第19話 契約破棄

 準備は着々と進んでいた。

 ゼロは、パタリとスーツケースの蓋を閉じる。

 窓から差し込む朝日が、とても明るく感じられた。

 待ちに待った、春がやってきたのだ。

 長年身を包んできた執事服を丁寧に畳み、ゼロはそれを整えたベッドの上に置いた。

 まずは、シェフや女中頭に別れの挨拶に向かう。

「あ、ゼロさん! 今朝は、ゆっくりなんですね……」

 女中の一人がゼロの姿を見つけ、言葉をかけた。

 いつもならとっくに仕事をし始めているゼロの姿が見えず、女中はおかしいなと感じ始めているところだった。

「……また、ご旅行ですか?」

 いつもと違う、私服のジャケット姿。それに、傍らのスーツケース。

 その姿に、女中は首を傾げた。

「辞めるんです、執事を」

 ゼロは、そんな女中に向かって優しく微笑んで見せた。

「え……」

 その台詞を聞いた女中は、そのまま言葉を失い固まった。

 ゼロは先にシェフに別れの挨拶をし、次に女中頭の部屋を訪ねる。

「また、急な……」

 眉を顰めてしばし黙り込んだ後、女中頭は呟くように言った。

「奥様は、あなたの辞表をすんなり受け取られたのですか?」

 とても、そうするとは思えないけれど。

「辞表は、今から出します」

「今からですか!」

 女中頭は叫んだ。

「まあ、しかし……」

 はぁとため息を吐き、女中頭は言った。

「いい頃合いだったかもしれません……」

「いい頃合いですか?」

 首を傾げるゼロに対し、女中頭はデスクの棚をガサゴソと漁り、ニ枚の紙片を取り出した。

「ご覧なさい、これを」

 トン、と指先で示された紙片を手にし、ゼロは視線を落とした。

 そこには、数字のニと三が羅列していた。

「これは……成績表ですね……」

「そうです。エリーお嬢様と、アニーお嬢様のね」

 ちなみに、と女中頭は続ける。

「それは、五段階評価ではなく、十段階評価です……勿論、数字が大きい方が優秀という意味ですよ」

 ゼロは、思わず口許を抑えた。

 ゼロは知らなかった。

 確かに、毎日だらけきった生活をしているとは思っていたが、ここまでとは……

「申しわけありません」

 素直に、ゼロは謝罪を口にする。

「まったくです。あなたはお嬢様方に対して、甘すぎでしたからね!」

 少し怒ったように、女中頭は言った。

「これからのことは、私にお任せなさい。ビシバシと教育し直しますから」

「はい、よろしくお願いします」

 ゼロは深々と頭を下げた。

「……あなたはまだ若いのに、十分頑張りましたよ。今度は、自分自身の為に時間をお使いなさい。若さは、永遠ではないのだから」

 ちなみに、女中頭はゼロが家人に毒を盛っていたことを知らない。

 それを知ったら、こんなにありがたい言葉を言うだろうか……

 ゼロは感謝を述べながら、ほんの少し後ろめたさを感じていた。

 女中頭の部屋から退出すると、ゼロは女中達にわっと囲まれた。

 一番最初にゼロから退職すると話を聞いた女中が、仲間に言いふらしたからだった。

 女中達は『早すぎます』とか『聞いてないです』とか『辞めないでください』とか『働き甲斐がなくなります』など、口々に叫んだ。

「うるさいわね、朝からなんなのよ……」

 その騒ぎを聞きつけたエリーが、ボサボサの頭のまま不機嫌そうな顔を自室のドアからのぞき見せた。

「あぁ、なにゼロ、その格好は……また海外旅行にでも行くのぉ? 行ってもいいけど、朝のお茶を淹れてからにしてよ」

 ふあ、とあくびをしながら、エリーは不満気にゼロに向かって言った。

「エリーお嬢様」

 ツカツカとエリーに近づいてひざまづき、ゼロはその寝ぼけ眼をじっと見つめた。

「今日で、私はこの屋敷の執事を辞めます。長い間、お世話になりました。後のことは、女中頭にお任せしてありますので、ご心配なきよう」

「……はあ? なんの冗談よ」

「冗談ではございません」

 言い、ゼロは内ポケットから白い封筒を取り出した。

 そこには、辞表、の二文字が記されていた。

 バッとエリーの手がそれを掴む前に、ゼロはさっと元の内ポケットにしまい込む。

「そ、そんなもの、お母様が受け取るはずがないわ! 待ちなさいよ! ゼロ!」

 目の前から立ち去っていくその背に向かって、エリーは叫んだ。

「そうだ、言い忘れていましたが」

 振り返り、ゼロは微笑した。

「ゼロ、という名は先程捨てました。私の名は、レオンです」

「……え……なに、それ……」

 ゼロ、ではなく、レオンが言っていることが理解できずにエリーは呟いた。

 レオンはエリーに構わず、くるりと踵を返す。

 エリーはその様に、ハッとした表情になって慌てて姉アニーの部屋の扉を叩いた。

「お姉様、起きて! 大変なの、ゼロが!」

「なによう……うるさいわね……」

 やはりこちらも寝ぼけ眼のアニーが、ぼんやりと言った。

「はあ? 執事を辞める?」

 アニーは叫んだ。

「ゼロはどこ!」

「た、多分、お母様のお部屋……辞表、持ってたから」

 二人の娘は、慌てて母の寝室に向かった。

「おはようございます、奥様」

 気だるい雰囲気の部屋で、この家の女主人キャシーは、未だベッドの中にいた。

 レオンは、彼女が女中を呼び出す時に使う卓上の呼び鈴を連打した。

「え……なに……」

 もぞもぞと、ようやくキャシーが目を覚まし、体を起こす。

「ゼロ?」

 レオンは、閉めきられていたカーテンをバッと開いた。

「眩し……」

 途端に、明るい陽光が辺り一面を照らし出す。

「ゼロ……いったい何事ですか」

 あまりの眩しさに、手で光を遮りながらキャシーは問うた。

「奥様、只今を持ちまして、私はあなたとの契約を破棄し、この屋敷を出ていきます」

 高らかに、ゼロは宣言した。

「え? なにを言っているの?」

 眩しさに眉をしかめながら、キャシーは言った。

「辞表です、奥様」

 ベッドサイドに腰掛け、レオンは内ポケットから取り出した封筒をキャシーに差し出した。

「……そんなもの……私が受け取ると思って?」

「奥様がお受け取りにならなくても、私はこの家を出て行きますので、現実は変わりませんよ」

 レオンの言葉に、キャシーはハッと目を見開いた。

 本気だ。本気で、ゼロはこの屋敷から出ていく気なんだ。

「お待ちなさい!」

 ベッドサイドに辞表を置き、部屋から出ていこうとするレオンの背中に、キャシーは叫んだ。

「許しません……許すもんですか……あなたは、私の……」

 わなわなと体を震わせるキャシーを振り返り、レオンは、デスクの上にポケットの中身を並べ始めた。 

「なに、これは……」

 それは個包装のビニール袋に入った、草やキノコや木片だった。

「触っても結構ですが、中身を直に触ったり、匂いを嗅ぐのはお勧めできません」

 言われ、キャシーはそれらに伸ばしかけた手をビクリと震わせる。

「な……まさか……これは……」

「毒と、その解毒薬です」

「ゼロ……まさか……」

「この際ですから、洗いざらい吐いてから、ここを出て行こうと思いましてね」

 レオンは、ニヤリと口許を歪めた。

「内密にしておりましたが、実は私、毒や薬に大変興味がありましてね。恐れながら、これまでに奥様やお嬢様方には、被験者として協力して頂いておりました」

 もちろん、とレオンは付け加える。

「許可は、頂いておりませんが」

 キャシーは、怒りと驚きにわなわなと体を震わせた。

「なんて恐ろしいことを……まさか、今までのアレルギーはこれが原因なの?」

「左様でございます、奥様。ですので、今後奇妙なアレルギー症状が出ましたら、それは本物のアレルギーということです」

「け、警察に訴えます!」

 蒼白な顔で、キャシーは金切り声をあげた。

「殺そうと思えば、いつでも殺せた……」

 ゼロの低く暗い呟きに、キャシーはハッとした。

「あなたは、私になにをしてきましたか? 奥様?」

 問われ、キャシーは蒼白な顔のまま、視線をレオンから背けた。

「私は、あなたの亡くなったご主人ではないのですよ」

 わざとゆったりした口調で、レオンは言った。

「もう、あなたの人形にはならない」

「に、人形だなんて……だって、だって……あなただって、私を拒まなかったじゃない!」

 叫び、キャシーは口許に手を当てた。

「……そうですね……あなたを拒めば……あなたを殺してしまえば、もっと早く私は自由になれた……そうしなかった責任は、私にもあります」

 レオンは、じっとキャシーの瞳を見つめた。

 キャシーの全身に、冷たい汗が浮き出てくる。

「これ以上私をここに引き止めれば、次こそ私はなにをするかわかりませんよ。もちろん、あなたの大事なお嬢様方の命を奪うことにも、私はもう躊躇致しません」

「……そんな……」

 キャシーは、言葉を失った。

 もとより、これまで目の前の青年に繰り返してきた仕打ちを、いいことだったとは思っていない。

 罪だとわかっていても、自分の欲を満たすことを優先してしまった。

「寂しかったのでしょう、奥様」

 そっと、レオンはその耳元に囁いた。

「しかし、私はあなたの大切なご主人ではない……ご主人は、とうに亡くなられているのですから……」

 ハッとキャシーは目を見開いた。

「どうぞこれからは、その寂しさを埋めてくれるお方をお探しください……それに、二人のお嬢様方の成長も、あなたの寂しさを埋める手伝いをしてくれることでしょう」

 レオンはすっと身を引き、踵を返した。

 そして、バッと部屋の扉を開けると、盗み聞きをしていたアニーとエリーの二人が転がり入ってきた。

「お、お母様」

 バツの悪そうな表情で、二人の娘は体裁を整えた。

 キャシーは無言でそんな二人の娘を見た。

 もう、この青年を執事としてこの屋敷に縛りつけておくことはできない。

 母の表情が、それを語っていた。

「そんな……」

「アニーお嬢様、エリーお嬢様」

「許さないわよ……たとえお母様がお許しになったって、私は許さないんだから!」

 アニーが強張った表情で叫んだ。

「私がここにいれば、お嬢様方は堕落していく一方です。それは、けしてあなた方の為にはなりません」

 堕落、という部分に二人はぎくりと体を震わせる。

「よろしいですか? お二人は、今後このお屋敷にふさわしいお相手と出会い、結ばれなければなりません」

 諭すような口調で、レオンは二人に言う。

「え……いや……そうだけど」

 アニーは口籠った。

「それなりのご身分の紳士を射止めるには、今の数倍努力せねば、追いつきません! 特に、アニーお嬢様!」

 名を呼ばれ、アニーはピンと体を緊張させた。

 まったくもって、耳が痛い話題であった。

「あ……わ、わかってるって……お願い、それ以上言わないで」

「そうですか。これからは、女中頭がビシバシとお二人をお育てしてくださるようですから、私も安心してこの屋敷を後にできます」

 にっこりと笑って、レオンは言った。

 きゃー……

 声なき叫び声が、こだまする。

 ちらり、アニーとエリーは視線を交わした。

「どうぞ、お二人共……これからは嘘偽りの恋ではなく、本当に心からお慕いできる、素敵な方と出会いますように……もちろん、その方からも思いが返ってくるような、素敵なレディになられることも、お祈りしていますよ」

「……」

 もはや、二人は声すら出なかった。

 今までレオンの優しさに甘えきっていたのは、自分達でもよくわかっていたからだ。

 はぁ、と三人の女性は同時にため息を吐いたのだった。


「見事だ、さすが役者だな」

 屋敷の門をくぐったところで、天使はレオンを待ち構えていた。

「見ていたんですか……相変わらず、いやらしいですね」

「なにを言っている。待ちに待った、お前の晴れ舞台ではないか。見ないわけにいくまい」

 クスクスと笑い、天使は言った。

「念の為に言っておきますが、先程あの人たちに言い残してきたことは、私の本音ですよ」

 少し不服そうに、レオンは言った。

「そうか……お前、優しいやつだったんだな」

「……今頃気づいたんですか……それから、私はゼロの名を捨てました」

 ピタリと足を止め、レオンは天使と向き合った。

「私の名は、レオンです」

「……ふむ、よかろう」

 天使は口許に笑みを浮かべながら頷くと、目を細めてレオンの額に手を翳す。

 その途端、レオンの体に異変が起き始めた。

「くっ」

 レオンは、不快感に顔を歪める。

 それは、体中の血管やリンパ節が焼け付くような感覚だった。

 体に刻み込まれていた、天使との契約が破棄されていく痛みだ。

 しばらくすると、次第にその感覚がなくなっていく。

 レオンは額の冷や汗を拭い、ほっと安堵のため息を吐いた。

「さあ、もうこれで、お前は自由だ」

 ニヤリと笑って天使は言った。

「はい……これでもう、今後あなたと会うこともなくなりますね」

 レオンが、ぽつりと言った。

「……寂しいか?」

 言い、天使は笑った。

「冗談じゃありませんよ、せいせいします」

 ゆっくりと、レオンは歩き始める。

「どうか、お幸せに……」

 レオンは、天使に向かって呟いた。

 その言葉を贈るのが、精一杯だった。

 ……おれは、無力だ……

 あの日天使が言った『区切りをつける』とは、どういう意味なのか。

 それをうっすらとわかっているレオンは、自分の無力さに打ちひしがれていた。

 その後ろ姿を見送りながら、天使は清々しい笑顔を浮かべていた。

 お前も、幸せにな……

 胸の内で、天使はレオンに言葉を贈る。

 そして、まばゆいばかりの天上を見上げた。

 次は、私が再出発する番だ。

 天使は穏やかな表情で、真っ白な背の翼を羽ばたかせた。

 己の命運尽きる、天上に向かって。

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