第3話 地獄を君に

 屋敷の女主人、キャシーが未亡人になったのは今から十年前のことだ。

 当時、キャシーは三十歳、長女アニーは七歳、次女エリーは五歳だった。

 そして、キャシーの夫の享年は三十四歳。

 黒髪のストレートヘア、整った顔立ちに切れ長の瞳、すらりとした長身の男だった。

 趣味の狩猟の最中の不幸な事故が、彼の死亡原因である。

 持ち前の美しさと魅力的なふくよかな体が幸いし、夫が亡くなった後のキャシーには再婚の話が数回持ち上がったのだが、亡き夫を忘れられないからとキャシーはけして首を縦に振らなかった。

 そんな彼女の姿は、愛する夫を一途に愛し続ける、健気な未亡人と周囲の目には映った。

 黒髪のストレートヘア、整った顔立ちに切れ長の瞳、すらりとした長身……それは、現在のこの家の若き執事の特徴とも一致する。


※※※※※


「……さあ……服を……」

 薄暗い女主人の部屋で、囁き声が漏れる。

「今日は、こちらが似合うと思うの……どうかしら、あなた……」

(これは、おれではない。これは、おれではない。これは、おれではない……)

 何度も何度も、ゼロの内側をぐるぐると回る言葉。

 しなだれかかる熱い肉体を、ゼロは抱きしめた。


 どちらが、地獄だろうか。

 あのカビ臭い、不衛生な鉄格子の部屋と。

 この、まるで人形のように扱われる、女どもの館と。


※※※※※


 金で買われてこの屋敷に引き取られ、一年間のスパルタ教育の末、執事に就任。

 そして、執事業をこなすと同時に人形となる。

 二度目のゼロと天使の出会いは、そんな日々の最中であった。

 黄金色の髪は美しく、ゆるやかなウェーブを描き。

 その背には、汚れなき真っ白な翼が生えている。

 しかし、その顔には苛立ちがありありと浮かんでいた。

「私は、記憶力がいい」

 低い声音で、天使は言った。

「それはそれは。私も、あなたのことを覚えていますよ……今日はあの時の、鈴の音のようなご自慢の声を披露なさらないのですね」

 ゼロはにやりと口元を歪めた。

「そんな贅沢なもの、愚か者の貴様には聞かせてやらぬわ」

 ふふ、と天使は目を細めるがその奥にあるものはけして笑っていない。

「……なぜあなたはまた私のところに来たのですか? 初めて会ったあの時、二度と私には声を掛けないと捨て台詞を吐いていったじゃないですか」

「チッ……仕方ないだろうが……水の係のやつが、急死したんだから。減ったもんは、補充せねばならんだろう」

 天使は憮然とした表情で肩をすくめる。

「水の係? なんですか、それは?」

 聞き慣れない言葉に、ゼロは首を傾げた。

「なんだ貴様、聞きたいのか? 私の話を!」

 ころっと切り替わる天使の笑顔には、なぜか禍々しさが宿っている。

「ここから先の私の話を聞いたならば、もう後戻りはできんぞ」

「それは……条件によりますよ」

 天使の低い声音にも、ゼロは少しも臆さない。天使はさもおもしろくなさそうにそっぽを向き、鼻を鳴らした。

「条件だと?」

「あの時……」

 ゼロは、初めて天使と出会った時の事を思い出していた。

「私の望みをなんでも叶えると、言っていましたよね」

「言っておくが、死人を生き返らせるのは無理だぞ!」

「わかっていますよ、そんなことは。あの時ああ言ったのは、あなたに対する嫌がらせです」

(神の使いたるこの私に嫌がらせをするとは、なんてやつだ!)

 過去にこの一度しか味わった事のない人間からの屈辱に、天使はぎりと唇を噛み締める。

「……では、いったいなにを望む?」

「私が入手可能なものは、すべて手に入れてしまったんですよ」

 言い、ゼロはテーブルの上に転がっている物を示した。

 それは数種類の草の根やキノコ、木片などを乾燥させたものだった。

「毒か……」

「世界には、もっとたくさんの種類の毒が存在するのでしょう? その解毒作用のあるものも含めて」

 天使はこれらの毒を使って、ゼロがこの屋敷の家人になにをしているのかを知っている。

「あんな奴ら、さっさと殺してしまえばいいものを」

 くっく、天使は喉の奥で笑った。

「やろうと思えばすぐにでもできますが……それではつまらないでしょう? 私の研究も、続けられなくなってしまいますし」

「研究ね……お前、将来ろくな死に方せんぞ」

「心配には及びませんよ。私は、たとえ地獄に落ちようとかまわないのですから。あなたは、私の最終目標をご存知ですか?」

 ゼロの切れ長の瞳が、研ぎ澄まされたナイフのようにきらりと光った。

「しるか、そんなもの」

「……怨霊ですよ。この屋敷の土地についている先祖代々の守護霊を追っ払って私が呪い続けるんです。いい気味だ……」

「……怨霊か……実にお前らしくて良い目標じゃないか。頑張れ」

「それで、どうなんです? 私の望み、叶えられるのか……それとも、のか」

「ふん、そんな簡単なこと、できるに決まってるわ!」

 ふっとゼロは笑った。

「そうですか。では交渉を開始しましょう。産地や名前や効能など、可能な限りの情報リストもつけてください」

「……やれやれ、注文の多い……まあ、この私には実に簡単なことだが!」

 軽く苛立つ天使の手に、一枚の紙片が現れる。

「契約書だ。私が依頼したいのは、この銃」

 言い、天使は懐から小さな一丁の拳銃を取り出す。初めてゼロに会った時に天使が勧めたものと、まったく同じものだった。

 窓から差し込むわずかな陽の光を受けて鈍く光るそれを、ゼロはじっと見つめた。

「この銃の使い方を使用者に指南する役を、お前に依頼する」

 ゼロは無言で天使から紙片を受け取り、素早く目を通す。

 そこにはいくつかの約束ごとが書かれていた。

 ぴたり、最後の条項の部分で視線を止める。


 いかなる理由があろうとも人間側から天使との約束事を破ることは不可とする。


 つまり、一度契約を結べば今後ゼロの方から契約を破棄することはできないのだ。

 ゼロは、卓上のペンを手に取った。

 最後の行の空欄に、己が名を記す。

 〇、と。

「お前……これはなんだ?」

「ゼロ、ですよ。私がそう呼ばれているのを、あなたもご存知でしょう?」

「……本名はどうした?」

「私の本名に、今の私を縛る意味などありません。もう、それを知っている人間は誰一人生きてはいないのですから」

 それは、既に亡くなっている実の父と母だ。

「肝心なのは、今現在の私を指し示す言葉でしょう? ならば」

 トン、とゼロは紙面の“〇”を指し示した。

「ゼロが、正解です」

「ふん……まあ、いい。これで、契約は結ばれた」

 天使が紙片を受け取ると、それは天使の手の中で青白い炎をあげて燃え始める。

 それを黙って見つめるゼロの体内に、奇妙な感覚が湧き上がった。

 体中の血管やリンパ節がきゅうっと締め付けられるような、そんな感覚だ。

「苦しいか? なに、すぐに収まる。契約は体に刻み込まれるんだ、紙では破られたらおしまいだからな」

 初めて会ったあの日、自分を小馬鹿にしてきた奴を思い通りにした。その達成感に酔いしれ天使はにまにまと笑う。

 一瞬、ゼロの額に金色の円型の刻印が浮かびすうっと消えた。

 それは、天使との契約が完全にゼロに刻み込まれた瞬間だった。と同時に、ゼロの体から違和感が消える。

「まずは、この銃を扱えるようにならなければならない。まだ生きている水の係がいるから、そいつから習ってこい」

 天使はほっと息を吐いているゼロの額を指で弾いた。

 肉体と魂を一時的に分離し、その魂を指南役の元に送るのだ。

 飛び立っていく魂を見届け、ぐらりと倒れ込むゼロの肉体を抱えた天使は、満足そうな笑みを満面に浮かべたのだった。

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