第三章 ハサミ女 1
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目の前で真っ赤な血が噴き上がる。千恵里が息を呑む声が聞こえた。白い巫女装束が崩れ落ちていくのが見えて、煌津は何かに突き動かされるかのように掌から包帯を射出する。両手から出た包帯が那美の体をぐるぐる巻きにしてきつく縛る。倒れそうになる那美を、煌津はすんでのところで受け止めた。
「九宇時さん!」
那美は反応しなかった。目はぎりぎり開いているが、顔は真っ青で、ぐったりしている。
「やばい……」
すぐに病院へ連れて行かないと。だが……
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
金属が打ち鳴らされる音が聞こえる。黒く乱れた長髪の女が、煌津の足から胸元くらいまでの長さのある大きなハサミを開けたり、閉じたりしている。女、と表現したのは、あくまでも立ち姿が女性っぽいだけで、実際のところ性別はわからない。顔は墨のように真っ黒で、どろどろと蠢いている。真っ白な両目が二つあるだけの顔は、まるで仮面か被り物のようでさえある。
「こいつが……ハサミ女」
黒い人影がぬらりと動く。本能的な危機感が、煌津の体を反射的に動かした。
【
「千恵里ちゃん!!」
怯える千恵里の手を掴み、煌津は屋根の上を【早送り】の力で加速した速度で駆ける。作戦はこうだ。この後、屋根の端から飛び降りる。下にはフジバカマノヒメが先生を抱えているはずだ。皆を店の中に入れ、包帯で店ごと巻く。そうすれば、多少はもつだろう。あとは、外に残った煌津が、さっきのようにハサミ女をビデオテープにしてしまえば……!
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
すぐ真横で、ハサミを開閉する音が聞こえた。
「嘘だろっ!?」
音のほうへ振り向いた煌津の眼前に、ハサミ女の真っ白な目が飛び込んできた。
ハサミ女が手に持った大きなハサミが振り上げられる。目で動きは追えるが、両手は塞がっている。無理だ。避け切れない。
死角から飛来した無数の矢がハサミ女の頭部や胴部に突き刺さる。矢の勢いは止まらない。
「ハゼランノヒメ!」
振り返ると、後方でハゼランノヒメが矢をつがえていた。
「ありがとう!」
ハゼランノヒメはアルカイックスマイルのまま、矢を連射する。千恵里を抱え、屋根の端から飛び降りる。着地。衝撃が骨に沁みる。
「フジバカマノヒメ! 先生を連れて中へ!」
頷いたフジバカマノヒメが柳田先生を抱えて店に入る。
「千恵里ちゃんも中へ!」
頷いた千恵里が煌津の腕から下りて、店内へ駆け込んだ。煌津は急いで店の中に入る。厨房の店主と女将さんは気を失っているようだ。今はどうしようもない。煌津は那美の体を店の床に横たえる。
そろそろ【早送り】の効力が切れる。
「ここで待っていて。いいね」
千恵里にそう言って、煌津は店の出入り口を閉めた。両掌から包帯を射出し、中華料理屋の建物に横巻にする。これで、いくらかは守りになるだろうか。
【
ボタンを押す。【早送り】状態が解除された。煌津は道路に出る。
狙いはある。だが、うまくいくかどうか……。
ぼとり、と何かが上から落ちてきた。
腕だ。弓を持った腕。続いて、胴体。右足。それらが地面にぶつかって、それから枯れ葉がちりぢりになるように消えていく。
「ハゼランノヒメ……!」
屋根のほうを見る。ハサミに頭を串刺しにされたハゼランノヒメが、煌津のほうを見下ろしていた。
「何て事を……」
カッ。ハサミが閉じ、ハゼランノヒメの頭部が落ちる。太陽を背に受けたハサミ女が、次はお前だと無言で煌津に告げている気がした。
「ふー……」
太陽の光は強く、建物が作る影はより濃くなった気がする。いや、気のせいではない。自分自身から伸びる影でさえ重たく、影の中から何者かがじぃっと自分を見ている気がする。呼吸をするので精一杯だ。
(チャンスは一度だ)
煌津は自分に言い聞かせる。ハサミ女が煌津を見た。その瞬間には、不気味な
ハサミ女が下りてくる。大きなハサミを携えて。あれが振るわれれば、死ぬ。煌津では耐え切れないだろう。避けなければ。
何とか、このボタンを押さなければ……!
ハサミ女が落ちてくる。刃が、迫る。すぐそこまで。煌津は指に力を入れる。己を縛る針金のような黒い線が見える。呪力。金縛りの正体が見えた。
「ぐぅうううっ!」
指の筋肉を重たい岩でも押すかの思いで動かし、煌津はボタンを押した。
【
ぎゅるん、と音を立ててテープが回る。煌津の体を縛る黒い針金がぶちぶちと千切れていく。これまでの煌津の動作が逆再生される。家の前に行く。出入り口を開ける動作。閉める動作。包帯を出す動作。道路に出る。落下の反対。飛び上がる。ハサミ女のハサミは空を切る。
【
煌津は屋根の上に着地する。死の一撃は躱した。あとは……。
「来い……」
煌津の声に応ずるかのように、金属音が聞こえてくる。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
影が溶けて泥かコールタールのようになったモノに押し上げられて、ハサミを打ち鳴らすハサミ女が、下からぬるりと現れる。
「今だっ!」
両掌と背中から何本もの包帯を射出する。要領はさっきと同じだ。吸い取って排出する!
包帯の全てが、ハサミ女と黒い泥に突き刺さる。吸い上げを始める。どくん、どくんと包帯が律動する。
――白い包帯が、真っ黒に染まっていく。吸い上げているのではない。むしろ、ハサミ女の中身である呪力が、遡ってきていた。煌津はすでに包帯のコントロールを失っている。包帯を介して、ハサミ女の呪力が煌津の中へと逆流する――
「――っ!?」
それは、暗い記憶であった。
どんよりとした灰色の空が見える/大きなハサミにちょん切られて落ちたのは、男の生首だ/追われている学生服の女子生徒が転げると、その娘には足がない/カッ、カッ、カッ、カッ、カッ/悲鳴が聞こえる/怯えおののく老人が目を剥いてのけぞり、そのまま動かない/父親が、呆然と立ち尽くし/母親が慟哭している/雨合羽を着た小さな子どもが倒れている/誰かがいえる/家だ/居間だ/窓の向こうに果てしない海が広がり/何か、ノートに書いている……/運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ/彼女の憎悪と諦観と悲哀と憤怒とが/死ね/死ね死ね死ね死ね死ね死ね/わたしを見捨てたものども/皆殺しだ/
女の子だ。あだむの家に、女の子がいる。あの子が、あの子がノートを書いたのか……
胸が、裂けた。太腿が、肩が、左目が、次々に切り裂かれていく。
ぐらりと、後方へ体が倒れていく。血飛沫が太陽の光で煌いている。腹にハサミの刀身が突き立てられる。
ハサミ女が煌津を見ている。真っ白な目の奥に広がっている、何も見えない真っ暗な闇。自分が感じているのは死への恐怖ではないと、煌津は悟った。目の前にいるのは、紛れもない怪物だった。
『まだだ』
声が聞こえる。魔力の糸が体内に走る。破れて血が溢れ出した血管を修復する――筋肉を繋ぎ合わせる――骨を再生成する――内臓を縫合し再稼働させる――
「……ぐっ、ううぅ」
突き立てられたハサミを、自分の体から引き抜いていく。かなりの膂力がいる。体が治癒しつつある事は感覚でわかるが、同時にこの動作は自分の体をバラバラにしようともしている。
ハサミ女の虚無に満ちた目が煌津を見ている。
ふと、ハサミがするりと抜けた。
ハサミ女がハサミを引き抜いていた。煌津の血で真っ赤に染まった刀身を拭いもせず、ハサミ女はじっと煌津を見つめている。
「お前……っ」
食道からせり上がってきた血を思わず吐き出す。出血で頭がくらくらする。
「一体……」
ハサミ女は身を翻していた。掻き消えるように煌津の視界から怪物は姿を消した。煌津にも、それ以上、怪物を追う余裕はなかった。
「はあ、はあ……」
体が勝手に修復されていく。飛び降りようとして足に力が入らず、煌津は屋根の上から転げ落ちた。背中に鈍い衝撃。
「――うわっ!?」
誰かの驚く声がした。私服の女の子がそこにいた。見覚えがある。
「せ、先輩!? 何で急に屋根から落ちてくんの!?」
「静星、さん……」
よろよろと立ち上がりながら、煌津は口を開く。
「救急車、呼んで……もらえる?」
「え? へ、救急車……?」
煌津は答えず、掌を中華料理屋の出入り口に向けようとした。が、腕に力が入らず、パタンと落ちる。指ぬきグローブの手の甲の側にも、白い亀裂のような模様が入っている。
まずい。巻き付けた包帯を取り除かないと……。そう、頭で考えると、ぎゅるりと音がして、店に巻き付いていた包帯がたちまち手の甲の亀裂模様の中心へと吸い込まれていく。
こんな事も出来るんだなと脳裏に過るが、その時にはすでに体から力が抜けていた。
「中に……人もい、る」
か細い声でそう言って、煌津は倒れ込んだ。
――……小さい頃、ビデオを見た。短編映画のビデオだ。
タイトルは覚えていない。確か、表示されていなかったと思う。それを言うなら、配給会社の名前も制作会社の名前も見た覚えがない。小さい頃だったから、全て忘れてしまっているのかもしれない。
短編映画の内容は、確か、こうである。男子高校生と女子高校生が、二人連れで並んで帰路についている。男子のほうは自転車を押している。画面にはノイズが混じり、音もときどき聞こえる程度である。
二人は少しさびれた商店街を抜け、坂道のある住宅街へと入る。その向こうに林があり、そこを抜けた先に彼女の家がある。
林道に入ると、人気はなくなる。日は傾き始めている。
女子生徒が何かを話している。男子生徒はそれを聞いて笑う。
林道の向こうに、誰かが立っている。
黒い、暗闇から抜けて出てきたかのような長髪に、灰色のワンピース。手には人の首を簡単に刎ねてしまいそうな、大きなハサミを持っている。
ノイズが走る。女子高校生が、ハサミ女に気付く。時刻は黄昏。誰そ彼はと日暮れに問う。いやいや、彼女は知っている。何故、ハサミ女が目の前にいるのか。誰が、怪物を呼んだのか。人を呪わば穴二つ。呪いは必ず己に返る。因縁は巡り廻る。だからこれは必然なのだ。誰かを傷つけた代償に、怪物は現れる。
男子高校生が自転車に乗り、早く乗れと彼女に叫ぶ。彼女は後ろに乗って男の子の大きな背中に掴まる。自転車が走り出す。
振り返ればハサミ女は遠ざかっていく。追ってこない。良かった。きっと怪物は見かけても近付かなければ大丈夫なのだ……。
ふと木立の間に目をやると、ハサミを持った女が立っている。
彼女が悲鳴を上げると、それに気付いた男の子が自転車の速度を上げる。
怪物は追ってくる。足を止める事などない。
川べりの道に出る。夕闇が迫ってくる。誰か通っても良さそうなのに、道には彼らと怪物しかいない。自転車を漕ぐ足はもう限界である。ハサミ女はさして急いでいる風でもなく、幽鬼の足取りで二人を追ってくる。
ほう ほう ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
男の子が自転車を下りる。彼女一人だけでも助けなければならない。自転車に乗って、先に行けと男の子。そんな事は出来ないと女の子。
男の子が、がくんと崩れ落ちる。大きなハサミが男の子の足を貫いている。すぐ後ろで、ハサミ女が彼女を見ている。
女の子が泣き叫ぶ。自転車が倒れる。女の子が走って逃げる。ハサミ女がやってくる。もう、すぐそこまで。
「助けて!」
女の子が叫ぶ。カメラに向かって。今、このビデオを見ている煌津に向かって。助けてほしいと手を伸ばす。煌津にはどうする事も出来ない。追ってくるハサミ女も恐ろしいが、それよりも助けを乞うて絶叫する女の子の形相こそが恐ろしい。煌津にはわかる。手を伸ばせば、自分がテレビの中に引き摺り込まれる。これは映画だ。でも、それはきっと起こる。
彼女の背中にハサミが刺さる。倒れた彼女が振り乱した髪の隙間から、怒りと憎悪とを込めた目で煌津を睨む。
「何で助けてくれなかったの?」
そこでビデオは唐突に終わる。白黒の斑や線が入り混じった、砂嵐と呼ばれるノイズがザーザーと画面に流れている。
煌津は横に倒れる。両親が慌てて居間に駆け込んでくる。見てしまった。見てしまったのか……。そんな事を口々に言う。
――それからあとの記憶はない。ビデオを見て倒れたあとの記憶は、ずっと思い出せないままだ。
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