第14話 光
「ここでなら、落ち着いて話せる」
そこは海を見下ろせる小高い丘だった。
潮風が緋亜のくせっ毛を揺らして、通り過ぎる。
いざ、こうして緋亜を目の前にしてしまうと、ゼロはなにから話していいのかわからなくなっていた。
そんなゼロの瞳をじっと見つめた後で、緋亜はにこりと微笑んだ。
「私の名は緋亜。さっき、サヤ姉から聞いたと思うけど、多分二十二歳の、魂が見えて、魂とコンタクトとれて、火の精霊を使える人間だ!」
一気に自己紹介する緋亜に、ゼロは怯んだ。
「あ、私の名はゼロといいます」
やっと、思い出したように名を名乗る。
「ゼロ?」
その答えに、緋亜は眉根を寄せて首を傾げた。
「なぜ偽名を使うんだ? 役者でもやってるのか?」
「いえ……少し、訳がありまして……」
答えづらそうに、ゼロは言った。
「ふぅん……そうか……まあ、お前が本当の名前をなかったことにしていないなら、それでいいけど」
ぎくり、ゼロの心が震えた。
なかったことにしている。思い出すのが辛いからと、過去の記憶と共に心の奥底深くに沈めているのだ。
それを、見透かされているのだろうか。
「じゃあ、ひとまずはゼロと呼ぶ」
黙り込んだゼロに緋亜は真顔で言った。
「はい」
「ゼロは、私に会う為にこの島に来たんだろう?」
緋亜の指摘に、ゼロは息を呑んだ。
「……なぜ、それを知っているのですか?」
「それは、私がゼロのことを頼まれたからだよ」
「頼まれた? いったい、誰にですか?」
ゼロは神妙な面持ちで訊ねる。
「ゼロの後ろにいる、ゼロにそっくりな女の人にだよ。多分、ゼロのお母さんだと思う」
思わず、ゼロは後ろを振り返った。
「私の言っていること、嘘だと思うか?」
緋亜は、じっとゼロの瞳を見つめる。
「……いいえ、信じることにします」
「一昨日の夜に私のところに来て、近々現れるだろう息子を救って欲しい、と言われた」
母さん……
ゼロは眉根を寄せて俯いた。
「私の力が誰かの役に立つのなら、私はなんでもするつもりで生きている」
そう言いと、緋亜はゼロの腹に手をあてた。
その瞬間、緋亜の手を通してあたたかななにかが自分の中に流れ込んでくるような気がした。
「ここに、真っ黒い渦がある。どろどろして、深くて大きい渦だ」
はあ、と緋亜はため息をついた。
そして、ゼロの黒い切れ長の瞳を見上げる。
「今まで、どれだけ傷ついてきたのか……しかも、自分の感情をずっと押し殺してきただろ? このままだと、自分から生まれた毒で自分が死んでしまう」
初めてゼロと会った時、と緋亜は続けた。
「よく今まで生きてきたな、と言ったのはそういう意味だ……なあ、ゼロ……」
訴えかけるように、緋亜は言う。
「嫌な事されたらさ……悲しいし、苦しいし、頭にくる、それは人間として当たり前の事なんだ。湧き出るその感情に、蓋をしてはだめなんだ。それは吐いて外に出さなくちゃいけないものだ。吐いていいんだ……怒っていいんだぞ、ゼロ」
バッ、とゼロの脳裏に陰惨な記憶が蘇る。
そのどれもが、ぐしゃりと捻り潰したいと思う程のものだった。
ゼロは地面に膝をつき、うなだれた。
その体を、緋亜はぎゅうっと抱きしめる。
しんと静まり返った空間に、ザザンッという波打ち際の音だけが繰り返し響き渡る。
ぐるぐると回る、身の内の黒い渦。その存在には、大分前から気がついていた。だが、これまでどうすることもできずにいたのだ。
緋亜の全身から伝わってくる温もりが、ゼロの心をかき乱し黒い何かを散らしていくような気がした。
気がつけば、ゼロは縋るように緋亜の服を握りしめていた。
「苦しかった……ずっと……」
驚くほどにすんなりと、心からの声がゼロの口からこぼれ落ちる。
それは微かな声だったが、確実に緋亜の耳に届いていた。
「うん、よく頑張ったよ、レオ……あ、ごめん間違えた。ゼロだった」
慌てて言葉を訂正する緋亜に、クスリとゼロは笑って緋亜の体から手を離した。
「ありがとうございます。もう、大丈夫です」
立ちあがって膝についた土ぼこりを払い、ゼロは穏やかな笑みを浮かべた。
それを見た緋亜は、ホッとしたような表情になる。
「なあ、ゼロ。お前、なんでそこにいるんだ?」
緋亜は真剣な面持ちで言った。!
「辛いなら、今いる場所を変えればいい。もし行くあてがないなら、この島に来ればいい。仕事も家も、私がなんとでもするから」
だから、と緋亜は言った。
「もうこれ以上、傷つかないでくれ。今いる場所に居続ければ、同じことの繰り返しになってしまう」
緋亜の言葉に、ゼロは黙り込む。緋亜の言う事は正しい。だが、ゼロの仕事は屋敷の執事業だけではない。
迷った末、ゼロは口を開いた。
「……私は、仕事を二つ持っているんです」
ゼロは無言で、ジャケットの内ポケットから拳銃を取り出した。
それは、四大精霊が宿る“幻の銃”と呼ばれるものである。
それを見た緋亜が、ハッとした表情になった。
「それ……こないだ来た、キラキラ頭の鳥人間が持ってたやつだ」
「そのキラキラ頭の鳥人間は、私の雇い主なんですよ」
緋亜の表現に思わず苦笑しつつ、ゼロは言った。
「雇い主?」
「私は、この銃の指南役をしているんです。緋亜さんも、指南役をやらないかと声をかけられたでしょう? だけど、あなたはそれを断った。それが悔しくて、私のところで当たり散らしたんですよ、その鳥人間は」
「え、そうなのか」
緋亜は微かに眉根を寄せた。
「まあ、お陰で私は緋亜さんのことを知って、今ここにいるんですが」
「あぁ、なるほどなあ……そういえば、なんかすっごく怒ってたもんなぁ、あの時」
緋亜は、その当時の事を思い出す。
「あいつなあ、真っ黒だったぞ、腹ん中。ゼロほどじゃないけど。だから、あれからずっと心配してるんだ」
「心配……するんですか」
ゼロは驚いた。
「うん……なんか、もっと自由に生きてほしいなって思ってる」
その緋亜の言葉は、ゼロにも当てはまった。
ゼロは微かに瞳を細める。
「なかなか難しいですよね……自由に生きるというのは」
「そうかなあ……でも、たとえどんなに難しかったとしても、自分の心がどんどんダメになっていくより、挑戦した方がいいよ。あ、ゼロもだよ」
う、とゼロは言葉に詰まる。
認めたくはなかったが、ゼロと天使は似たような環境にいる似た者同士ということだった。
「それに、その指南役という仕事は、あまりいい仕事じゃない。やめたほうがいい」
表情を曇らせ、緋亜は言った。
「これは、誰かを傷つける為の道具ですからね」
「それに、ゼロも傷つく」
「私は……私の場合は……私は、傷ついてもいいんです」
「なんで?」
緋亜は唇を尖らせた。
「私は、執事という立場を利用して、家の者に毒を盛っているからです。もちろん、それなりの仕打ちを受けているので、お互い様なんですが」
自嘲気味の笑みを浮かべ、ゼロは言う。
「どっちも幸せになれないなら、そのどちらもやめるべきだ」
緋亜は強い口調で言い切った。
「でも……いまさら……」
いまさら、光の道を歩むなどムシが良すぎないか。
言い淀むゼロに、緋亜は笑った。
「今が人生の内で一番早いんだ。決めるなら、今だ。ゼロ、今すぐ決めろ!」
「……緋亜さんは、せっかちですね」
ゼロはため息を吐きつつ苦笑した。
緋亜の気持ちはまっすぐで、それに抗うことはゼロには難しいことだった。
「少し考えます。大丈夫です。私は今日、あなたに出会えましたから」
「うん……私が力になれることがあったら、なんでも言ってくれ。必ず、助けるから」
「はい、ありがとうございます」
私はもう、既に助けられていますから。
口には出さず、ゼロは思う。
まずは、と脳裏に天使を思い浮かべ、ゼロは考えた。
体に刻みこまれた、天使との契約を破る。
辞表を、屋敷の女主人キャシーに叩きつける。
この国で仕事を探し、永住する。
このプランを遂行したら、どうなるだろうか。
まず、天使は怒るだろう。
そして女主人キャシーも、同じように怒るに違いない。怒りのあまり、殺されかねないとも思える。
だが、それらにうまくケリをつけられたら。
この島で仕事を見つけ、永住する。そうすれば、その先ずっと緋亜の近くにいられるのだ。
あの力強くあたたかな、光の近くに……
そこまで考えた後、ふっと浮かんだのは先程の酒屋で緋亜の後ろにいた異形の島の娘だった。
彼女は明らかにゼロのことを警戒していた。
あの時『後で家で会おう』と緋亜は言っていた……緋亜の家の近くに住んでいるのか、それとも……
「あの……先程一緒にいた碧い肌の色をした方は、異国の方ですよね?」
「アオのことか? アオは父との一人娘で、今一緒に住んでるんだ。あ、父とっていうのは、私の育ての父のことだ」
「そうなんですか……」
そう言いながら、ゼロは考えを巡らせる。
「アオには、ちょっとワケがあって……生まれ故郷の島に帰れないんだ」
「なるほど、それで……では、その方に仕事を紹介したのも緋亜さんなんですね?」
ゼロの問に、緋亜は頷いてみせた。
「そのアオさんに、私は少し警戒されているような気がしたんです」
「あぁ、アオは心配性だから、ゼロが私になにかするんじゃないかって、思ったんじゃないかな?」
「まあ確かに、私は得体のしれない外国人ですからね」
ゼロは少し自嘲気味に笑った。
「知らないなら、これから知ればいいだけだ。なんてことはないよ。それに、ゼロはいい人だ」
いい人……身の内にこれほど、どす黒いものを抱えているというのに?
「緋亜さん、そんな簡単に私のことを信じていいのですか?」
「うん。だってあの時、私に怒らなかったからな」
「あの時?」
「私がドンッて突っ込んだのに、怒るどころか心配してた」
緋亜はにっこりと微笑んだ。
それを見て、ゼロは初めて緋亜と会った時の事を思い出した。
ゼロと緋亜は、道の真ん中で正面衝突したのだ。
「もしかして……あれは、ワザとだったんですか?」
「うん。ぶつかった相手が自分より弱い子どもや女や年寄りだった時、すごく怒るやつがいるんだ。試すようなことをしてごめん」
緋亜は少し悪びれたような表情を浮かべたが、すぐに笑顔に戻った。
「でも、ゼロは短気を起こす人じゃなかった……えーと、なんて言う? 紳士、だっけ?」
緋亜から紳士的だと言われ、ゼロははにかんだような笑みを浮かべた。
「あの時は、私の方がよそ見をしていましたし……でも、緋亜さんがそう言ってくれるのは嬉しいです」
「うん。それにゼロは、私のことをすぐに信用してくれた……よく、信じたな? 亡くなった人の話とか、信じない人の方が多いんだけど」
「そう……ですよね……」
ふと、ゼロは疑問に思う。
自分は、あのアオという娘のように警戒心が強い人間だと思っていたが。
「名前のことを、まっ先に言われたからかもしれません」
「あぁ、名前か……ゼロのお父さんとお母さんが、ありったけの思いを込めてつけた名前な」
途端にゼロの胸に後ろめたさが浮かぶ。
そんな大事な名を、思い出さないようにしてきたからだ。
「正直、少し羨ましい。私は、私を産んでくれた親を知らないんだ。昔は、名前もなかった。五歳くらいの時に、死にそうだったところを父とに助けられて、サヤ姉が緋亜って名前をつけてくれたんだ」
「死にそう、ですか……なぜ?」
ゼロは眉根を寄せ、声のトーンを落とした。
「生贄って、知ってるか?」
その単語の持つ意味に、ゼロの胸がドキリと高鳴る。
ゼロの国には、望みを叶える見返りとして魔族に家畜などを供物として捧げた、という言い伝えがあった。だが、生贄とは生きている状態で捧げ物にされるということだ。
それはより残酷だとゼロは思った。
「はい、知っています。いったい誰がそんなことを?」
「……まあ、誰とは言わない。この街から遠く離れた所だし……仕方ない事情があったんだ。そうしなければ、あの村の人たちは餓死してしまうって思ったんだから。誰だって、飢え死になんてしたくないもんな」
表情を曇らせているゼロに、緋亜は笑ってみせた。
「怒らないのですか?」
緋亜の笑顔に、ゼロは少し呆気に取られた。
「他人の命を使って、自分達だけが助かろうだなんて、とても酷いことだと思うのですが」
「うーん……でも、きっとあの人達は他に解決方法を知らなかったと思う」
腕組みをし、緋亜は真面目に考えこんで言う。そしてパアッと輝くような笑顔を浮かべた。
ゼロは一瞬でその笑顔に引き込まれる。
「それに、私は父とやサヤ姉に出会えて幸せだったから……今はアオが一緒にいてくれるから、寂しくないしね。だからかな、なんであの時! とか、あまり思わないんだ」
今幸せだから、なにもいらない。
ふと、ゼロは以前聞いた天使の言葉を思い出した。
なにが欲しい? と問われ、緋亜が天使に向かって答えた言葉だ。
今が幸せなら、か……
その一言をゼロは胸の内で噛みしめる。
「なあ、ゼロ……私は、ゼロのお母さんが『忘れてほしくない』って言ってる方の名前を使って欲しいなって思ってる。色々、事情があるとは思うけど」
「……はい」
ゼロは微笑を浮かべて頷き、眼下の海原に目をやった。
おれも、幸せになりたい。彼女のように、他になにもいらないと言えるくらい、幸せに……
ゼロは思い、そして考える。
自分はその為になにをすべきなのか……
「よく、考えます」
緋亜を振り返り、ゼロは爽やかな笑みを浮かべてそう言ったのだった。
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