第2話 天使の羽音
ピチャン、と天井から垂れる水滴が、底面の岩を削る。
長い年月の間同じところに落ち続ければ、一粒の水滴でも固い岩を削る事ができるのだ。
薄暗く、じめっとしていて、カビ臭い。
そんな牢内で、ゼロは自然の力を知ったのだった。
「……おい、メシだ……」
ズルズルと音をたて、薄汚れた盆とそれに載せられたわずかな食料、水が格子内に押し込まれる。
牢屋の番兵は、直接食事を手で差入れない。棒切のようなもので、それを押し込むのだ。
なぜなら、この得体のしれない気味の悪い子どもに、少しでも近づきたくなかったからだ。
子どもは、男の子だった。
本名ではないだろうが、子どもは自らの名をゼロと示していた。
子どもには親は既になく、空腹からだろう、窃盗罪でこの牢に放り込まれた。
歳は、正確にはわからない。その血筋もだ。
ただ、どんなに薄汚れてみすぼらしい様でも、その整った顔立ちには気品が感じられた。
それだけが、ゼロが生かされている理由だ。
つまり、金持ちの人間に買われるのを待っているのである。
商品価値のあるゼロのような子ども達には、栄養失調で死なない程度の最低限の食事が与えられていた。
しかし、待遇はそれだけだ。
爪や髪の毛は、ほんのたまにしか手入れをされていない為に伸び放題だし、風呂になど入れないから、服も皮膚も不衛生になる。
しかし、牢屋の番人がゼロを気味悪がるのには、他に理由があった。
それは、ゼロのやせ細った体に浮かぶ、無数のひっかき傷だ。
顔、首、腕、足、衣服から出ている部分の、ほぼすべての場所に、それはあった。
ゼロは、自分で自分の皮膚をひっかき、傷をつけているわけではない。
もちろん、牢番が体罰を加えているわけでもなく、別室で拷問を受けているわけでもない。
傷ができる理由が、わからないのだ。
なにもないのに傷だけがサアッと浮かび上がり、そこに赤い血が滲む。
その様を、何年にも渡って牢番は見続けていた。
しかも、そのような状態でもゼロ本人は無表情のままなのだ。
傷を痛がりもしなければ、その原因である見えないなにかを、怖がりもしない。
ゼロは、本当に得体のしれない気味の悪い子どもなのだった。
ゼロはいつものように、薄汚れた盆の上のわずかな食事に手を伸ばす。
その盆の上に、細い棒切れのような手が伸びたかと思うと、頭や体、足が次々と現れた。
ゴツゴツとした深緑色の肌はヌメヌメと光り、黄色一色の瞳が煌々と輝く。
小鬼だ。
だが、牢番にはその姿は見えない。
小鬼の鋭い爪が、ゼロの皮膚をギギギと傷つける。
腕のかさぶたが剥がれ、そこには再び血が滲んだ。
「痛かろう……痛がれ……怖がれ……フヒヒヒ……」
ヒソヒソと、小鬼がゼロの耳元で囁く。
そして、そのままゼロの耳に噛みつき、耳にも血が滲んだ。
しかし、ゼロは何一つ変わった素振りは見せなかった。
ただ黙々と食事を続ける。
今日は、三匹か……
ゼロとて、最初から小鬼が怖くなかったわけではない。
ただ、絶対に弱みを見せたくない、という意地のようなものがゼロにはあった。
そして、数年もの間小鬼達にちょっかいを出されている内に、次第にそれに慣れていく。
今では、冷静にその数を数えるほどだ。
いつまでいるのか、このヒマジンが。
と、ゼロは胸中で悪態をつく。
そんな日々の繰り返しの中、光は訪れた。
柔らかく、あたたかな光を纏うそれは、自らを天使と名乗った。
黄金色の美しい髪は、ゆるやかなウェーブを描き。
その背には、汚れなき真っ白な翼が生えている。
満面に穏やかな笑みを浮かべ、鈴をふるような愛らしい声で、天使はゼロに囁いた。
「あなたを、救いにきました」
にこりと微笑みながら天使は言い、一丁の拳銃をゼロに差し出した。
「あなたに、これを授けましょう……これはね、神がその手で作られた、特別な銃なのです。あなたには、これを使える特別な資格があります。さあ、これを手に取って、あなたの自由を勝ち取ってください」
「……いらない」
ゼロは、低く呟くように言った。
天使は一瞬体をピクリと震わせたが、すぐに哀れむような表情を浮かべ、無数に浮かぶゼロの傷を見やった。
「かわいそうに……痛かったでしょう……怖かったでしょう……でも、もう大丈夫。この銃さえあれば、小鬼達も倒せますよ」
そして、ちらりと牢番に視線を送る。
「牢番も、その壁も、すべて……あなたの邪魔になるものは、すべて排除できます。使い方も、ちゃんと教え……」
「……いらない」
天使の甘い囁き声を、ゼロの低い声が遮った。
ゼロの再びの拒否に、天使の頬がピクリと震える。
このガキ……なにも知らないくせに……いや、我慢だ、ここで怒ってはならぬ……
天使は、グッと腹に力を込め、感情を抑えた。
「あなたの望みが、なんでも、すべて叶うのです。それも、永遠にですよ……さあ、これを手にとってみたくなってきたでしょう?」
「……なんでも?」
ゼロが問うた。
やっと、食いついたか。
ニヤリ、天使は胸中で笑う。
「なんでも、です。さあ、教えて……あなたの望みはなあに?」
再び満面に柔らかな笑みをたたえ、天使は聞いた。
ゼロは顔をあげ、笑みを刻む天使の淡い水色の瞳をじっと見つめた。
「父さんと母さんを、生き返らせて」
ぐぅ、と天使はうなった。
しかし、すぐにまた元の笑顔に戻る。
「本当にかわいそうに……坊や……寂しいでしょう、もう一度、父さまと母さまに会いたいでしょう」
でも、と天使は続ける。
「肉体と魂を繋ぐ鎖は、一度切れてしまうと、もうどうやっても元に戻せない。肉体はその瞬間から滅びてゆき、魂は天に登って、次の段階に進むの」
神すら、それは不可能なのよ。
相手の感情に理解を示し、そっとそれに寄り添う。
この優しい天使の態度に、ほだされない人間などいるはずがない。
「……できないの?」
天使は、ハッとした。
その口調に含まれた無数のトゲと、口元の嫌味な笑み。
ゼロのそれに、ギリと天使は唇を噛んだ。
我慢は、もう限界だった。
「できないんだね、天使なのに」
「……あぁ、できないよ……できるかよ……死人を生き返らせるなんざ、自然の摂理に反するからな」
唸るように、天使は言った。
そのこめかみには、青い筋が浮かんでいる。
透明感あふれる色白の美しい肌に、それはとても映えた。
本当は“できない”という言葉を、天使は口にしたくはなかった。
なぜならプライドの高い天使には、できないことがある、という事実を指摘されるのがなにより屈辱であり我慢できないからだ。
ゼロは幼いながら、なぜかその特性を知っていたのである。
天使は、ゼロに差し出していた拳銃を懐にしまい込み、くるりと背を向けた。
「貴様のような生意気なガキには、もう二度と声をかけてやらんからな! 後悔するがいい!」
バッサリと捨て台詞を吐き、天使はふっと姿を消した。
後に残ったのは、いつもの静寂のみだ。
むろん、天使とゼロのこのやり取りは、牢番には一切見えていない。
ゼロが一人で、なにかボソボソと独り言を呟いているようにしか見えていなかった。
意外と気が短いんだな、天使って……
ゼロは初めて会った天使について、そんな感想を抱いていた。
優しく、甘い言葉を囁いてくる人がいても、信じてはだめよ……
かつての母の言葉が、頭の中でこだまする。
天使はプライドが高いという特性をゼロが知っていたのは、母がまだ生きていた頃にそれを話に聞いていたからだった。
幼い頃に読んだ絵本にも、天使という存在は出てきていたから、そのキャラクターには馴染みがあった。
天使のような、悪魔もいるの……冷静になって、よく考えなさい……
母の教えを胸に刻むゼロと天使の一度目の出会いは、天使にとって最悪のものとなったのだった。
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