第7話 母との約束

「ゼロ、貴様! いい加減にしろ!」

 来た来た、とゼロは胸の内でほくそ笑んだ。

 もちろん、その表情は無表情のままだ。

「これで、もう三十人目だぞ!」

 天使は怒り叫び、ビリビリに破かれた紙片をバンッと乱暴にテーブルに叩きつけた。

 おそらくあの少年と天使が交わした、四大精霊銃譲渡契約書に違いない。

 ゼロは脳裏にこの日の昼下がりに銃の使い方などを指南した、幽体状態の少年を思い浮かべた。

 あの少年は少し気が弱そうだったから、肉体に戻った後ちゃんと契約書を破く事ができたか心配していたが、大丈夫だったようだ。

 あぁ、良かった……

 ゼロは内心で、ほっと安堵のため息を吐いた。

「ちゃんと契約が成立している案件は、その倍以上ではないですか。その証拠に、あなたはきちんと昇進している」

 ちらりとゼロは天使の腕章を見やり、言った。

 ゼロとの契約当時、そこには黄金色のラインが二本あった。今は、五本だ。

 天使の昇進システムを、ゼロは知っていた。

 腕章の黄金色のラインが一本増えるたびに、高笑いした天使がそれを自慢してきたからだ。

 しかし、それに祝いの言葉や賛辞の言葉を送るでもなく、ゼロは無言で天使に冷たい視線を送っていた。

 くだらない。人を堕落させておいて、昇進だなんだと浮かれ騒ぐとは。

 もっとも、そうなった原因を作っているのは、ゼロを含む指南役であり、その点については少し苛立ちを感じていた。

 そんなゼロの言葉にも、少しも怒りがおさまらない天使が叫ぶ。

「お前が、使用者に余計なことを吹き込まなければ、もっと昇進できてるんだぞ!」

「知りませんよ、そんなことは」

 予想通りの言葉を並べたてる天使に、ゼロは冷たい笑みを向けた。

「あなたとの契約書には、使用者にこれを言ってはいけない、などの文言はありませんでしたよね」

 ぐ、と天使はほぞを噛む。

「私は、ちゃんと約束通りの仕事をしています。仮契約中の使用者に、銃の仕組みや成り立ち、使い方、使いこなすコツなどを、きちんと伝えていますよ」

 そうなのだ。ゼロは、指南役としての仕事をきちんとこなしている。

 天使はそのやり取りを、盗み見ているから知っているのだ。

 しかし、ゼロと指南役の契約を交わしてから四年が経ち、その結果を見てみると、全体の三分の二程度しか、本契約に繋がっていない。

 残る三分の一の仮契約した使用者は、既にサインした天使との契約書を破り捨て、その約定を魂に刻み込まれないようにしていた。

 つまり、ゼロの忠告やアドバイスに耳を傾け、心変わりしているのだ。

 四大精霊銃を使い、現状を変えたい。

 という思いから、それを使わずに他の方法を考えよう、という思いに。

「それに、仮契約の時点で小さな羽は手に入れているんでしょう? 塵も積もれば山となる、ですよ」

「うるさい」

 唸るように天使は言い、涼やかなゼロの切れ長の瞳を睨みつけた。

 いまさら、ゼロの魂に刻み込まれた契約書に、あらたな文言をつけ足すわけにもいかない。

 それを、この男はわかっているのだ。腹立たしいこと、この上ない。

 人間ごときが、神の御使いであるこの天使の妨害をしようとは。

「そんなに気に入らないと言うのなら、私との契約を破棄すればいいじゃありませんか」

 やれやれ、とゼロは言った。

 ゼロの方からは天使との契約を破棄することができないが、天使側からはそれが可能だった。

「だから、前にも言っただろうが!」

 悔しげに、天使は顔を真っ赤にして再び怒鳴る。

「お前は逸材なんだ。お前ほどの躁術力を持ったヤツが、そこらにホイホイいるか!」

 ゼロの精霊を従える力は、かなり強い。

 拳銃内の精霊に己れのイメージを現実化させる方法がたとえ脅しだったとしても、元々持つ力が強大な者ほどそれが効く。

 実はゼロ自身は、あまりそれを自覚していなかった。

 しかし、天使がそういった理由でゼロを解雇できず渋々契約を継続していることに、そうなのだろうと思っている。

「だがな、見ていろ! 今に、お前よりももっといいのが出てくる! そうしたら、即縁を切ってやるからな!」

「はいはい、楽しみにしていますよ、その日を」

 それより、とゼロはジッと天使の瞳を見つめた。

「今回の報酬、ちゃんと払ってください」

「ああっ!」

 たとえ使用者との契約が、本契約までたどり着かなかった案件でも、この男は堂々と指南役としての報酬を要求してくる。

 本当に、神経が図太いのだ。

 天使は、乾燥させた草の根と、それの産地や効能などが記された紙を思い切りテーブルに叩きつけた。

「ありがとうございます」

 ニヤリ、ゼロは笑った。

 ゼロ自身では入手できない、外国産の毒草だ。

 さっさと説明書に目を通し始めるゼロを、忌々しげに横目で見、天使は姿を消した。

 この場にいれば、不快感が増すばかりだ。

 ゼロは、そんな天使のことなど目もくれず、紙片に集中している。

 ひととおり目を通し、ふぅ、とため息をついて紙片をテーブルに置く。

 おれは、いつまで、こんなことを続けるのだろうか。

 ふと、ゼロにそんな思いが湧き上がった。

 十六歳でこの屋敷の女主人に買われ、十七歳で執事に就任、そして十八歳で天使と指南役の契約を交わし、今日まででそこから四年が経過している。

 その間、様々な毒をこの家の家人に使用してきた。

 毒の効果で、家人に湿疹や肌荒れ、呼吸困難などの症状が出れば医師にかかることを勧め手配し、解毒薬を盛る。

 そんなことを、この四年間ずっと繰り返していた。

 このまま……ずっと……

 突然、女主人キャシーの艶めかしい肉体が、バッとゼロの脳裏に浮かんだ。

 バン、とゼロは壁を殴りつける。

 この屋敷に引き取られた時から今まで、延々と続く人形の役割。

 自分に与えられた仕事が、執事のものだけだったならどれほど良かっただろう。

 ゼロの全身に冷たい汗が浮かび、どす黒い何かが全身を巡る。

 吐き気がする。

 この家の家人に毒を盛り続けることは、すなわち己自身を性奴隷として身を捧げ続けることになる。

 もう、嫌だ……

 先刻あの少年に色々とアドバイスをしたが、いったいどの口が言うのか、とゼロは自嘲の笑みを浮かべる。

 そんな自分に嫌気が差し、ゼロはベッドに突っ伏した。

 母さん……

 思い出すのは、艷やかな長い黒髪。切れ長の、涼やかな瞳。

 ゼロは、母によく似ていた。

 ゼロが精霊躁術力という特殊な力を持つのも、元巫女の母ゆずりのものだろう。

 凛とした、綺麗なひとだった……

 いつもはすぐに消えてしまうその面影が、今夜は消えない。

 それがなぜなのかわからないまま、ゼロは過去の記憶の海に落ちた。


 父は、国に務める一軍人だった。

 縁あって、やはり国務めの巫女をしていた母と出会い、結婚し一人息子のゼロが生まれる。

 けして裕福ではなかったが、両親は仲がよく、ゼロは両親から愛情を一身に受けて育った。

 ごく普通の、幸せな一家族だったのだ。

 それが一転したのが、父の謀反だった。

 ゼロが、五歳の時の出来事だ。

 上司の悪事を黙って見過ごす事ができずに、父はそれをさらに上部に訴えた。

 ところが、その告発した上部すらグルで、やがて父は疎まれ罠に嵌められてしまう。

 父は投獄された。

 母やゼロにまで危害が及ばないように、父は一切抵抗しなかった。

「すまない……」

 悲しそうな瞳を母とゼロに向け、父は謝った。

 兵に連れ去られるその背中を、ゼロはよく覚えている。

 遠ざかっていく、大好きな父の広い背中。

 そこに飛びついたゼロを、そのままおぶってくれた、あのあたたかな背中。

 それを、永遠に失ってしまう。

 幼いゼロは、底なしの不安の渦に放り込まれたような気がしていた。

 お父さん、と叫び、あとを追いかけようとしたゼロを、ぎゅっと抱きしめたのは母だった。

 ゼロまでもが巻き込まれてひどい目に合うなど、父も母も耐えられることではない。

 その後すぐ、残された母子は住んでいた村を去ることになる。罪人の家族として、追放されたのだ。

 縁もゆかりも無い土地をさまよい歩き、母は女手一つでゼロになんとか衣食を与えた。

 ところが、そうしている内に飢饉とはやり病が世間にまん延し始める。

 それまでなんとか買えていた食料が、手に入らなくなってしまった。

 ゼロも子どもながら、できることを手伝ってはいたが限界があった。

 次第に、母は動けなくなっていく。

 美しかった髪は、とっくに切って売っており、栄養の行き届かない短髪の髪はパサパサだった。

 水分を失って皺の増えた唇を震わせ、床に伏した母はゼロに言った。

「これから私が言うことを、よく覚えておいて」

 弱々しくも、凛とした光をたたえた瞳を傍らのゼロに向ける。

 言われ、ゼロは黙って傍らの母に頷いて見せた。

 そんなゼロを、母はうっすらと微笑んで見つめる。

「これから先、どんなことがあっても、誰かにあなたの名を教えてはだめよ」

 母の教えは、ゼロの本来の名前について、だった。

「名前を?」

 その当時、十歳ほどのゼロが不思議そうに母に尋ねる。

「そう……あなたの名前……私とお父さんが、あなたにつけた、本当の名前」

 言い、母は愛おしげに目を細めた。

 母にとって、父にとって、なにものにも代えがたい大切な大切な我が子。

 この愛しい子を一人、この世に置いていかなくてはならない。

 いずれはと思っていたが、その日が来るのはあまりにも早かった。

 目の前の我が子は、まだ満足に働くこともできないだろう。

 だが、自身の体がもう限界を迎えていることを、母は悟っていた。

 ならば、最低限守って欲しい約束事を喋れる内に伝えなくてはならない。

「名を知られれば……あなたの自由は、完全になくなってしまう……今は、私の言うことが理解できなくてもいい、とにかく名前を教えないで。いいわね?」

 母の念押しに、ゼロは黙って頷いた。

「もし、どうしても……教えなくてはならなくなったら、〇と書きなさい。口に出してはだめ、書くの。大事なのは、この形をなんと呼ぶのか、相手に決めさせること」

 〇は、ゼロ、マル、オー、などと読む事ができる。

「あなたは、私に似ているから……これから先、人ではない者にも声をかけられるでしょう……今までは、私が守ってあげられたけれど……」

 独り言のように、母は呟いた。

「どんなに恐ろしい姿をした相手にも、こちらの恐怖心を見せてはだめよ。無になるの。こちらがどうやっても勝てそうにない相手にも、それを気取られないように」

 それは、人外のものに不慣れなゼロには、難しいことかもしれないが。

 それでも、ゼロは真剣な表情で頷いた。

「それから、優しい表情で、優しい声で、優しい事を言う人にも……注意して……けして、心を許さぬように……」

 母は、本当はそんな事をゼロに言いたくはなかった。

 人の善意すら、疑えと言っているからだ。

 母は、ゼロの頬に手を添えた。

 どうか、この子に光が当たりますように……

 幸せで、ありますように……

 母は祈る。

「あなたなら……大丈夫。きっと、うまくできる。今、私が言ったこと、けして忘れないでね」

 ゼロは、言う母の手をギュッと握りしめ、力強く頷いた。

 その様に、母は安心したような笑みを浮かべる。

「大好きよ……私の、宝物……」

 母の目の端から、涙が溢れていた。


 宝物と言われたら……自ら命を断つなど、どうしてできようか。

 ゼロは思う。

 母は、自分の全てだった。

 それを失っても尚、生き続ける意味が、はたしてあるのだろうか。

 ゼロは、相反する思いの間を、行ったり来たりしている。

 母の死後、ゼロは窃盗罪で捕まり牢に入れられた。

 そして、金でその身を買われるまで獄中で過ごすことになる。

 最愛の母を失ってから今に至るまで、ゼロは出口の見えない暗闇の中で、もがき苦しんでいた。

 光の差さない今の状況のゼロには、そうする他ないのであった。

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