第三章 ハサミ女 4
4
三原家の一軒家は、怪異研究施設からそれほど遠くない。横長の角ばったアタッシェケースを手に持ち、煌津は住宅街の中を行く。
「作戦を説明する」
先を行く那美が振り返って言った。
「三原さんの家に着いたら、稲の部屋まで真っ直ぐ行く。たぶん、母親に妨害されるだろうけど、それは無視する」
「……妨害?」
那美の目つきが険しくなる。
「ええ。三原の家にとって、九宇時の人間は〝失敗〟した人間だから。たぶん、言いたいだけ罵倒されるだろうね」
「失敗って、それ……」
那美は一瞬足を止め、空を見るように顔を上げた。
「別に義兄さんがしくじったわけじゃない。元々三原稲は、大学でいじめに遭ったせいで二年ほど引きこもり生活だった。悪い事に、彼女に憑りついた我留羅はトラウマを刺激するタイプでね。義兄さんは三日がかりでそいつを祓ったけど、霊感が覚醒してしまった三原稲は、もう元の生活に戻れなかった。外を歩けば、そこら中に浮遊霊やら地縛霊やらを見つけてしまう。我留羅によって傷つけられた心は辛い記憶をリフレインし続け、生涯憎悪を抱えさせる。祓いが終わったあとも、義兄さんは何度も何度も三原の家に通っていたよ」
煌津は目の前の道を見た。
この道を那岐は通ったのだ。何を思っていたのだろう。千恵里の魂を慰めるために難波さんの店に通っていたように、自分が助けようとした相手を、最後まで救おうとしていたのだろうか。
「ねえ、穂結君。私は義兄さんが許せないんだ」
歩みを再開した那美が、ぽつりと呟く。
その顔は、前を向いていて、決してこちらを見ようとはしない。
煌津は、アタッシェケースの取っ手を握り締める。
「逃げたように見えるから?」
「見えるんじゃない。逃げたんだよ。何だかんだ言っても、結局やるべき事を投げ出してあっちに行ってしまうなんて、許せなくて当然じゃない?」
「何か事情があったとしたら? その、何か、俺たちではわからないような理由を抱えていたとか」
那美が浅く笑う。
「その事情は、私たちには話せないようなものだったの? 話してくれたっていいでしょ。死ぬよりかましだよ」
「それは、そうだけど」
「だいたい穂結君は、怒ってないの? 義兄さんはあなたに特に何も言い残していかなかったんだよ。何一つ。一緒に幽霊見た仲でしょ? それでいいの? 友達として」
那美の声に怒気が混ざる。
いや、きっと。那美はずっと怒っていたのだ。ずっと。那岐がいなくなってしまってから。
「……俺は、九宇時の選択をジャッジ出来ない」
雲を掴むかのような、言いようのなかった自分の感情を、煌津は何とか言葉にした。
「やっぱり九宇時には九宇時の考えや、事情があったんだと思うし。それがわからないのに俺が何かを言うのは違うと思うんだ」
「ずいぶんと物分かりのいい事を言うね」
「そうだね。でも……」
煌津は足を止めて言った。
「言えないのをわかってやれるのも友達でしょ?」
那美が、振り返った。
その目は、魔力の通っていない、普通の目だった。髪と同じような、銀に近い灰色の目。真っ直ぐ受け止めるにはあまりにも強く、複雑な感情が込められた目。煌津はその視線から逃げないようにするので精一杯だった。
「……私は言って欲しかった」
那美の言葉は、まるで煌津の喉元に迫ってくるかのようだった。
「穂結君だって、本当はそうでしょ?」
まるで、那美の指の一本一本が喉に食い込むかのような迫力だった。彼女は答えが知りたいのだ。もう絶対に答えが得られない事を理解しているのだ。
「うん。本当は、俺も知りたい」
ありもしない那美の指が喉を締め付けるままに任せて、煌津は言う。
「だったら――」
「でも九宇時を責めたくはないんだ。一番辛いのはきっと、選択をした張本人だと思うから」
幻想の指がいっそう深く食い込んだような気がして、それからふっと軽くなる。
那美は怒ったような、しかし、怒りは一度引き下がったような、そんな顔をしている。
「君を評する言葉をずっと探していたんだけどね。今わかった。君は偽善者だ。都合の良い優しさを振りまく偽善者だよ」
「都合が良くてもいいよ。その瞬間だけでも人生は救われるんだから」
「一生そのスタンスでやっていくつもり? はあ、まったく……」
呆れたようにため息をついて、那美は言った。
「話がだいぶ逸れたね。作戦の話をするよ。三原さんの家に行ったら、穂結君は二階に駆け上がって。稲か、母親か、どちらかがハサミ女の触媒だろうけど、たぶん稲のほう」
「霊感があるから?」
「その通り。今の私は退魔屋チェンジが出来ない。でも、穂結君は包帯マンに変身出来るから……」
「待って。包帯マンはちょっと……」
「何、不満?」
「むしろ何でそれで満足すると思ったのか……」
「うーん」
那美は腕組みをして、考えるように唸った。
「じゃあ、ビデオマンね。ビデオで変身するから」
「それもちょっと……」
「今はビデオマンでいいでしょ。何ならあとでかっこいいの考えてあげるから」
「いや、自分で考えるよ!」
「とにかく。穂結君は二階に上がると同時にビデオマンに変身。ハサミ女が出てきたら、そのケースの中身を全力でぶち当てて。あとは私が何とかする」
「……オッケー。怖いけど、やってみるよ」
緊張感に身震いしながら、煌津は言った。
「ところで、これの中身って何?」
煌津はアタッシェケースを軽く持ち上げて問うた。
「〝その
「……古事記?」
那美はこくりと頷く。
「それの本物は、この国でも最強の武器とされる。それは、かの
那美の言葉が、ケースの中身の神通力を通わせているかのような気がした。
「
閑静な住宅街の中で、ぽつんとその家だけ建てられたような場所に、三原の家はあった。
「準備はいい?」
「うん。大丈夫」
ショルダーバッグの留め具を外しておく。中には変身用のビデオが入っている、
「念のために言っておくけど、スマホの電源は入れたままにしておいて。何に使うかわからないから」
「オッケー」
スマホの電源……大丈夫だ。ちゃんと入っている。
三原家の外観は妙なところがなく、嫌な気配も感じられない。自分で言っておいて何だが、本当にこの中にいる人物がハサミ女と関係があるのだろうか。
ブゥーン、ブゥーンと、スマホが唐突に震えた。
MMAのトーク受信のバイブレーションだった。見覚えのないアイコンだ。こんな時に一体何だろう。運送会社のアイコンではなさそうだ。
『先輩、御無事ですか? 救急車で運ばれて行っちゃったので、心配しています。良くなったら、連絡ください』
「え、誰……?」
戸惑いながら、画面に表示された名前を見る。
左上には、静星乙羽と表示されている。
「静星さん……?」
「穂結君、何やっているの。行くよ」
「ああ、ごめん」
返信している暇はなさそうだ。仕方なく、煌津はスマホをポケットに仕舞う。
それにしても、静星にMMAのアカウントを教えただろうか? どうにも身に覚えがない。
那美が三原家のチャイムを鳴らす。
『はい』
気怠そうな女性の声が聞こえてきた。那美が軽く息を吸った。
「三原さん。お久しぶりです。九宇時です」
向こうの女性が、押し黙ったような気配があった。
「三原さん。稲さん、いらっしゃいますよね?」
あくまで冷静な口調で、那美は言う。
『一体、何の御用なんです?』
「稲さんの身に危険が迫っています。ご存知ですよね。稲さんの様子が、最近また変わってきていらっしゃる事は?」
『……別に、普段と変わりませんが』
「――不自然な家の軋み。重圧感。寒すぎるほどの空気」
玄関のドアに手をかざし、那美は言った。
「三原さん。家の中に自分たち以外の何者かがいる気配を感じていませんか。……以前のように」
『……ッ!』
あからさまに舌打ちされて、通話が切れる。
「怒らせた?」
「もうずっと怒っているよ、あの人は」
淡々と那美は言った。
「ドアが開く」
「わかるの?」
「リーディングで、ちょっとだけ」
リーディングが何の事かはわからなかったが、問い返す前に鍵の開く音がして、玄関のドアが開く。
「……どうぞ」
陰鬱な顔をした女性が、あからさまにこちらを睨みながら言った。
「お邪魔します」
那美がそう言って中へと進み、煌津も挨拶をして家の中に入る。
予想に反して、家の中でも妙な気配はしなかった。
ただ、物音がしない。一切。
「稲さんは二階ですか」
「ええ……」
不審そうな目で、女性は那美を見た。
「でも、信用していいんですか。結局あなた方は娘を救えなか――」
「失礼」
女性の言葉を無視して那美は二階に進もうとしたが、その腕を女性はがっちりと掴んでいた。
「ちょっと! まだ話は終わってないんですよ!」
腕を振り払うでもなく、じっと女性を見つめ返しながら、那美は口を開く。
「穂結君、行って」
「……わかった」
女性が反応するより早く、煌津は二階への階段を駆け上がった。女性の金切り声が聞こえてくるが聞き流して上に進む。
二階の廊下は短く、いくつかの部屋があった。どこが三原稲という人の部屋なのだろう。やはり、不気味なまでに物音がしない。
一歩を踏み出す。手当たり次第ドアを開けている暇はないだろう、という予感があった。
アタッシェケースを床に置き、ショルダーバッグからビデオを取り出す。ショルダーバッグは、そのまま床に置いた。ビデオで変身するなら、邪魔になるだけだ。
「ふー……」
腹部を指の腹で二回叩く。服の上からビデオデッキが現れる。ビデオをそのまま取り出し口に押し込むと、中へ吸い込まれていく。
ドン! と家全体に衝撃が走った。
まるで、何かが家の外からぶつかってきたような音だ。続いて、ひどい家鳴りが聞こえてくる。梁が軋んでいるかのような激しい家鳴り。気が付けば、ひどく空気が冷たい。
それに、廊下の奥の部屋。目が離せない。ひどく、怖い。怖いのに目が離せない。
いるのだ。中に。あの部屋の中だ。この異様な気配の発生源はあの部屋の中からだ。
家鳴りが止まない。下のほうは一体どうなっているのだろう。何故那美は上がってこない?
――ぎぃいい。
ひと際大きな音が聞こえた。
廊下の奥のドアが開いている。煌津は無意識に再生ボタンに右手の指を置いていた。だが、体は固まっていて、まともに動けるかがわからない。
人影が、ドアの隙間から現れた。
髪の長い、若い女の人だった。思ったよりも恐ろしく感じないのは、彼女から魔力も呪力も感じないからだろう。
「三原……」
舌が喉に貼りつく。うまく声が出ない。
「三原、稲さん……?」
「あなた、誰?」
稲の声は、決して怖い声ではなかった。こんな状況では普通過ぎるくらいだ。
何か、既視感のようなものがあった。三原稲に、というより、その雰囲気にだ。三原稲の姿がぶれる。ノイズのように。どこかで見た。似たようなものを。どこで……。
崖っぷちの家/居間/何かをノートに書いている子ども……
「あのノートは……」
「あなた――」
稲の声が聞こえる。自分は怯えているのだろうか。とてつもなく怖いのに、稲だけが異質だ。
「九宇時、くん……?」
「――――え?」
――カッ。
金属が打ち鳴らされる音がして、煌津の右肘の辺りに焼けるような激痛が走る。
「あ――」
くるくると煌津の右腕が宙を舞い、
真っ赤な血液が、切断面が噴出した。
「あぁああああああああぁあああっ!!」
恐怖も何もかもを、右腕を斬り落とされた激痛に奪われて、絶叫を上げながら、煌津は床へと倒れ込む。
血飛沫の向こう側に、ハサミ女がいた。煌津の血で濡れたハサミを振り上げて、今度は煌津の頭目がけて振り下ろしてくる!
「ああああぁがああああっ!!」
渾身の力を振り絞って、煌津は左手で再生ボタンを押した。
【
瞬間、全身に魔力が通い、包帯に体が覆われてく感覚があった。斬られた腕にも包帯が巻かれて、触手のように伸びた包帯が、床に転がった右腕を掴み、断面と断面をぴたりとくっつける。魔力の糸が傷口を瞬時に縫い合わせていく。
「このっ!」
くっついたばかりの右腕をバネにして飛び起きざま、左手をハサミ女に向けると同時に叫ぶ。
「絡み付く包帯!」
左手の指ぬきグローブの亀裂のような模様から、触手のようにもつれあった包帯が放出される。血に濡れたハサミが包帯に巻き取られ、煌津は力づくでそのままハサミを奪い取り、放り投げる。
くるくると回ったハサミが踊り場の上の天井に突き刺さった。
ハサミ女の真っ白な目が、煌津を見ていた。
変身した煌津は、今やその目を真っ直ぐに睨み返す事が出来た。最初に遭遇した時よりも、恐怖を感じていない。
「勝負だ。ハサミ女」
その言葉に、ハサミ女は確かに嗤った。
ハサミ女の背中や腹や足の付け根から、灰色の腕が生えた。手に持っているのは、小さなハサミ、カッター、包丁。斬って人を傷つける事が出来る物ばかり。
「嘘だろ……」
驚く間もなく、カッターが煌津の目を狙ってくる。床を蹴って後ろへ跳ぶ。とても昨日までの煌津には出来なかった反応だ。夢の中で受けた特訓を体が覚えている。
「絡み付く包帯!」
右手と左手の両方から、うじゃうじゃと蠢く包帯を射出する。目くらましも兼ねた攻撃だ。一本一本が蛇か
ぬらり、とハサミ女の影が動く。骨でさえ柔らかく曲がっているような奇怪な動きで、ハサミ女の得物を持った数本の腕が蠢く包帯の隙間を縫って煌津の体を狙う。煌津の包帯はあくまでも野性的であり、ハサミ女の腕は怪物のそれでありながら明確に狙いをつけていた。
「うわっ!」
正確に太腿を狙ってきたカッターの突きを躱すと同時に、射出し続けていた包帯を切って、煌津は後方へ跳ぶ。
「爪の包帯!」
掌から発生する包帯がぐるぐると巻き付いて、あっという間に分厚く、大きな十本の爪を形成する。ハサミ女の腕はさらに増えていて、絡み付く包帯をかいくぐって迫ってくる刃物を十本の爪を大雑把に振って払い落とす。
「このっ!」
振りかぶった右手の大きな爪がハサミ女の頭部へと襲い掛かる。が、ハサミ女の背から瞬時に生えた灰色の不気味な腕が、煌津の爪を掴んだ。増えた腕の指先がずるり、と爪の包帯の中へ沈み込む。
「やばっ!」
慌てて爪を解除して、右手を引き戻す。先日の二の舞になるところだった。ハサミ女を煌津の力だけで倒すのは無理だ。やはり、必要なのは……
「天羽々斬……」
アタッシェケースは少し後ろだ。左後方。
包帯の壁をズタズタに切り裂いて、ハサミ女が進んでくる。あまり距離はない。迷っている暇も。
「うおおおっ!」
左の爪を横殴りに叩きつける。ハサミ女は余裕だ。右手一本でそれを受け止め、すかさず反撃の蹴りを繰り出してくる。右手を包帯で厚く防護し、そのまま手の甲から落としてハサミ女の前蹴りを防ぐ。勢いそのままロケットのように突き上げた右拳でハサミ女を狙うが、相手はさっと身を傾けてカッターの刃を煌津の胴体めがけて突き込んでくる。だが、その位置にはすでに左手がある。
「絡み付け!」
うじゃっと飛び出した包帯がハサミ女の腕を絡め取る。途端に内側から切り裂かれる。ハサミ女の腕からさらに小さな腕が生えていて、それらが皆ハサミやカッターを持っていた。
「うっ――」
その異様さに呻いたのも束の間、ハサミ女のハイキックが側頭部に叩き込まれ、煌津は廊下の端まで吹っ飛ばされる。ポケットからスマホが落ちて、床に硬い音を立てた。角にぶつかり、背中が痛むのも束の間、煌津は床に落ちる。アタッシェケースを飛び越していた。
「すごいでしょ、この子。ボクが生き返らせたんだよ」
いつの間にかハサミ女の傍らに、三原稲が立っていた。
「もう九宇時君に頼らなくてもいいの。この子でボクを苦しめた奴らを皆殺しにするの。今はビビらせるだけビビらせてね。あとで、殺すの」
三原稲の目は完全に煌津を捉えながら、九宇時君と煌津の事を呼んでいた。
「俺は、九宇時じゃない……」
三原稲の目は常軌を逸していた。瞳はこちらを見ているはずなのに、見えているのは現実ではないのだ。長い前髪を掻き上げ、いや、ぐしゃぐしゃに握り潰して、三原稲は早口になる。
「九宇時君が死んじゃったって聞いた時、ボク、すごい悲しかった。ボクね。ずっとボクに優しくしてくれる九宇時君の事が好きだったんだ。だから、本当に、死んだって聞いた時はどいつもこいつも皆殺しにしてやりたくて――!」
あとはもう言葉にならない叫び声が、三原稲の喉から漏れた。
「九宇時君はもう戦わなくていいんだよ。この子が全部殺してくれるから。もうちょっとなんだ。もうちょっと呪力が集まればこんな街の奴ら皆殺しに――」
「させるか、そんな事!」
右手から絡み付く包帯を射出。ハサミ女が複数の腕を出して切り刻もうと体勢を取る。その瞬間、煌津は左手から包帯を射出させ、アタッシェケースを包帯で掴み取るや、ハサミ女に向かって投げつける。アタッシェケースが壊れ、ハサミ女が壁にぶつかり、砕けた壁が埃を立てる。三原稲はすかさず後ろに下がっていた。
アタッシェケースの中身がくるくると回って、煌津の足元に突き刺さる。
聞いていた通り、剣だ。
「ハサミ女!」
三原稲が叫んだ。黒い影が壁から飛び出して突っ込んでくる。煌津はすかさず剣を床から引き抜いた。教習用ビデオの中には、剣の訓練もあった。
ガキン! 複数の刃物が打ち合う。だが、小さなハサミやカッターと、一振りの剣とでは比べるまでもない。
「おぁっ!」
剣撃の衝撃を殺さず、ハサミ女は壁から壁へと跳躍して煌津から距離を取る。狙いはすぐにわかった。ハサミ女の手が天井に刺さったままの大きなハサミを抜き取り、空中で前転して煌津へ斬りかかってくる。
「ぐっ!」
ガン! ガン! と天羽々斬とハサミが打ち合う。煌津は胴体を狙って斬りつけるが、ハサミ女は攻撃を読んでいるかのように防御し、斬り返してくる。
「だったら!」
全力で素早く剣を振るい、煌津は階段の下のほうへハサミ女を押し込んでいく。【早送り】は迂闊に使えない。この姿では自制が利き辛いのだ。テープの残量を早々と消費してしまうのは避けなければならない。
「ハサミ女! いつもの動きをしていいよ! 九宇時君を戦いから解放してあげよう!」
……いつもの動きって何?
疑念の答えは黒い影の動きにあった。階段を破壊しながら跳躍し、目にも止まらぬスピードでハサミ女が攻めてくる。もはや斬られているのか殴られているのか蹴られているのかさえわからないほどのスピードだ。
「ぐはっ!」
壁に打ち付けられ黒マスク越しに血を吐く。思わずマスクを外して捨てる。三原家の中は、もはやどこもかしこも壊れていたが、住人の三原稲は気にした様子もない。
ハサミ女がやってくる。大きなハサミを携えて。
立たなければ。しかし全身が裂けそうなくらいの筋肉痛だ。頭も体も攻撃され過ぎてそこら中が痛い。
「九宇時君、大丈夫? もうすぐ苦しいの、終わるからね」
三原稲が心配そうに顔を覗き込んでくる。出会って数分だが、煌津はこの女性が嫌いになりそうだった。
「ハサミ女。首を落として。それで絶対に生き返らないよ」
ハサミ女がハサミを開く。やばい。駄目だ。早送りで逃げないと。でも、ここで逃げたら那美は?
――ブゥーン、ブゥーン。
何かが、床で振動している。
バイブ音でわかる。あれは煌津のスマホだ。電話がかかってきている。こんな時に。ハサミ女の動きは電話ごときでは止まらない。開いたハサミが煌津の首根っこに迫る。
――ザ、ザ、ザ。
雑音がした。
電話に出たのだ。煌津のスマホが。操作なんてしていないのに。
『あ、もしもし? 穂結先輩? わたしです。静星です。今、住宅街の中にいます』
ブチ、と電話が切られる。
「嘘……何で……」
愕然とした声を出したのは、三原稲だった。何故か青ざめた顔で、床に落ちた煌津のスマホを見つめている。
「ハサミ女! 待って!」
三原稲の声に、ハサミ女が動きを止める。
――ブゥーン、ブゥーン。
また、着信だ。数度振動して、それから、また勝手にスマホが電話に出る。
『もしもし? 穂結先輩? わたしです。静星です。今、家の前にいます』
明るい口調だが、まるで機械めいた声だった。
……家の前? どこの?
「何で……乙羽ちゃんが、こんな時に」
三原稲の怯えたような声が聞こえる。家の中に静寂が戻っていた。
ガチャガチャ、と階下でドアが開いたような音がする。
階段が軋む音がする。誰かが下から上がってくる。
そんなに長い階段ではない。見え辛いわけでもない。でも音がするのに、誰が上がってくるのかがわからない。
――ブゥーン、ブゥーン。
三度、スマホが震える。床でずっと振動し続ける。
ザ、ザ、ザ、と。また雑音がした。
『もしもし? 穂結先輩? わたしです。静星です。今――』
階段を上る足音は止んでいる。
背中に怖気が走る。誰かが、倒れた煌津の肩に触れる。指が、顔まで登ってくる。 氷のように冷たい指が。
「――あなたの後ろにいるの」
静星乙羽が、煌津にそう耳打ちした。
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