第三章 ハサミ女 3
3
解放されたのは昼時だった。夢の中での特訓だったはずなのに、体はすでにバキバキだ。
「死ぬかと思った……」
「死なないよ。夢だもの。まあ、夢の中に侵入してくる我留羅や怪異もいるけど」
「めちゃくちゃ怖かった! 最悪だ。夢に出そうだ……」
「初期の訓練には、あの形式が一番手っ取り早いんだよ。勝つまでやらせるのがさ。いいじゃない、夢なんだから」
「何て巫女さんだ。怪異を操っている」
「シミュレーションだよ。それに、巫女さんである前に退魔屋だもの。魔に打ち勝つのが仕事なの」
とんでもないな。煌津は自分のベッドに座る。ベッドテーブルの上にはすでに昼食の用意があった。
「じゃあ、状況を説明する」
ロールパンをちぎりながら、那美は言った。
バゲットに二人分のロールパンが山盛りになっていて、それぞれのトレイに昼食が並んでいる。入院患者にしてはすごい食事量だ。
「お昼のあとじゃ駄目? 少し休みたいんだけど……」
「私も休んでほしいけど、残念ながら時間がなくて」
そう言って、那美はちぎったロールパンの破片を食べる。
「義兄さんがいなくなってからしばらくの間、この街の我留羅は鳴りを潜めていた。私一人でも何とかなる程度にはね。でも、ひと月ほど前から、大きめの我留羅による事件が発生するようになった。穂結君も見た、あのでかい顔……元は、《落ちる》ってコードネームの小さな地縛霊だった奴ね。あの混合型レベルの我留羅が三体、立て続けに事件を起こしていた。全て祓ったけど、急に我留羅が活発化した原因がわからなくて、私はそれを探っていた」
ちぎったロールパンを口に入れ、オムレツをフォークで切り取る。
「あの駅前の事件」
那美の目が煌津を見る。
「捩じられた女の人の?」
「そう。あれも我留羅の仕業。残っていた穢れの質から考えて、あれをやったのも大物で間違いないと思う。でも、まだ見つけられていない。それどころか、ハサミ女が出てきてしまった」
那美は手に残ったロールパンを半分に割った。
「その……ハサミ女って」
那美は鞄の中から、古い新聞を取り出した。S県の地方紙だ。相当年季が入っている。日付を見ると、十年前の八月三十一日の新聞だった。
「十年前。宮瑠璃市は、ある我留羅に脅かされていた。死者二十一名、行方不明者六十五名、生還者十三名。皆一様に大きな刃物によって傷がつけられ、殺された。宮瑠璃市を呪うためだけに現れたような我留羅。それが、ハサミ女だよ」
煌津は新聞を見た。一面には宮瑠璃市の事件について書かれている。見出しには『宮瑠璃市、行方不明者続く』とある。
「千恵里ちゃんも、この時に……?」
那美は黙って頷いた。
「襲われた人に共通点はない。無差別に、無慈悲に、ただ淡々と殺すだけ殺した」
「一体何でそんな怪物が、いきなり宮瑠璃市に現れたんだ?」
「さあね。一説には、誰かが《
「……何の世界だって?」
「ダークミスト」
那美の指が瞬時に動き、空中に桜色の魔力の線で『闇霧』という文字が描かれた。
「異界の一つにして、悪しき者の根源。この世界が地球に影響し、我留羅や怪異が出現する。古い資料によれば、どこまでも続く暗闇と霧の世界と言われている。『
「……暗闇なのに霧が見えるの?」
「見えるらしいよ。闇霧の世界では肉体の機能ではなく、魂によって物事を見るから。剥き出しの霊魂の世界。ハサミ女レベルの怪物だと、おそらくここからやって来ている」
「そんな化け物とどうやって戦うんだ」
「十年前は数で戦った。私のお義父さん、お義母さん、義兄さん、ほかの街の退魔屋や、流れの術師たちと」
「九宇時も? だって……まだ当時は六歳くらいじゃ」
「宮瑠璃の魔力を得ているからね。この街で戦う限りは、たとえ六歳の子どもであっても強い」
那美は水を飲んで、一呼吸置いた。
「十年前の退魔屋たちは、街の魔力ネットワークを使い、ハサミ女を地中深くに封じ込めた。祓う事は出来なかったけど、それで脅威は去ったはずだった」
「……でも復活した?」
「どうやってか、ね。ただ、私の見た限り、ハサミ女は当時の力を取り戻していないように見えた。もし十年前の力であれば、私たちが生きているはずはない」
――あの時。煌津がハサミ女と戦ったあの時。ハサミ女は煌津に止めを刺さなかった。傷を治癒していた煌津を見て、去ったのだ。
「ハサミ女はどうして俺を見逃したんだろう」
「それを言うなら私もね。結局二人とも生きている。いずれにせよ、まだ付け入る隙はあるのかもしれない」
コンコン、とドアがノックされたのはその時だった。
「母さんかな」
「いや、ちょっと人を呼んでおいたんだよ。どうぞ」
那美が声をかけると、ドアが静かに開き、黒いスーツ姿に黒いサングラスの男が二人、音もなく入ってきた。
「準備が出来た。行けるか」
似たような外見の二人のうち、一人が問う。
「え……その、誰」
「防衛省の鈴木
スーツの男は頷いた。
「外にいる」
パタン、とドアが閉まる。
「今の誰!? 防衛省!?」
「退魔屋は古の時代からこの国の安全を影で守ってきた。私みたいに銃器を使う人もいるから、日本で退魔屋をやる以上、防衛省の協力は不可欠なんだよ。まあ、フリーで好き勝手やっている人もわりと多いけど」
言いながらも、那美は手早く食事を進めていく。
「穂結君も食べて。荷物はそんなにないだろうから、準備が出来たら出かける」
「今度はどこに?」
「映画館」
言いながら那美はロールパンを頬張る。
煌津は自分の昼食を見る。まだ結構量があるが、急いで食べたほうが良さそうだ。
車に乗り、十五分ほど移動する。レンガ造りの、楕円形ドームがある古い建物が見えてきた。
建物の表札には《宮瑠璃市気象研究所》とある。
「ここは宮瑠璃市の怪異研究施設。表向きは、気象研究所という事になっているけど、実際は対呪詛、対魔力の技術を凝らした要塞なの。いざという時の避難所その二ね」
鈴木と佐藤に続いて、那美と煌津は建物の中に入る。警備員と白衣姿の人たちが見えた。建物内は静かで、中で何をやっているのか伺い知る事は出来ない。
「こっち」
那美に言われるがまま、階段を下りる。少し古びた臭いのする通路を進むと、さながらコンサートホールめいた扉が見えてくる。
「どうぞ」
鈴木右近(ずっと右側にいたから、そうだと思う)と呼ばれた男が扉を先んじて開けてくれた。お礼を言って、煌津は中に入る。
中は、まさしく映画館だった。ミニシアターのようだ。こぢんまりとした座席に、映画館としては小さく感じるスクリーン。
「席に着いて」
佐藤左近(まるでそれがルールか何かのようにずっと左側にいるから、そうだと思う)と呼ばれた男が、低い声で言った。
那美と煌津が席に着くと、すかさず魔力が劇場を覆ったのがわかった。天井、床、扉を含めた劇場の周囲を全て。
「今のは?」
「コーティングした。呪詛が漏れ出さないように」
言いながら、那美はリボルバーを取り出す。
「穂結君もいつでも変身出来るようにしておいてね。ひょっとすると、ちょっと面倒な事になるかもだから」
言われて、煌津は鞄の中から『変身』と書かれたビデオを取り出した。
どこからともなく、キャスターのついた大きな機械が運ばれてきた。全長二メートルくらいはあるだろうか。何の機械はわからないが、プロジェクターのようなレンズがついている。
「これは記憶媒体系の呪物を再生するための機械だ」
右側の鈴木が言った。スクリーンのカーテンが開いていく。
「今から、これを再生する」
そう言いながら、左側の佐藤が手に持ったジュラルミンケースを掲げる。パカっと、蓋が開く。中には何らかの装置が内臓されており、その中心に、白いビデオテープがあった。
「あれは……先生に憑りついていた白い腕のビデオ?」
「そう。あの中には先生を呪ったモノの手がかりが含まれているはず。ハサミ女の居所とか、先生を襲った際の念だとかね」
那美が説明している間にも、鈴木と佐藤がテキパキと準備を進めていく。黒い手袋をした手で、佐藤が白いビデオを取り出し、プロジェクターに入れる。再生ボタンが押され、レンズから光が放たれる。劇場の照明が暗くなっていく。煌津は自然と身が固くなった。今から見るのは映画ではない。本物の呪いのビデオだ。
――……映像が乱れる。呻き声のようなノイズが入る。
『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ』
『嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ』
床に臥せった男の人が呻いている。床は一面真っ赤な血で汚れている。カメラの角度が正面から斜め、また正面と次々と移り変わっていく。斑点のような黒い染みが、ところどころに映る。
嫌な感触が胸の中に広がる。
『ひっ……っ、ぐす、ぅ、っ、あ、ああああぁ』
誰かが泣いている。黒い長髪に指を入れて掻き乱している。女の子だ。いや、たぶんあれは、煌津よりも年上だろう。
『嫌、嫌、嫌、嫌――』
女の子が泣いている。煌津は喉に指がかかっているような気がした。胸が締め付けられる、どころではない。この映像を見ていたら、殺される――……
『いつでもいいよ。イネの好きなタイミングでいい。ゆっくりやっていこう? ね?』
それまでとは打って変わって優しい声が聞こえた。
画面には、見覚えのある顔が映っている。
「柳田先生……?」
ノイズが走り、画面はすぐに不鮮明になってしまう。
頭痛がする。意識をしっかり持たないと、どこかに吹っ飛ばされそうだ。
『存分にやる――と――いいよ。十年前のよ――うに。狙っ――』
いつの間にか、画面が変わっている。今しがたの黒い髪の女の子が床に、切り離した長髪の残骸を落とす。ノイズがひどい。音が途切れ途切れだ。
暗闇と彼女の長髪が同化する。
『――勝てるまでやるといいよ。獲物はたくさんいるんだし』
……誰かの声が入った。これは今の、画面に映っている女の子の声か?
「う、ぐっ……」
全身が砕けそうになる。煌津は呪われているのを実感した。
『さあ――……皆殺しに――――して――きて」
画面が変わる。曇天の下の一軒家が見える。
表札には――三原――と書いてある。
「何で俺の腕、切っちまったんだよおおおぉおおぉっ!」
突然の男の叫び声とともに、画面から幾本もの白い腕が飛び出した。
「――ッ!」
反射的に、煌津はビデオデッキを出現させている。ビデオを取り出し口の手前まで入れる。
「オン・マユラキ・ランデイソワカ」
右手側から、鈴木の張った声が聞こえた。その手は何か、印を結んでいるようだ。
「オン・マユラキ・ランデイソワカ」
まるで合わせ鏡のように左手側では佐藤が声を張っていた。やはり鈴木と同様に印を結んでいる。
二人の声が唱和する。煌津は自分を蝕んでいた呪力が遠ざかるのを感じた。
「「ノウモボタヤ・ノウモタラマヤ・ノウモソワキヤ・タニヤタ・ゴゴゴゴゴゴ・ノウギャレイレイ・ダバレイレイ・ゴヤゴヤ・ビジャヤビジャヤ・トソトソ・グログロ・エイラメイラ・チリメイラ・イリミタソ・ダメ・ソダメ・トオテイ・クラベイラ・サバラ・ビバラ・イチリ・ビチリ・リチリ・ビチリ・ノウモソトハボダナン・ソクリキシ・クドキャウカ・ノウモラカタン・ゴラダラ・バラシャニトバ・サンマンテイノウ・ナシャソニシャソ・ノウマクハナタン・ソワカ」」
飛び出してきた白い腕がのたうち回る。二人の唱和によって、呪力が削られていくのが目に見えてわかった。
「これは
隣で那美が解説してくれる間にも、白い腕がまるで、何者かによって啄(ついば)まれるかのように、次々と部分部分が消失していくのが見えた。唱和が三周もする頃には、白い腕はすっかり消えて、劇場には明かりが戻っていた。
パァン! とプロジェクターのついた機械が何かを弾き飛ばした。白のビデオテープだ。飛び出した直後は、ぎりぎりまで形を保っていたが秒と持たずに、まるで溶けるようにぐずぐずと崩れ落ちていく。
「ありがとうございます。鈴木さん、佐藤さん」
「あ……ありがとうございます!」
那美が頭を下げたので、慌てて煌津もそれに倣う。
「礼には及ばない。退魔屋の補佐は我々の仕事だ」
「それより、手がかりはあったかね」
鈴木と佐藤が、交互に言った。
手がかりは……あった。少なくとも煌津は見覚えがある。
あの表札は……。
「三原」
煌津と那美は同時に呟いた。すかさず那美の目が煌津に向けられる。
「穂結君……どうして三原さんの事を?」
「ああいや、昨日――」
煌津は中華料理屋から千恵里を連れて逃げた際の事を話した。血のように真っ赤な空の下で、煌津は確かに、三原という表札のある家を見たのだ。
「たぶん、この三原って家の人が、先生に憑りついた我留羅や、ハサミ女と関係があるんじゃないかと思って……」
那美は、押し黙って煌津の言葉を聞いていた。サングラスで表情が見えない鈴木と佐藤も、口を真一文字に結んで開こうとしない。
「九宇時さん?」
「……穂結君」
那美は言った。
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます