第8話 ケイと緋亜
冷たい……暗い……
放り込まれた湖の底に沈みながら、そう思った。
そして、爛々と輝く黄色の双眸が目に入る。
ああ、そうか。食べられちゃうんだな。
なぜか、頭が冷静だった。
痛いの、嫌だな……
次第に遠のく意識の中、それだけが浮かんだ。
ぎゅうっと上に引っ張られるのを感じたのは、それからすぐのことだった。
誰?
ぼんやりした視界に映ったのは、淡い光が差す男の後ろ姿だった。
「うわあ! あんた、なにしてんの!」
慌てふためいた声に、あたりがざわついた。
寺の坊主を中心に集まった、複数の村人達だ。
「生贄を助けたりして……あんた、おらたちの命、どうしてくれんだ!」
村人が、突然どこからか現れた男に向かって叫ぶ。
「馬鹿、言ってんじゃねぇよ……」
ゆらり、湖からあがり、びしょ濡れのままの男が立ち上がった。
今しがた水中から引き上げた子どもの意識が、戻ったことを確認したからだ。
その尋常ではない様に、先程叫んだ男は怯んだ。
「こ、この湖にはな、神さんがいるんだぞ! 誰かを放り込まなきゃ、おらたちが危ないんだ!」
言い、男は目の前の暗い湖面を指さした。
空には暗雲が立ち込め、生ぬるい風が吹いている。
それがますます、暗い湖を不気味なものに仕立て上げていた。
この湖がある村では、飢饉が訪れる度に身寄りのない幼い子どもを、湖に棲む何かに捧げてきた。
そうして、何度も危機を回避してきている。
こんなことを繰り返しているうちに、初めは抱いていた生贄になる子どもへの罪悪感は、とうに失われていた。
そして、今回もいつものように儀式を行っていたのだ。
「その子は、この日のためにうちの寺で面倒を見てきたんだ。返してもらおう」
坊主が、男に近づいた。
子どもは女の子で、体つきが小さい。
赤子の時に寺の前に捨てられていたのを、湖への捧げ物として、この五年間育ててきたのだ。
「面倒を見てきたって? こんなにガリガリに痩せて、どうせろくなもん食わせてなかったんだろ」
微かな怒気を含む男の言葉に、グッと坊主が怯む。
「こいつは、おれが引き取る」
男は、すっぱりと言い切った。
異議など、一切認めない。
そんな意志が、坊主に伝わってくる。しかし、それでは湖の主のご機嫌取りができなくなってしまう。
それでは、村が困るのだ。
「そ、それでは、我々が飢え死にしてしまう」
狼狽する坊主に男は冷めた視線を向け、もそもそと己の懐を探った。
「ほらよ、これをやる」
ぽいっ、と男は深紫色をした布の小袋を坊主に向かって放り投げた。
「なんだ、これは……」
坊主が小袋の中を覗くと、そこにはつやつやに光る泥団子が数個入っていた。
大きさは、直径十センチほどのものだ。
カッと怒りが坊主に湧き上がる。
「おい、こんなもんでそのガキを渡せるか!」
生贄の子どもを育ててきた、この五年間の手間暇が、こんな泥団子数個で済むか。
「こんなもん?」
男は、坊主の言葉に眉根を寄せた。
「そうか……お前は、わからん派か……だろうな……わかってたら、この子を生贄にしようなんざ、思わんだろ……」
ぶつぶつと、男は呟く。
「おれの名はケイ。この国の、五本柱の内の一人だ。お前も坊主なら、おれの名前くらい知っているはずだが?」
「えっ……」
言われ、坊主から怒りの感情が消える。
この島国の政権が、金を払い雇っている祓い屋。
それは五本柱と呼ばれる、五人の祓う力を持った者達だ。
彼らが、どんな仕事を国から請け負っているのか。
有名なのは、地下に棲むアヤカシを封印する柱に力を注ぎ、アヤカシが暴れないようにしているというものだった。
だが、実際にそれを見たこともないし、ましてや五本柱の顔も素性も知らない。
坊主は疑い半分の視線で、まじまじとケイと名乗った男を見た。
身なりは質素で無精髭を生やし、どちらかというと清潔感がない。
国に雇われているのなら、もっと金持ち風なのではないか。
そんな疑問が、坊主に湧き上がる。
「え……なんだ、五本柱って……」
村人達はざわついた。
神職者以外に、その存在はあまり知られていない。
国外の観光者向けの、島国のガイドブックにはその記載があるのだが、端々の村の民にまでその情報は浸透していなかった。
やがて、そうこうしている内に暗い湖面がゆらゆらと揺れ始める。
「……来たな……」
ケイはそれに目をやり、口の中で呟いた。
空の暗雲は厚みを増し、吹きつける生ぬるい風も、勢いが強くなっている。
この湖に巣食うアヤカシ、村人からは神と呼ばれているものが放つ力が天候に作用しているのだ。
ケイは、鋭い視線を湖面に向ける。
先程村人達が放り込んだ眼の前のご馳走を、ケイが攫ったのでアヤカシは怒っていた。
その怒りの感情を表すかのように、黄色かった双眸は赤く染まっている。
「うわあ、出たあ!」
大きな飛沫をあげ姿を現したのは、巨大な蛟だった。
途端に、村人達が逃げ惑う。
「貸せ」
呆然と巨大な蛟を見上げる坊主の手から小袋を奪い、ケイは中の泥団子を湖に向かって投げた。
すると、蛟はその団子を追うように大きな体をよじり、やがて姿を消した。
大きな波が幾重にも波打ち際に打ち寄せ、そして少しずつ静かになっていく。
辺りは、しんと静まり返った。
「これで、わかっただろ」
ケイは、再び小袋を坊主に向かって放り投げた。
坊主は、慌ててそれを握りしめる。
「これから先、そいつで手に負えなくなったら、これでおれを呼べ」
言い、ケイは懐から銀色の小さな笛を取り出した。
「犬笛?」
小袋と同じように投げつけられたそれを、坊主はまじまじと見つめた。
「その笛を吹いたら、おれの飼い犬がくるから。言っとくが、ただの犬じゃねぇぞ。人の言葉も感情も理解できる、アヤカシだからな。そいつに助けてくれ、と言えや。じゃあな」
ぼおっとした様子で一連の出来事を見ていた子どもを、ケイはひょいと抱き上げた。
そして、くるりと坊主に背を向ける。
「あ、言い忘れたけど、次は有料だからな」
「えっ……」
ケイの言葉に、坊主はたじろいで口を真一文字に結んだ。
「今回は、おれが得をした」
呆然と二人の背を見送る坊主を背に、ケイはニヤリとした笑みを口元に浮かべ、そう呟いていたのだった。
「とりあえず、濡れた服を乾かさなきゃな」
ケイは開けた場所を見つけ、焚き火の準備を始める。
適当な枯れ枝や枯れ草を集め、ケイがそれに手を翳すと、みるみる火がついていった。
「すげえだろ?」
言い、ケイはニカッと子どもに笑いかけた。
子どもは無表情のまま、無言で小さく頷いた。
「いずれ、お前もできるようになる……お前も、おれと同じ火の躁術力を持っているからな」
そう言いながら、ケイは子どもの濡れた服を脱がせ、代わりに外套をかける。
「本当に、ガリガリだな……」
ぽつり、ケイは呟いた。
抱き上げた時の身の軽さや、その皮膚や衣服の汚れ具合から、この子が寺でどのように育てられたのか、おおよそ想像ができた。
「食うか?」
ケイは携行食の干した魚を炙り、子どもに渡した。
同じように炙った魚を口にするケイを見てから、子どもは手にした干し魚を食べ始める。
「……もしかして、食ったことねぇのか、魚……」
一体、この子は今までなにを食べて育って来たのか。
ケイは一瞬暗い表情になったが、すぐに気を取りなおして人懐っこい笑みを浮かべた。
「おれの名はケイ。お前、名前は?」
子どもが魚を食べ終わるのを待って、ケイは訊ねた。
子どもは虚ろな表情で、首を左右に振った。
「名前……ねえのか……そうか……」
寺で育てられたということは、既に親はないか、親に捨てられたのだろう。
「あいつら、ほんとバカだよな……」
眼の前の炎を見つめながら、ケイは呟いた。
その脳裏に、先程別れた坊主の顔が浮かぶ。
「お前ほどの能力持ちを、あのバケモンに食わしたら、それこそえらいことになるってぇのに」
あの湖に巣食う蛟は、既に人間の子どもを数人食っている。アヤカシは、人を喰らうことで力をつけることがあるのだ。
せのせいかどうかは不明だが、あの蛟は天候まで左右するほどの力を持っていた。
そんなある程度の力を持ったアヤカシが、強大な力を秘めた子どもを喰らったら、どうなるか。
おそらく、あふれ出る力を抑えきれずに暴走し、村を滅ぼしていただろう。
「あの泥団子にはおれの力を混ぜ込んであるから、まあ、あと数年は誤魔化せるだろうが」
ケイは言い、ニヤリと笑う。
「いつか、限界がくる。そんときゃ、思いっきりふんだくってやろう」
自ら考えた悪巧みが愉快で、くくっと笑うケイを前にしても子どもは無表情のままだった。
「おい、ケイ……なんだ、そのガキは?」
低い声音が聞こえるのと同時に、ガサガサと茂みが揺れる。
そこにヌッと姿を現わしたのは、大きな山犬だった。
ケイが先程坊主に説明した、ケイの飼い犬だ。
ケイの飼い犬は、人の言葉を話し、その感情をも理解する。
長く生きる中で、様々な知能を身につけたアヤカシなのだった。
「リン、お前、ちょっとこっちに来い」
ケイはにっこり笑って、リンと呼んだ山犬を手招きする。
「ん? なんだ、なんかうまいもんでも食わせてくれるのか?」
リンはなにひとつ警戒することなく、とことことケイに近づいた。その瞬間、真顔になったケイがリンの頭を思いっきり殴りつける。
「……な、なにすんだ……」
その黄色い目に、星がチカチカと瞬いた。
「てめぇ、この子をガキ呼ばわりすんじゃねぇよ……やっと見つけた、おれの後継者なんだからな」
あまりの痛みに涙ぐむリンに、ケイは満足気に笑いながら言った。
「なんだと!」
リンは叫び、バッと子どもを凝視する。
当の子どもは、きょとんとした表情で山犬とケイのやりとりを見つめていた。
山犬はしばらく子どもを眺めだ後、げぇっといった表情になった。
ケイが己の後継者である強い火の精霊躁術力を持つ人間を探し続けていたのを、リンは知っている。
もし後継者が見つかりでもしたら、この束縛はまだまだ続いてしまう。
リンはケイの捕縛を解いて、自由になりたかった。だから、ケイがこの世を去るまで後継者が見つからないことを、密かに願っていたのだ。
「ほんとに……また、えらいもんを拾ったなぁ」
リンが言う“えらいもん”とは、精霊の操術力が強い、という意味だ。リンには、目の前の子どもの潜在能力が、どれほど強いものなのかがわかっていた。
だからこそ、リンはがっかりするのだ。
「これでまた、お前の自由は遠のいたな!」
そんなリンの感情を悟り、カカカ、とケイは笑った。そのケイの様に、ますますリンは肩を落とす。
リンは、昔から村に悪さを繰り返していたところを、国から依頼を受けて派遣されたケイに捕縛されたのだ。
その際に、ケイからリンという名をつけられた。それは、名付けによる束縛だった。
リンは、それまで名など持たない山犬のアヤカシだったのである。
「言っとくけど、お前の場合は自業自得っていうんだぜ。このままお前を野放しにしたら、絶対にまた悪さをするだろうからな」
涙を流しながら命乞いをするリンに、当時のケイは冷たく言い放った。
「時効って、ないの?」
しおらしい仕草で、リンは揺さぶりをかけてみたが、ケイには通用しなかった。
「ない。もしくは、おれが死んだら、あとはわからん」
その時に返ってきたケイの言葉に、リンは一瞬瞳を輝かせた。この男が死ぬまで、後継者が見つからなければ、おれは自由になれる。
リンは今までそこに一縷の望みを見出してきたのだが。
とうとう、ケイの後継者が見つかってしまった。
嫌だな……隙を見て、喉食いちぎってやろうか……いや、その前に、おれがケイにやられるか……
ふと浮かんだ案も、すぐに却下となる。
リンは、ケイと数年共に暮らしている為、その力の強さを嫌というほど知っているのだ。
犬笛ならぬ、リン呼び出し専用笛などというものまで作りやがって……
長い間探し続けていた後継者が見つかったことで、すっかり上機嫌になっているケイを、リンはそっと睨みつける。
「んで、このガ……いや、子どもの名前は?」
仕方なく気を取り直し、リンはケイに訊ねた。
「名前なぁ、ないみたいなんだよな……おれが名付けてやりたいが、女の子の名前はわからんからなあ……サヤにでも頼もうかと思ってる」
サヤ、とはケイの馴染みの酒屋の看板娘だ。十四歳の朗らかで世話好きな娘だった。
「あ、ちなみに、おれのことはケイって呼んでいいからな」
焚き火の向こうの子どもに向かって、ケイはにっこりと笑いかけた。
「……とと」
しばらく間をあけ、子どもは小さな声で言った。
「父と、って……呼んでもいい?」
「……父と、って……父ちゃんって意味か……」
ケイは立ち上がって子どもに近づき、そのくしゃくしゃの頭を優しく撫でた。
そして、その大きくて丸い黒い瞳を覗き込む。
よく見ると、子どもの瞳の色は黒に緋色が微かに混じったようなものだった。
「うん、いいぞ。おれは、お前の父とになる」
ケイの言葉を聞いた瞬間、パアッと子どもの表情が明るく輝いた。
それだけで、その場が少し暖かくなったような気がした。
ケイが自分の後継者を探していたように、子どもは自分を守ってくれる誰かを探していた。
二人は、互いに互いを必要としていたのだ。
微笑ましい二人のやり取りを、リンはげんなりと見つめていたのだった。
「こりゃ、見違えたな……」
ほう、とケイが感嘆の声をあげた。
「ふん、どうよ……あたしの手にかかれば、ざっとこんなもんよ」
得意げに鼻の下をこするのは、サヤという酒屋の看板娘だ。
現在十四歳の彼女は一人娘で、妹か弟が欲しかったと常日頃から口にしていた。
「あらほんと、びっくりだね……」
ホカホカと湯気をあげる湯上がりの子どもを見て、サヤの母が微笑んだ。
髪や爪は伸び放題。風呂に入ったことのなさそうな、不衛生な皮膚。
「こりゃあ、やりがいがある!」
ケイが連れてきた子どもを一目見たサヤは、俄然張り切った。
風呂に入れ、石鹸で体や髪を何度も洗い、清潔な着物を着せ、爪や髪を整える。
そこには、大きな瞳が愛らしい小さな女の子がいた。
浸かった湯にあたって、ぽおっと頬を赤く染めた子どもに、ケイは満足そうに笑った。
「サヤ、この子に名前をつけてやってほしいんだ。おれは女の子の名前ってよくわからないからさ。一つかわいいのを頼むよ」
「えぇと、かわいい名前かぁ……」
ケイの依頼に、うーんとサヤは考えこんだ。
「あ! 緋亜って、どうかな。この子、髪に緋色が入っててさ、さっき洗いながら、きれいな色だなって思ったんだ」
「あら、いいじゃない! 緋亜ちゃん」
サヤの母が、ニコニコと笑った。
うんうん、とケイも笑顔で洗いたての緋亜の頭に手を乗せた。
「よし、お前の名前は緋亜だ。よろしくな、緋亜」
「ひあ……」
子どもは、まだ言い慣れない自分の名前を、大切そうに口にした。
こうして緋亜と名付けられた少女は、ケイと共に暮らすことになる。
国の五本柱である、ケイの後継者として。
そして、妻も子どもも持たない、ケイの娘として。
緋亜は、すくすくと育っていったのだった。
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