第11話 異国の茶葉

 名は捨てた。

 心の奥底深く沈めて、その上に分厚い石を何重にも乗せていく感覚。

 思い出すと胸が押しつぶされる、幼い頃の甘い記憶。

 父と母の笑顔。父の広い背中、台所に立つ母の背中……怒った父の顔、優しい母の子守唄……沢山の思い出達。

 それらを、名と共に葬る。

 これから先、生きていく地獄の道には、それは苦しみにしかならないから。

 ゼロは一人、さよならを告げていた。


「本日の朝のお茶は、異国の珍しいものでございます」

 毎朝の慣例、寝起きの茶。

 その色はいつもは透明な赤茶なのだが、今朝は少し濁りのあるグリーンだ。

「嗅いだことのない香りね……悪くはないけど」

 次女エリーは、毎朝のように気が済むまでゼロにベタベタとくっついた後、カップのお茶に口をつけた。

「味も違うのね……悪くないわ……」

「それは、良うございました」

 言い、ゼロは涼やかな笑みを浮かべる。

 その後、同じ茶を長女アニーにも淹れた。

 異変が起きたのは、アニーの部屋からゼロが退出して五分ほど経った頃だ。

「たっ、助けっ」

 激しく咳き込みながら、まともに立つこともできないエリーが、涙を浮かべながら部屋から這いずり出てきた。

「エリーお嬢様!」

 ゼロは血相を変え、エリーに駆け寄る。

「ゼ、ゼロ……くるし……」

 ゼロに抱き起こされた、エリーがぜいぜいと息を切らしながら言った。

 騒ぎを聞きつけた女中達が続々と集まってくる。

「一体どうしたのかしら……それより、どうすればいいのかわからないわ」

 女中達は、オロオロするばかりだ。

 とその時、バンッと大きな音をたてて長女アニーの部屋の扉が開いた。

 その姿を見た女中達は、一斉に小さく悲鳴をあげる。

 アニーの髪はボサボサに乱れ、見開かれたその目は血走り、呼吸は激しく乱れていた。

 ゼロはエリーの世話係に水を持ってこさせ、ポケットから取り出した丸薬を飲ませるよう指示をした。

 アニーの世話係にも、同じように指示を出す。

「な、なにかのご病気でしょうか」

 ハラハラしながら、女中の一人がゼロに問う。

「詳しくはわかりませんが……お嬢様お二人にしか症状が現れていないので、現時点では感染症ではないと思われますが」

 ゼロは眉根を寄せ、女中の問に答えた。

 感染症、という部分に女中は青くなる。

「ひとまず、呼吸が楽になるように、応急処置の薬を服用して頂きましたので、じき呼吸は楽になるはずです」

 ゼロの説明に、女中はひとまずほっとした表情になった。

「何事なの!」

 騒ぎに気がついた女主人キャシーが、寝間着にローブを羽織って現れた。

 そして、それぞれの世話係に介抱されている娘二人を見たキャシーの顔色が真っ青になる。

「これは……どういうことなの?」

 キャシーはこの屋敷の執事たるゼロに問う。

「ハッキリとした原因はこれから調べます、奥様」

 恭しく頭を下げ、ゼロはキャシーの問に答えた。

「そんな……アニー! エリー! しっかりして!」

 キャシーはゼロの言葉を聞くやいなや、アニーの許に駆けていく。

「ゼロ、いったいこれはどうしたことです?」

 五十歳を超える女中頭が、困ったような視線をゼロに送る。

「なぜお嬢様達が呼吸困難に陥ったのか、その原因はわかりません……今後のこともありますから、今回の原因になりそうなものを片っ端から探し出し、一つ一つその可能性を潰していくしかありません。ご安心を、私が指揮を取ります」

 ゼロはきっぱりとした口調で女中頭に言った。

「わかりました。事後のことはあなたに任せます。お医者様には連絡を入れさせたので、直にお見えになるでしょう」

 キラリと銀縁眼鏡の奥の知的な瞳を光らせ、女中頭は頷いた。

「原因究明には時間がかかると思われます。一度治まったとしても、再び症状が出るかもしれません。その時には、この薬を飲ませてください」

 ゼロは言い、丸薬の入った茶色の小瓶を女中頭に手渡した。

「あとはお医者様の到着を待ちましょう」

 ゼロの言葉に女中達は頷き、エリーとアニーはそれぞれの部屋に運ばれて行った。

「お医者様は、いつ頃到着予定ですか?」

 ゼロは女中頭に問う。

「まだ開業時間前ですが『緊急事態だ』と伝えたらすぐにこちらに向かってくださるとおっしゃられたそうですよ」

「わかりました。では、私は玄関で待機しています」

 ゼロはさっと踵を返し、玄関に向かったのだった。


 この家のかかりつけ医は、少し小太りの中年の男だ。

 まだ開業時間前ではあったが、度々呼び出されるこの屋敷の娘達の一大事とあって、医師は慌てふためいた様子でやってきた。

「ドクター、朝早くから申し訳ございません」

 ゼロが謝罪しながら医師を出迎える。

「あぁ、ゼロ君! 今回は何事かね?」

 馬車から降りると、すぐさま医師は訊ねた。

「はい、呼吸困難などの症状がお嬢様お二人にのみ見受けらます」

 ゼロは医師を先導しながら説明した。

「そうか……しかしなんだってまた急に……ところで、いつものリストはあるかな?」

「はい、こちらです」

 ゼロは予め用意していた紙片をポケットから取り出し、医師に手渡した。

 そこには、娘二人が飲食したものや庭の植物について書かれている。

「……君、これはなんだね?」

 早足で歩いていた医師は、立ち止まってゼロに訊ねた。

 医師は紙片に書き込まれた物質の一つを指さしている。

「あぁ、これは……」

 ゼロも足を止めてその紙片を覗き込んだ。

「とある東洋の島国の茶葉です」

「東洋? そんなもの、いったいどこで買ったのかね?」

 医師は眉根を寄せた。

「はい。先日、海外の珍しい品を取り扱っていた商人から購入致しました」

「そうか……ならば、市場に出回っているというわけではないのだね」

 ゼロの答えに、ふむ、と医師が顎に手を当てた。

「このお茶が、お嬢様達の体調不良の原因なのでしょうか?」

 ゼロが神妙な表情になる。

「いや、調べてみないと断定できないが……とりあえず、話は後にしよう。娘さん達の様子が心配だ」

 医師は再び早足で歩き始めた。

「あぁ、先生!」

 医師の姿を見つけたキャシーが、すがるような視線を向けながら駆け寄ってくる。

「あぁ、これは奥様」

「先生、早く! こっちです!」

 キャシーは強引に医師の腕を掴み、長女アニーの部屋へ入っていく。

 医師はアニーを一通り診察し、血液を採取した。

「ゼロ君、いつもの薬を飲ませたんだよね?」

 医師が部屋の扉の前で控えているゼロに訊ねた。

「はい、症状がみられてからすぐに、丸薬を飲んで頂きました」

「うん、呼吸はひとまず安定しているようだが、やはり原因を特定しなくてはならないな」

 ふぅと息を吐いて医師はカルテに文字を書き綴った。

「先生、娘はどうなりますか?」

 キャシーは必死な面持ちで医師に問う。

「えっと……ゼロ君から薬をもらったようですので、急変しない限り命を落とすことはないかと思われます」

「急変しない限り、ですって!」

 医師の答えにキャシーは金切り声をあげた。

「奥様、今の時点ではなにかしらのアレルギーではないか、という診断しかできません。あとは採取した血液を使って、原因を探っていくしかないですよ」

「でも、急変するかもしれないのでしょう!」

 ガシッと医師の腕を握りしめ、キャシーはブルブルと震えた。

「そ、その可能性はゼロではないですな。あ、あくまで可能性の話ですぞ」

 しかし、医師の言葉を耳にしてもキャシーは一向に落ち着かず、いらいらとその金髪を掻きむしった。

「この娘達になにかあったら、私は、私は……」

 うっ、とキャシーはアニーのベッドに突っ伏した。

「奥様、ご安心ください!」

 二人の前でそう叫んだのは、ゼロであった。

「この私が、責任を持って東洋の国に渡り、解決策を探して参ります」

 キャシーに傅きながら、ゼロは言った。

「東洋?」

 涙声のキャシーが問う。

「はい、今朝お嬢様方にお淹れした、東洋産の茶葉がアレルギーの原因になっている可能性があるのです……その茶葉を購入してきたのは私です……これは、私の責任なのです」

 悔しそうに、ゼロは表情を歪める。

「それは……仕方がありません……まさかお茶でアレルギーが出るなんて、思いもしないでしょう」

 小さな声で、キャシーがボソボソと言った。

「あぁ、奥様! なんと寛大なお言葉……しかし、私は自分の愚かな行動の責任をとりたいのです。私があのお茶を購入したりしなければ、こんなことにはならなかったのですから」

「ゼロ……」

 キャシーは、哀れむような視線をゼロに送る。

「え? ゼロ君、まだあのお茶が原因だと決まったわけじゃないよね?」

 医師は訝しむような視線をゼロに向ける。

「なにをおっしゃいます、先生!」

 キッ、とゼロは医師を睨んだ。

「国外の食物がこの国の人々の体に合わないという可能性は、非常に高いのではないかと私は推測致します!」

 それに、とゼロは続ける。

「あの商人からこのお茶を購入したのは私だけ、とも限りませんし……」

「あぁ、まぁ……それはそうだよね……」

 ふむ、と医師は顎に手を当てた。

「今後、我が家のお嬢様以外の方がアレルギー症状に苦しまないとも限りません。ですので、早急に私が茶葉の産地に行ってまいります」

「あぁ、そう……」

 ゼロの熱意に、医師はそれ以上何も言えなくなる。

「ご安心ください、先生。私には薬の知識がありますし、現地の言葉もマスターしております」 

「ほぉ、それは頼もしい」

 医師は感嘆の声をあげた。

「向こうに行けば、我が国にはない薬も手に入れることができます。もしかしたら、お嬢様方の症状も、よくなるかもしれません」

 ということで奥様、とゼロはキャシーに視線を向けた。

「私に、十日間の暇をください」

「わかりました」

 キャシーは、神妙な面持ちで即答した。

「この娘達の命はあなたの手にかかっているのです。頼みましたよ、ゼロ。一日でも早く原因を突き止めて、帰国するように」

「かしこまりました」

 深々と頭を下げるゼロを、医師は無言で見つめていた。


 パタリと、ゼロは応接間の扉を閉めた。

「……ゼロ君、君の気持ちはわからんでもないが……」

 医師は声をひそめて言った。

 今この部屋には、ゼロと医師の二人しかいない。

 ドン、とゼロは苛立たしげに部屋の壁を叩いた。

「わかっています、先生……たとえ、私が向こうに行ったとしても、なんの解決にもならないかもしれないと……」

「う、うん……いや、せめて血液検査の結果を見てから判断しても良いのではないかと思ってね。そうでないと、君のせっかくの行動が無駄になってしまうかもしれない」

 医師は少し気の毒そうな視線をゼロに向けた。

「しかし先生、それでは時間がかかってしまいます。検査の結果が出るまで、私は苦しみ続けるお嬢様達の姿を間近で見続けらければならないのです。そのようなこと……私はとても耐えられません」

 ゼロは、絞り出すような声で言った。

「そうか、わかった。しかしね、ゼロ君。あまり自分を責めるでないよ」

 医師は微笑を浮かべてゼロの肩にポンと手を置いた。

「気をつけて、行っておいで」

「ありがとうございます!」

 礼を言うゼロの表情は、一転してパッと明るいものになっていたのだった。

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