとすぐに分かるような温度のない笑顔を浮かべて。
まるで、“都合のいい口実を見つけた”とばかりに即答してみせた。
みんなが意地悪するから、わたしはみんなが嫌いです。
だからみんなとはお友達になりたくありません――やっぱり、作文でも読み上げるみたいに淡々と。
そう答える姿を見て、私は。背中の毛穴が粟立つのを堪えられなかった。
あの子は、ダメかもしれない。
私の手には負えないかもしれない。
情けないけれど、私はもう半ば諦めの境地にいた。
学校に戻ったら外崎先生に頭を下げて、その旨伝えよう。
このまま私が面談を続けても、きっとためにならない。
――お互いにとって。
あの子は何なんだろう。
まるで、機械か何かと話しているみたいだった。
そのくらい、異様だった。
カウンセラーを始めてからどころか、人生を通してだってあんな子に……あんな人には会ったことがない。
深入りしたくなかった。もう、あの子と会いたくなかった。
それが噴飯されてもおかしくない言語道断の物言いなのは承知の上で、私はあの子どもから逃げたかった。
早く帰ろう。帰って、また心機一転新たな子どもに向き合おう。
そう思って足を進めている内に。ふと、違和感を覚えた。
「――あれ」
この家、こんなに広かったっけ。
もう一分くらいは歩いている気がする。
あの子どもの部屋を出て、どうにも気の強そうな母親に軽く報告をしに行こうとしていた筈だ。
なのにいつまで経っても一向に居間に続く扉が見えてこない。
「は……はあ……?」
意味が分からなかった。
進んでも進んでもずっと壁が続いている。
後ろを見返せば、もうあの子どもの部屋も見えなかった。
なんで? なに? どうなってる?
それに。この家は、こんなに暗かっただろうか?
薄暗い。仄暗い。
暗い――冥(くら)い。
真っ昼間だし、確かに明るい筈なのに。
光の有無だけでは表現の利かない、冥い廊下が私の前後に果てしなく広がっている。
耳朶を叩く耳障りな音が自分の呼吸の音だと気付いた瞬間、私はポケットからスマートフォンを取り出していた。
電源が点かない。そんな筈はない。この家に来る前に確認した時は、まだ80%以上充電が残っていた筈だ。
なんだ? どうした? 何が起こってる?
私。いま。どこにいるの?
うんともすんとも言わないスマートフォンを苛立ちまじりに仕舞った。
そして前を向いた時、私の口からは「ひゅっ」という喘鳴みたいな声が出た。
廊下の向こうに、女の子が立っている。
肩口ほどまで伸びた髪。真っ白なワンピース。
歳の平均よりも幾らか小さい背丈、細い輪郭。
後ろで手を組んで、その子は笑っていた。
「か……」
声がうまく出なかった。
喉がからからに乾いて、言葉を発するだけで痛かった。
「嘉良、ちゃん……?」
驚いた。驚いたけれど、その姿は私にとって希望の光だった。
よかった、一人じゃない。
この家の人間であるこの子に付いていけばいいじゃないか。
私が勝手にどこかで迷ってしまっていただけだ。
この子に案内してもらおう。嘉良ちゃんは私に向かって相変わらずにこにこと笑っている。
迷子になった客人が面白くて笑っているんだろう。
なんだ、あの子もやっぱり子どもなんだ。だってほらその証拠に、笑った顔はあんなにかわいい――
「え」
近付いていこうとしていた足が止まった。
気付いてはいけないことに、気付いてしまったから。
「誰」
あの子は、こんな顔で笑わない。
こんな人懐っこそうに笑わない。
年頃の子どもみたいに笑わない。
あの子はもっと機械みたいに笑ってて。
だから私はぞっとして、でも今わたしの前にいるこの子は本当に普通の子どもみたいに笑ってて。
「誰なの、ねえ」
あの子の妹? お姉ちゃん?
そんな筈ない、あの子は一人っ子だ。
家の中で迷う? 一本道だったのに? 曲がり角一つ曲がっていないのに?
気休めのかさぶたがべりべりと乱暴に剥がされていく。
「答えなさいよぉッ」
叫びながら、私は転んだ。
足がもつれて尻餅をついた。
そんな私に、あの子そっくりの誰かは近付いてきて。
逃げたくても身体が言うことを聞いてくれない私の顔を、覗き込んで。
私はそこで初めてその目を見た。
暗い目だった。冥い目だった。
水で薄めた墨汁みたいな。
人間がしてはいけない目をしていた。
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
「るるるるるるるるるるるるるるるるるるる」
歌声が聞こえる。
この子が歌ってるのか。
まるで黒板を爪でこするみたいな、ひどい不協わ音が、何重にもおりり、おり重なって、ちちち小いいさな口かららら漏れ出てくるるるるる。
わたしは、ぼくは、おれは、うちは、あやこは、それを、それを、それを、き、きいて、
きいて、きいて、きいちゃ、きいて、だめ、だめ、きいて、きいて、だめ、きいて、きいて、きけ。
あ、あっ、あぅ、あああああ、ああああ、る、るるるる、るるるるるるる、るるるるるるるるるるるるるるる
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
るるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるるる
「えーんが ちょっ」
はあい。
かえります。
◆◆
トイレに行って部屋に戻るとき。
居間の方から、お母さんが電話をしている声が聞こえてきました。
お父さんに電話をしているようですが、ずいぶんあわてています。
わたしが聞き耳を立ててることを考えないくらいなので、大あわてと言っていいでしょう。
吉田さんが死んだみたいでした。
がっかりしました。どうせ盗み聞きするなら、もっと楽しいお話がよかったので。
でも部屋に戻ると、わたしはぱあっと笑顔になりました。
わたしのベッドの上にちょこんと座って、そらちゃんが手を振っていたからです。
「今日はなにして遊ぼっか」
なんでもいいです。
なんだって、そらちゃんといっしょなら楽しいのをわたしは知っていました。
やっぱりそらちゃんがいないとつまらないです。
あーあ、世界がわたしとそらちゃんだけになったらいいのになあ。
そしたら大好きな、世界で一番かわいいそらちゃんとずっといっしょにいられるのに。
ないものねだりのわがままだと分かっていても、わたしはそう思わずにはいられませんでした。
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