第四章 影の中で 3
3
難波千恵里は、両親が眠っているベッドのすぐ傍にいた。眠っていた。
自分が、どうやらほかの子どもとは違ってしまったのだ、という事を千恵里は理解していた。でもそれだけだ。千恵里は幸せだった。大好きな両親と一緒にいられさえすれば。
――とてつもなく嫌な予感がして、千恵里は目を覚ます。
体の震えが止まらない。すごく、すごく嫌な感じがする。
両親の顔を見る。入院した時は苦しそうだったが、今はぐっすり眠っている。たぶん、この嫌な感じには気付いていないだろう。
千恵里は知っている。やってくるのは、あいつだ。あの大きなハサミを持った女。
店が襲われた時、ハサミ女が自分の事を狙っていたのに、千恵里は気付いていた。 どうしてかはわからない。わかるのは、あと数分もしないうちに、ハサミ女はこの病室にやってくるという事だ。父と母が眠る、この病室に。
千恵里は立ち上がり、走り出した。ドアを開ける必要はない。千恵里の体は、今や壁やドアをすり抜ける。
冷たい廊下に出る。明かりは非常灯くらいしかないが、今の千恵里に、周囲の明るさはあまり関係ない。まだハサミ女の姿はない。今のうちに逃げれば、ハサミ女が病室に寄る事はないだろう。千恵里は廊下を駆けた。どこに行けばいいだろう。上か、下か。
下だ。当たり前だ。下なら街に出られる。病院から遠ざかれれば、それだけ安心だ。
曲がり角を曲がり、階段のほうへ行く。ナースステーションの前まできた。もうすぐだ。もうすぐ。
――カッ。カッ。カッ。
ぞく、と。
まるで何かに足を掴まれてしまったかのように、千恵里は走れなくなった。
ばた、ばた、と大きな物音がする。何かが落ちて割れるような音も。ナースステーションの中で、人が次々と倒れているのだ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
「あ……」
千恵里は急いで長椅子の影に隠れる。走って逃げられるとは思えない。
「千恵里……ちゃん」
金属を打ち鳴らす音とともに、自分の名前を呼ぶ声が聞こえた。
「千……恵……里……ちゃん」
声……? そういえば、あのハサミ女は喋った事があっただろうか。いや、店で襲われた時にはあいつは声なんか出していなかった。
今喋っているのは、一体誰だ?
「千ぃ……恵ぇ……里ぃ……ちゃぁぁぁぁぁん」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
「ひっ!」
金属を打ち鳴らす音が早くなり、千恵里は思わず耳を塞いだ。
「どこぉおお。どこにいるのぉおぉぉ」
――カッカッカッカッカッカッカッカッカッカッ。
激しく打ち鳴らされるのは、ハサミだ。風切り音がして、後方の長椅子が破壊される。
「千ぃぃぃ恵ぇぇぇ里ぃぃぃちゃぁぁぁぁぁん?」
カン! カン! カン! カン!
ハサミが大きく打ち鳴らされ、ナースステーションの受付の一部が削り取られる。隙を見て、向かい側の長椅子まで走る。どうにかしてここから離れないと……
「あれぇぇぇ?」
ハサミ女が奇妙な声を上げた。
次の瞬間、千恵里の前に大きなハサミが突き立てられ、
「見ぃぃぃぃぃつけたぁぁぁぁぁぁぁぁぁあ!」
喜色満面の笑みで顔を歪めたハサミ女が、千恵里の前に現れた。
絶叫を上げながら、千恵里は長椅子の影から飛び出した。
カン! カン! カン! 足首のすぐ後ろで、ハサミが開いて閉じる。間違いない。足を切り落とそうとしているのだ。
「千恵里ちゃぁぁぁぁぁん! 足が取れちゃうよぉぉぉ!?」
ハサミ女が追ってくる。階段はもうすぐそこだ。でも、でも、これでは……!
ハサミがちらと見えた。その瞬間、足がもつれて千恵里は床に転ぶ。痛みはない。だが。
「捕まえたあぁああ」
千恵里の頭が飲み込まれるのではないかと思うほど大きく口を開けて、ハサミ女は笑う。
「一緒になろうねええええ。ハサミ女になろうねええええええ」
激しくハサミを打ち鳴らし、刃が開いたまま、大きなハサミが千恵里の頭に降ってくる。逃げられない。おしまいだ。自分が消えてしまうのではないかと思うほどの絶望が、千恵里の心に広がる。
――バチバチバチ、と何かが弾ける音がした。
「うおおおおおおおっ!」
雄叫びが天井のほうから聞こえ、続いてガン! と金属がぶつかり合う音がした。
「はあー、はあー、ハサミ女ッ!」
天井から飛び出してきた人影はひと声そう叫び、猛烈な打ち込みでハサミ女を追いやっていく。
千恵里は、その人物に見覚えがあった。あの時、千恵里を抱えて走ってくれた人。包帯姿になって、悪い奴らと戦ってくれた人。
あの人がやって来た。
呪力で出来たゲートを通り抜けるのは、石の海の中へ飛び込むようなものだった。全身は痛めつけられ、心は毒電波を受信したかのように狂いそうになる。だが、急がなければならなかった。那美に言われた事を思い出し、煌津は呪力の中を泳いだ。病院へ。千恵里ちゃんの元へ。
呪力トンネルとでもいうべき暗く、恐ろしい空間の向こうに、煌津は元の世界の光景を見た。病院の中のような光景。破壊された長椅子。傷のついた壁。そしてハサミを振り上げる女。
「うおおおおおおおっ!」
トンネルの中から飛び出すと同時に、煌津は天羽々斬でハサミ女に斬りかかった。間を置かず、二撃目、三撃目を叩き込む。最後に蹴りを放って相手を吹っ飛ばす。
「はあ、はあ……」
おかしい。ハサミ女の姿が変わっている。着ているワンピースのような服は一緒だが、身長が高くなり、髪型も何となく違う。不揃いに切られた黒い長髪……。
「まさか……」
ハサミ女が顔を上げた。
「三原さん……」
まるで鬼にでもなってしまったかのような顔つきで、三原稲は笑っていた。
「ハサミ女に憑りつかれたのか」
三原稲――ハサミ女の目が、ぎょろりと煌津に向けられる。
「あ……あ……九宇時君……だああ」
嬉しそうに、ハサミ女が笑う。
「九宇時君、見てええ。ボク、ハサミ女と一緒になったんだよおおおお」
相変わらず、稲は煌津の事を九宇時だと思っている様子だ。何て事だ。こんなの完全に予想外だ。いや、予想しておくべきだったのか。いずれにせよ、問題だ。これではハサミ女を攻撃出来ない。迂闊に攻撃すれば、稲の体を傷つけてしまう……!
「九宇時くぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅぅん!!」
ハサミ女が斬りかかってくる。駄目だ。攻撃出来ない。煌津は天羽々斬でハサミの一撃を防ぐ。拍子に、手に持っていたビデオを落としてしまったが、今は仕方ない。煌津は両手で剣の柄を握り直し、ハサミ女の攻撃を次々といなしていく。
「千恵里ちゃん! 逃げろ!」
千恵里は頷き、立ち上がろうとした。だが、ハサミ女のハサミと煌津の剣が噛み合う音が恐ろしげに響き渡り、千恵里の動きが鈍る。
「この……!」
ハサミだけを狙い、煌津は剣で反撃に出た。武器を落とす事が出来れば、千恵里が逃げられるだけの隙が生まれるはずだ。右から左、左から右へと剣を振るい、動きが単調にならないように時折時折全く別の場所から打ち込む。
「九宇時くぅぅぅんっ!」
「ごめん、三原さん! 必ず助ける!」
稲をこうしてしまったのは、煌津の責任だ。剣撃を放ち、押し返しながら、煌津は床に落ちたビデオを探す。せめて、変身出来れば……!
――バチバチバチ!
天井に開いたゲートから音がした。誰かが出てくる。那美か。那美なら、この局面でも何とかなる。
煌津は開いたハサミに剣を噛ませ、くるりと一回転させてハサミ女の手からハサミを撥ね飛ばす。
ゲートから黒い影が飛び出した。目にも止まらぬ速さで着地し、さらに跳躍。そして――
「ぐっ!?」
煌津の顔を蹴り飛ばした。すかさず体勢を立て直し、煌津は剣を構える。
「お前……!」
着地した黒い影は、栗毛色の長髪を掻き上げて、煌津を見た。
「いやあ、先輩。追いついたよ」
静星乙羽がにやりと笑った。
何故こいつがいる。いや、何故こいつしかゲートから出てこない。
「お前……九宇時さんはどうした」
剣を構えたまま、煌津は問うた。
「はあ……先輩」
静星が呆れたようにため息をつき、しかしすぐに可笑しそうに笑い声を上げる。
「そんなわかりきった事、聞くまでもないでしょう」
ひゅっ、と。静星が床に向かって何かを投げた。
それが、何かはすぐにわかった。血で汚れているが、間違いようがなかった。銀色のリボルバー。
「九宇時先輩なら、わたしがこの手で殺してやりましたよ」
――一瞬、思考が働かなくなった。
赤い血がついたリボルバーを見つめる。那美の顔が頭をよぎる。次々と。この思いを煌津は知っている。この衝撃を煌津は知っている。
こんな、こんな思いを二度も――……
「うぁああああああああっ!!」
爆発した感情は煌津の体の中を駆け巡り、一直線に静星へと向かわせた。怒気を込めた連撃は、しかし全てをハサミ女のハサミによって防がれる。
「お前、お前、お前ぇぇぇっ!」
「うわあ、すっごい顔だなあ先輩。まるで……」
静星が嘲笑う。
「我留羅みたい」
「ああああああああぁああっ!」
もはや振り方も何も滅茶苦茶だったが、煌津の中にあるのは殺意だけだった。自分が物凄いスピードで怪物になっていくのを感じる。怪物とは、姿形が変わる事でも、呪力に
「はあ……もういい。ハサミ女!」
振りが大き過ぎたせいで、胴ががら空きだった。鋭利なハサミの先端が、ずぶりとそこに突き刺さり、腹部を破り、背中まで貫通する。
「がはっ……!」
せり上がってきた大量の血を、煌津は口から吐き出す。ハサミが引き抜かれる。体を支えられるはずもなく、煌津は床に倒れ込む。
「はあ、はあ……」
視界が真っ暗になっていくのは、血が急速に失われているからだろう。今の煌津は変身していない。この出血量では万に一つも助からない。
「千恵里を連れてきて」
静星の声が聞こえる。少しして、短い悲鳴。閉ざされつつある視界で、ハサミ女が千恵里の首根っこを掴んでいるのがわかる。
「ま、こんなものだよ。先輩。呪詛で街が満たされるのを見てもらえないのは残念だけど」
静星が、耳元で言った。
「せいぜい自分を呪って死にな」
何かを言い返したかったが、もはや体に力が入らない。
静星の哄笑が、いつまでも聞こえていた。
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