第3話 地獄を君に
屋敷の女主人、キャシーが未亡人になったのは今から十年前のことだ。
当時、キャシーは三十歳、長女アニーは七歳、次女エリーは五歳だった。
そして、キャシーの夫の享年は三十四歳。
黒髪のストレートヘア、整った顔立ちに切れ長の瞳、すらりとした長身の男だった。
趣味の狩猟の最中の不幸な事故が、彼の死亡原因である。
夫が亡くなった当時のキャシーはまだ若く、再婚の話も数回持ち上がったが、亡き夫を忘れられないからとキャシーはけして首を縦に振らなかった。
そんな彼女の姿は、愛する夫を一途に愛し続ける、健気な未亡人と周囲の目には映った。
黒髪のストレートヘア、整った顔立ちに切れ長の瞳、すらりとした長身……それは、現在のこの家の若き執事の特徴とも、一致する。
「……さあ……服を……」
薄暗い女主人の部屋で、囁き声が漏れる。
「今日は、こちらが似合うと思うの……どうかしら、あなた……」
女主人キャシーの言葉に、ゼロは自分の中の自我スイッチを切った。
これは、おれではない。これは、おれではない。これは、おれではない……
何度も何度も、ぐるぐると回る言葉。
しなだれかかる熱い肉体を、ゼロは抱きしめた。
己自身の、心を殺しながら。
どちらが、地獄だろうか。
あのカビ臭い、不衛生な鉄格子の部屋と。
この、まるで人形のように扱われる、女どもの館と。
どちらも地獄だが、心が殺されていくのはゼロにとって耐え続けることはできなかった。
そして、彼はさらなる地獄へと身を投じる事になる。
金で買われてこの屋敷に引き取られ、一年間のスパルタ教育の末、執事に就任。
そして、執事業をこなすと同時に人形となる。
二度目の天使との出会いは、そんな日々の最中であった。
黄金色の髪は美しく、ゆるやかなウェーブを描き。
その背には、汚れなき真っ白な翼が生えている。
しかし、その顔には苛立ちがありありと浮かんでいた。
「私は、記憶力がいい」
低い声音で、天使は言った。
「それはそれは。私も、あなたのことを覚えていますよ……今日はあの時の、鈴をふるようなご自慢の声を披露なさらないのですね」
ニヤリと口元を歪め、ゼロは言った。
初めて牢屋で出会ってから数年が経ち、ゼロは少年から青年に成長していたが、嫌味な性格は変わっていなさそうだと、天使は思った。
「そんなもの、貴様には聞かせてやらぬわ」
ふふ、と天使は意地悪く笑った。
ただし、その目は笑っていない。
「……なぜ、また私のところに来たのですか。あの時、二度と私には声を掛けないと、あなたは捨て台詞を吐いていったじゃないですか」
「……仕方ないだろうが……水の係のやつが、急死したんだから。減ったもんは、補充せねばならんだろう」
問われ、天使は渋々事情を説明した。
「水の係?」
聞き慣れない言葉に、ゼロは首を傾げる。
「なんだ、聞きたいのか? 私の話を」
天使は、嬉しそうに言った。
その笑顔には、なぜか禍々しさが宿っている。
「ここから先の私の話を聞いたならば、もう後戻りはできんぞ」
「……条件によります」
天使の脅しに近い口調にも、少しも怯まずにゼロは言った。
「条件だと?」
「あの時……」
ゼロは、初めて天使と出会った時の事を思い出していた。
「私の望みをなんでも叶えると、言っていましたよね」
天使は、ゼロとの当時のやり取りを思い出した。
それはとてつもなく嫌な思い出である。
「死人を生き返らせるのは、無理だぞ」
微かに眉根を寄せ、天使は言った。
「わかっていますよ、そんなことは。あの時ああ言ったのは、あなたに対する嫌がらせです」
神の使いたるこの天使に嫌がらせをするとは、なんてやつだ!
過去にこの一度しか味わった事のない、人間からの屈辱。
「……では、いったいなにが望みだというのだ?」
苛つきを抑えきれない天使が問うた。
「私が入手可能なものは、すべて手に入れてしまったんですよ」
言い、ゼロはテーブルの上に転がっている物を示した。
草の根、キノコ、木片などを乾燥させたものだ。
「毒か……」
「世界には、もっとたくさんの種類の毒が存在するのでしょう? その解毒作用のあるものも含めて」
天使は、その毒を使ってゼロがこの家の家人になにをしているのかを知っている。
「あんな奴ら、さっさと殺してしまえばいいものを」
くっく、と喉の奥で笑いながら天使は言った。
「……それではつまらないでしょう? 私の研究も、続けられなくなってしまいますし」
しれっとした口調で、ゼロは言う。
「研究ね……お前、将来ろくな死に方せんぞ」
天使の言葉に、ゼロは真顔になった。
「私は、たとえ地獄に落ちようとかまいません。私の最終目標は、この屋敷にとりつく怨霊になることですから」
「怨霊か、最終目標が」
天使は可笑しそうに声をあげて笑った。
そんな目標は、人間からも天使からも今までに聞いたことがなかった。
この男は、本当に変わっている。
「この家の人間はともかく、私はこの屋敷自体にはととも愛着がありますのでね。私の死後、絶対に他人の手に渡したくないのです」
「この土地も屋敷も、先祖代々伝わっているものだろう……彼らからしてみたら、お前にこそ、この屋敷を渡したくないだろうに」
「先祖代々の話など、私の知ったことではありません。それより、どうなんです?」
ゼロはピシャリと言い、天使の淡い水色の澄んだ瞳をじっと見つめた。
「私の望み、叶えられるのか……それとも、できないのか」
「できるわ」
天使は即答した。
その様に、ふっとゼロは笑った。
「そうですか。では、産地や名前や効能など、可能な限りの情報リストもつけてください」
「……やれやれ、注文の多い」
ニヤリと笑う天使の手に、一枚の紙片が現れる。
「契約書だ。私が依頼したいのは、この銃」
言い、天使は懐から一丁の拳銃を取り出す。
「この銃の使い方を、使用者に指南する役を依頼する」
ゼロは、天使から紙片を受け取り、目を通す。
いくつかの約束ごとが、そこに書かれていた。
そして、最後の条項に視線を止める。
そこには、いかなる理由があろうとも人間側から天使との約束事を破ることは不可とする、と記述されていた。
つまり、一度契約を結べば今後ゼロの方から契約を破棄することはできないのだ。
ゼロは、卓上のペンを手に取った。
最後の行の空欄に、己が名を記す。
〇、と。
「お前……これはなんだ?」
「ゼロ、ですよ。私がそう呼ばれているのを、あなたもご存知でしょう?」
不満を口にする天使に、ゼロは説明する。
「お前の本名は?」
「私の本名に、今の私を縛る意味などありません。もう、それを知っている人間は、生きていませんから」
それは、既に亡くなっている実の父と母だ。
「肝心なのは、今現在の私の事を指し示す言葉でしょう? ならば」
トン、とゼロは紙面の“〇”を指し示した。
「ゼロが、正解です」
「ふん……まあ、いい。これで、契約は結ばれた」
天使が紙片を受け取ると、それは天使の手の中で青白い炎をあげ燃え始める。
それを黙って見つめるゼロの体内に、奇妙な感覚が湧き上がった。
体中の血管やリンパ節が、きゅうっと締め付けられるような、そんな感覚だ。
「契約は体に刻み込まれる。紙では、破られたらおしまいだからな」
契約を交わした直後の相手の体調が、どのように変化するのかを知る天使は、ふふんと笑った。
初めて会ったあの日、自分を小馬鹿にしてきた奴を思い通りにした達成感。
ゼロの額に、円型の刻印が一瞬浮かび、消えた。
それは、天使との契約が完全に刻み込まれた瞬間だった。
と同時に、ゼロの体から違和感が消える。
「まずは、この銃を扱えるようにならなければならない。まだ生きている水の係がいるから、そいつから習ってこい」
言い、天使はゼロの額を指で弾いた。
肉体と魂を、一時的に分離する。
そして、魂を指南役の元に送るのだ。
それを見届け、天使は満足そうな笑みを満面に浮かべたのだった。
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