第二章 運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ 4
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どこまでも真っ赤な空が続いている古びた住宅街の中を、煌津は千恵里を抱えて走っていた。意識していなければ幽霊の子だという事を忘れるほど、千恵里には重みも感触もあった。
中華料理屋の前に川などなかったはずだが、道沿いにはいつの間にか大きな川が流れている。川からは呻き声が聞こえてきて、時折何か大きなモノが、水を打つような音がした。黒々とした靄がそこかしこに漂っていて、走っている最中も喉が締め付けられている。
ほう ほう ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
「逃げろって言ったってどこに!」
頭の中で童謡が聞こえる。怨霊が歌っているかのような声だ。
ほう ほう ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
「やめろっ!」
耐え切れず怒鳴ってしまう。煌津の腕の中に抱えられた千恵里が身をすくめる。まずい。怖がらせたか。
「ごめん。大丈夫、大丈夫だから」
慌てて声をかけるも、千恵里の震えは収まらない。黒い靄が体に絡み付く。体が、重みに耐えきれなくなる。童謡がさっきよりも大きく鳴っている。
「ぐっ――」
転びそうになって、思わず煌津は足を止めた。
いつの間にか、小さな路地に入っていた。左手側に強い威圧感を感じて、思わず煌津はそちらを振り向く。
何て事はない、二階建ての一軒家がそこにはあった。しかし放たれる威圧感は、まさにこの家からのものだ。表札には『三原』とある。
「何だ、この家……」
禍々しい気配が立ち込めている。間違いない。家が、呼んでいる。煌津を。この子を。
「来た」
弱々しい女の子の声に、煌津ははっとなって顔を上げる。
すでに戻る道も行く道もなかった。ぼうっと光る二つの丸い目を持った影のようなモノが、無数にすぐ近くまで迫っていた。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
影の中から音が聞こえる。金属が磨り合わさるような、打ち合うような音。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
「この音は……」
煌津の問い掛けに、答えたのは腕の中の少女だった。
「……さみ」
「え?」
「はさみ……はさみ……」
千恵里が震えている。うわ言のように、はさみ、はさみ、と繰り返しながら。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
影の群れがすぐそこまで迫っている。狙いはこの子だと、那美はそう言っていた。
邪気とでも言うべき忌まわしいオーラがそこかしこに漂う。煌津の頭に、体に侵入して今も蝕んでいるのを感じる。間違いなく、死ぬ。このままでは、死ぬ。だが、そんな事よりも、腕の中で震える少女の苦しみを
「はさみ……はさみ……はさみ……はさみ……はさみっ!」
「大丈夫」
怯える少女を抱きしめて、煌津は言った。
「前に、俺にもこういう事があった。本当に恐ろしかったんだけど、友達がね。助けてくれたんだ」
震えが止まるように、ただそれだけを願って、煌津は続ける。
「きっと、誰でもそうなんだな。助けられた事には意味がある。俺があの時、助かったのは……」
ショルダーバッグの蓋を開ける。中を探って、あのビデオを取り出す。
――あの日の九宇時那岐の姿が、今まさに蘇る――
「今日、俺が助ける側に回るからだ」
自分の中で、魔物喰らいの帯が動いているのを感じる。影一体一体の中身が見える。見ているだけで肝が冷えるような、底のない負のエネルギー。あれが、呪力か。
煌津は、ビデオに魔力が籠っているのを確認する。これであいつらを叩くだけでも効果はあるだろうか。いや、やるしかない。最悪の場合、煌津の中の魔物喰らいの帯が暴れ出すだろう。他力本願だし、その結果煌津がどうなるかもわからないが……このまま何もしないよりかはましだ。
ただ唯一の懸念は、千恵里が無事であるかどうかだが……。
「おにい……ちゃん」
小さな声がした。千恵里の声だ。煌津は手早く、彼女を腕の中から下ろした。
「ごめんね。千恵里ちゃん。少しだけ待っ――」
――ヒュッ! と、空を切る音が聞こえた。
背中から胸の辺りにかけて、一瞬で熱いものが貫いていった。
度を越えた痛みというものは、脳の認識を破壊するのだと、煌津は思い知った。胸の辺りを太く、黒い鋭利な杭のようなものが貫いていた。
「あ……」
ヒュッ! ヒュッ! ヒュッ! 風切り音だけがいやによく聞こえる。手や足が、刃物のようなもので切り裂かれていくのがわかる。痛い。痛すぎて、頭が吹っ飛びそうなくらいに。
「あ……あ……」
千恵里がこっちを見ているのが見えた。助ける。彼女を助けるはずだったのに、このざまだ。何が、助ける? 手に握ったままのビデオテープは、何の役にも立ちはしない。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
嘲笑うかのような金属音。体勢を維持し切れずに、煌津は膝を突く。血が流れ過ぎている。死ぬ。赤い空がどんよりと蠢いた気がした。――終わりだ。人生の。全ての。
何も出来ないまま。
「呼んでるよ」
声が聞こえた。千恵里の目が、煌津の目を見ていた。
「あの人が」
――その瞬間、煌津の意識に、無限の魔力の糸が織りなす情報が流れ込んだ――設計。開発。構築――時間が止まる。煌津の意識は、いや、これは魂だろうか。物質的な肉体。内在する魔力の総量。それらを他人事のように認識しつつも自分は自分であるという意識が存在する――魂で、今、煌津は事象を認知している――
「はあ、はあ、はあ……」
現実に、認識が帰る。出血は相変わらず。痛みは五感の全てを支配しているかのようだ。
だが、まだ生きている。
「おにいちゃん」
千恵里が呼んでいる。何か、煌津の下腹部の辺りを指差している。
「な……」
煌津の下腹部、へその下あたりに、奇妙な物が出来ていた。パカパカと動く長方形の蓋。その奥には空洞になっている。どうやら内蔵は見当たらない。そして、その横の五つのボタン。横に倒れた三角形、真四角、二重の縦線、それぞれ逆方向を向いた二つの三角形の連なり。
「これまさか……ビデオデッキ、か?」
こくりと、千恵里が頷く。
一瞬、呆然となるも、もはや迷っている暇はなかった。手には魔力で出来たビデオテープがあり、腹にはビデオデッキがある。ならば、やる事は一つだろう。
「はあ、はあ、はあ。こうなったら……なるようになれとしか」
恐る恐る、手に持ったビデオテープを自分の腹のビデオデッキの中に、挿入する。
「うぅ――っ!」
ぞわっとした感触とともに、電撃が体中を駆け巡る。頭の中で、何度もスパークが起きる。体が戦慄く。心音がいやにでかい。だが、まだだ。ビデオは……ビデオテープはデッキに入れたら……。
「再生……しなくちゃ」
弾け飛びそうな頭で、煌津は三角形のボタンを押した。
【
ビデオデッキが確かに、そう言った。
次の瞬間、衝撃が煌津の胴体を貫いた。骨も肉も砕けるような内側からの衝撃。それまでの痛みとは別の、全身の骨が砕かれていくかの如き痛み。筋肉が業火で焼き尽くされる痛み。眼球が破裂するかのような痛み。
「うぅううああああああがああああああああああっ!!」
全身が痛みから治癒されていく。再生していく。何かが皮膚にまとわりつく感覚。布だ。これは包帯だ。
煌津自身は見る事が出来なかったが、元々茶髪に近かった毛髪は、今まさに夕焼けのように真っ赤に染まりつつあった。目と口と鼻孔だけを残して顔面を包帯が覆っていく。魔力が黒いマスクを形作る。肘と膝にはパッドのような黒い防護部品を。両手は、掌に白い亀裂のような模様の入った指ぬきグローブを。靴も分解されて再構成されていく。
ばさりと、布がはためく音がした。マントだ。
全身を包帯で覆われ、その上から魔力の防護衣とでも言うべきマントを着装した姿で、煌津は路地に立っていた。
幸いな事に、意識は失っていない。あの包帯のヒトガタに乗っ取られるでもなく、煌津のままだ。いつの間にか煌津の足元に移動していた千恵里が、そっとマントの影に身を隠す。
「何だ、この格好は……!」
その意味を知る前に、影のうちの一体が、言語とも呼べない奇声を上げて襲い掛かってきた。
「くっ!」
咄嗟に影へと向けた右手の掌から、三条の包帯が射出される。
「グギャッ!」
包帯は鋭い刃となって影の頭を貫いた。泥のように影の体が崩れ落ちる。
「これは……もしかして!」
汚らわしい爬虫類のような声を上げて、影の群れが迫ってくる。煌津は両手を左右にかざした。煌津の意思に応じて射出される両手の包帯を、伸び続けるままに振り回す。縦横無尽に白い包帯が駆け回り、無数に見えた影の群れが、瞬く間にその数を減らしていく。
「ギャアアッ!」
まさに、一瞬で、煌津は影の群れを殲滅した。
「はあっ、はあっ、はあっ」
禍々しい気配は未だ残るものの、束の間の静寂が僅かながらに気持ちを安堵させる。力を一気に使ったという感触は否めない。だが、これなら。今の煌津なら……
「戦える」
そうとわかったのなら、戻らなければ。あの店にはまだ、那美や先生や、千恵里の両親が残っているのだ。
「千恵里ちゃん、掴まって」
千恵里を抱きかかえ、落ちないようにしっかりとホールドする。
「急いで戻ろう」
靴さえも煌津の意思を反映したかのように、煌津が一歩踏み出すと同時に、強力に加速した。
「ノウマクサンマンダバサラダンセンダンマカロシャダヤソハタヤウンタラタカンマン」
真言を唱え、引き金を引く。少しでも浄力を付与するためだ。那美は店の外に飛び出していた。外では腹部から飛び出した白い腕が、樹の根のように支えとなり、空中に浮かんだ柳田先生の姿があった。
「何で見ている人がいるのかなああああああああ」
先日と同じように、スーツの悪霊は再び巨大な顔面の悪霊へと変化した。呪力が供給されている。あの時それなりに削り飛ばしたはずなのに。やはり、これは間違いなく。
「裏に誰かいる、か」
言いながらも、那美はリボルバーをぶっぱなし、跳躍する。あと少しのところで那美を掴み損ねた白い腕が、地面に激突する。
「あんたらを操っているのは誰だ? あいつか?」
答えが返ってくるはずもなく、多数の白い腕が迫ってくる。那美はシリンダー・ラッチを押す。イジェクター・ロッドを押し込んで排莢。同時に、ハゼランノヒメとフジバカマノヒメが那美の前に降り立ち、迫ってくる白い腕に対して、目にも止まらぬスピードで無数の矢を斉射する。
装填を終えると同時に、矢によって制圧された白い腕が折り重なって地面に落ちた。
「神の御息は我が息、我が息は神の御息なり。御息を以て吹けば穢れは
伊吹法の
かなり呪力を削ったはずだが、柳田先生の憑依はまだ解けていなかった。それに、さっきから戦闘に参加せず、不気味にこちらを見つめる巨大な顔……。
「あんたは何故動かない。私を倒す絶好の機会じゃないか」
巨大な顔面はにたりと笑う。
「何で見ている人がいるの――」
「猿芝居はよせ。見ているんだろう、その男の目を通して」
リボルバーの銃口を向ける。
巨大な顔面は口の端をつり上げて笑っていた。
「正体を見せないのなら――」
那美が引き金を引こうとしたその瞬間、手首に黒い影が絡み付いた。
「っ!?」
黒い影が那美の足元から吞み込もうとするかのように絡み付いていく。フジバカマノヒメとハゼランノヒメも同様だった。すでに緋袴のほとんどがコールタールのような影に吞まれ、那美はたまらず膝を突く。素早く左手の人差し指と親指を銜え、指笛を吹く。式神の術を解き、フジバカマノヒメとハゼランノヒメの体が、枯れ葉のように崩れ去る。そうこうしている間に、黒い影が背筋を這い上ってきていた。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
金属を打ち合わせるかのような、固く軽い音が聞こえる。
「っ……この音は」
やはり、この悪霊たちを操っているのは……。
「あがぁっ!」
黒い影が体を締め付ける。巨顔はにたにたと笑ったままその様子を見ている。このままでは取り込まれる――
「あっあっああっああ」
巨大な顔面が、間近で那美を見下ろしている。渦のような呪力が自分を吞み込もうとしているのを感じる。――……このままでは!
「おぉおおおおお――っ!」
雄叫びとともに、強力な魔力の塊が接近してくるのを那美は感じ取った。
黒いマントをはためかせ、包帯姿の男が巨大な顔面を蹴り飛ばした。ぐらりと揺らめいた巨大な顔面に向かって包帯男が手をかざすと、掌から幾条もの包帯が射出される。包帯男は顔面の周囲を飛び回って周回し、巨大な顔面の両目をぐるぐる巻きにして塞いでしまう。
「九宇時さん!」
着地した赤い髪の包帯男が、那美の名前を呼んだ。その腕には、フードを被った 女の子を抱えている。
「穂結……君?」
「待って! 今それ引っぺがすから!」
言うが早いか、煌津の手が那美の体を締め付ける影を掴むと、ビリビリと紙でも破くかのように次々と剥がしていく。
「はあ、はあ、はあ……。無事? 九宇時さん」
「穂結君……どうして」
「ビデオだ。ビデオを体の中に入れたら――」
白い腕の群れが、煌津の後ろに迫っていた。
「穂結君!」
那美の声に反応した煌津が、千恵里を抱えてくるりと身を翻す。リボルバーが火を噴いた。白い腕が弾け飛ぶ。
「危ない、九宇時さん!」
背後に迫っていた影を煌津の放った包帯が切り裂く。同時に煌津の腕が那美を抱え、軽々と跳躍する。
中華料理屋の屋根に着地し、煌津は那美と千恵里を下ろす。
「穂結君、その姿は……」
「俺にもよくわからないんだ。何だか死にそうだったんだけど、ビデオデッキが体に出来たから、ビデオ入れてみたらこんな感じに」
「何を言っているんだか……」
もっと詳しく聞きたいところだったが、いかんせん今はタイミングが悪い。影の群れが屋根の上に這い上ってきている。その後ろに白い腕を伸ばし、触媒にされた柳田先生の体が浮かんでいる。巨大な顔面は、那美と煌津の側面を狙うかのように、中華料理屋の横から上がってきた。
千恵里が怯えながら、那美の後ろに隠れる。
「どうすればいい」
煌津の問いに、那美は一瞬判断を迷った。
いや、しかし。今は任せるしかない。
「――穂結君、時間を稼いで」
手早くリロードしながら、那美は言った。
「とにかく奴らの気を引けばいいって事?」
「そう。二種の我留羅に、邪念の群れ。一体一体を狙って祓っていたら、その間にやられてしまう。浄力を高めて、三つとも同時に祓うの」
銃を一度ホルスターに収めて、両手を空ける。
「この術は邪魔されたら完成しない。悪いけど、体張って頑張って。穂結君」
「……了解。とにかく、時間を稼ぐよ」
「よし」
バン! と那美は煌津の背中を叩いた。
「痛ぁっ!?」
「行け!」
泣きそうな目をしながらも、煌津は勢いそのまま黒い影の群れに飛び込んでいく。
「そのまま隠れていて。千恵里ちゃん」
那美の言葉に、足元で少女がこくりと頷き、その姿を消す。
巨大な顔面のにやにや笑いが、こちらに向けられている。だが、那美は気にしていなかった。祓いを行うのに、余計な気は不要だ。
右手の人差し指と中指を伸ばし、
「
両の掌から放たれる包帯を振り回して、向かってくる影の群れを薙ぎ払う。ダメージになっているのかいないのか、それさえわからないが、影の群れは意に介した様子もなく煌津に迫る。
「このっ!」
影の群れは壁のようになって、煌津の侵攻を防いでいた。その奥に、白い腕に憑りつかれた柳田先生の体が浮かんでいる。
「先生……!」
包帯攻撃だけでは埒が明かない。何かほかの攻撃方法がないと……!
「いや待て……確か」
煌津は訓練場での光景を思い出す。あの時の包帯のヒトガタの攻撃。巨大な爪のような――
「はっ――!?」
気が付けば、煌津の両手は幾重もの包帯が巻き付き、鋭い爪を形成していた。
「俺が思い描けば、その通りに動くのか」
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
近付いてくる影を煌津は勢い爪で一突きにする。喉が潰れたような声を上げて、影が霧散していく。だが、影の壁はまだ高い。それに囲まれたら、今の煌津は一瞬で終わりだろう。
「もっと、何か違うものがいる。攻撃だけじゃない、もっと違う要素が……」
下腹部に出現したビデオデッキに目をやる。【再生】ボタン以外にも色々とあるが、どういう機能を持つかはわからない。
――ヒュッ! 影が前方から背後から、双方向から迫ってくる。戦いは考える暇を与えてはくれない。長い爪で双方の影を打ち払う。その瞬間、全く別の方向から、三本目の影が煌津の首を狙ってきた。
「やばい!」
咄嗟に、ビデオデッキのどこかのボタンを押した。
【
ビデオデッキが、またも言葉を発した。
次の瞬間、煌津は自分の知覚が引き伸ばされるような感覚に陥った。周囲の動作が極端に遅くなり、自分の動きだけがそのままであるかのような感覚。首に迫ってきた影を爪の横薙ぎでぶった切り、勢いそのまま三つの影の根元を蹴り飛ばす。思考よりも早く体が動き、本能的に影で形作られた壁の中へと飛び込み、爪でその根元を抉り、蹴り飛ばし、ガラス片のように飛び散る影の破片を視界の端に認めながら、次々と叩き壊していく。ただ影の群れを蹴散らすためだけに、再び地面に下りると、柳田先生に憑りつく白い腕の根元まで駆け寄る。
「ははっ――!」
笑いが止まらない。自分の中にこれほどの破壊欲求が潜んでいたのかと驚くほど、手早く、力強く影を蹴散らしていく。
【
ビデオデッキの声が、無慈悲に脳内に響く。
その瞬間、煌津は影の群れの真ん中に立ち尽くしていた。急激に酷使された筋肉は、千切れんばかりに悲鳴を上げ、そこから一歩も動く事は出来そうにない。
「嘘……」
白い腕が拳を握り、煌津の体を殴り飛ばした。衝撃にさえ反応する事が出来ない。何故、どうして。急に動かなくなったのか……。
影が煌津を呑み込もうと、まとわりつき始める。白い腕がまた、何本も迫っていた。
「あ……」
閃くものがあった。
ビデオテープだ。再生したテープは早送りする事で先の場面を見る事が出来るが、テープの終わりまで行けば勝手に停止するようになっている。
つまり、今、煌津が押すべきボタンは――
「巻き……戻し……」
痛みを訴える筋肉を無視しながら、煌津は早送りのボタンとは反対の位置にあるボタンを押した。
【
ボタンを押した瞬間、物凄いスピードで煌津の体は立ち上がった。今の今まで大暴れしていた動作を勝手に体が逆再生するかのように動いていく。同時に、筋肉や疲労が物凄いスピードで回復していくのがわかる。
あっという間に、煌津の体は地上から飛び上がり、再び中華料理屋の屋根の上に着地する。
「はあ、はあ、はあ……っ」
敵は蹴散らしたが、立ち位置は振り出しだ。おまけに影はすぐまた再生する。
「使い辛い……っ!」
半ば愚痴混じりに煌津は言った。
精神統一し、那美は左足から踏み出す。穢れに満ちた異界から、抜け出すために。
「臨」――獨古印を結び、唱える。
次に右足を出す。左足と揃える。同時に印を組み替える。
「
右足を出す。また手を組み替える。
「
左足と右足を揃える。
「
左足を出す。
「
右足を揃える。
「
右足を出す。
「
左足を揃える。
「
左足を前へ。
「
右足を揃える。
「まずは――
その場で刀印を結び、
巨大な顔面は、何もしない。不気味なにやにや笑いを浮かべるだけだ。
反閇は空間の邪気を祓う術である。異界に切られた九字の線によって、呪力量に変動が起きる。血のように真っ赤な空が揺らぎ、青や緑や紫の光が空中に滲み出す。
呪力の減少を察知した影が、一斉に標的を那美に絞って迫ってくる。まるで刃物で出来た黒い津波のようだ。那美はその様子を冷静に、いやまるで他人事のように見ている。精神は術に集中し、体は精神に追従する。
「おおぉぉ――っ!」
包帯姿の煌津が跳躍する。射出される幾条もの包帯が、黒い津波の侵攻を防ごうと次々と伸ばされていく。
――りぃん。りぃん。
術の展開に応じて、フジバカマノヒメとハゼランノヒメが再び姿を現す。二人が手に持った神楽鈴の音がさやさやと鳴り響く。
「吐菩加美、依身多女、祓い給え、清め給え。吐菩加美、依身多女、祓い給え、清め給え――」
刀印で晴明桔梗を切りながら三種祓詞を唱え、次の術に移行する。
「吐菩加美」
鈴の音が響く。影の群れが、動きを止める。
「依身多女」
那美の指先が晴明桔梗を描く。すると、影の一体一体に仄かな光を放つ晴明桔梗が、那美の指の動きと全く同じ軌跡を描いて出現する。異界全体が揺らめいている。
「祓い給え――」
四縦五横の光の線は異界の果てにまで伸びていき、晴明桔梗を描かれた影は次々と消し飛んでいく。
「清め給え――」
神楽鈴が鳴る。那美を中心に、この場の浄力が高まっていく。呪力によって繋げられ、固定させられた、この赤い空の異界を揺るがせにしていく。
すべき事があった。確実に、この場ですべき事が。それにはまず、那美の挙動を阻害する影の群れを祓わなければならない。それから、次の大仕事がある。
那美は先を見据える。口と腹から白い腕がグロテスクに生えた柳田先生の姿を。
「吐菩加美」
左へと刀印を一閃。
「依身多女」
終点から右斜め下へ。そこから跳ね上がって上へ。
「祓い給え」
左斜め下へ。
「清め給え」
再び跳ね上がって図形の始点と線を結ぶ。
憑依状態にある柳田先生の体に、光の線で描かれた晴明桔梗が現れる。
煌津は留まりながらも周囲を警戒している。影は消し飛びつつあり、柳田先生は術中にある。だが、あの巨大な顔面がいつの間にか消えている――……
「付くも不肖、付かるるも不肖、一時の夢ぞかし。生は
禹歩を行いつつ、自らが描いた晴明桔梗に意識を集中する。鎮守の森をイメージする。どこのものでもない。那美が巫女としての修行を積む過程で見出した、無意識の中にある『場所』である。異界は不安定な空間であり、呪力や浄力といったエネルギーが多ければ多いほど、その発生源の精神を反映しやすくなる。今、憑依された柳田先生の体は、静謐な鎮守の森の奥にある池の上で、宙に浮いていた。
「鬼神に横道なし。人間に疑いなし。教化に付かざるに依りて時を切ってすゆるなり。下のふたへも推してする」
池の向こうに参道が見える。天から鳥居が下りてくる。一つ、二つ……。九宇時神社の参道が如く。
「アチメ! オーオーオー!」
掌をかざし、邪霊除去の言霊を大声で唱える。大砲の弾が直撃したかのように空間が振動する。
「アチメ! オーオーオー!」
登ります、トヨヒルメが
呪文を内心で黙唱し、「アチメ・オーオーオー」を口から唱える。祈念と詠唱による二重の言霊。これによって、憑依者の呪力を削っていく。
どろり、と柳田先生の〝中〟で、何かが動いた。
「アチメ! オーオーオー!!」
どろりと動いた〝それ〟を、那美はかざした掌で掴む。先生の体の晴明桔梗を介して、那美の手が憑依した呪力を掴み取ったのだ。
「うぅ……ぐぅ……っ!」
掴んだモノを引き摺り出す。那美の手前の何もないところから、漂白されたかのように白く、青い血管の走る腕が出てきた。那美が掴んでいるのは、その白い腕の手首である。
「ぐ……っ……!」
重い。物理的な重さではなく、これは呪力の重さだ。何年分のものだろうか。柳田先生が誰それから恨みを買っていたとして、あるいは悪霊などに憑りつかれていたとしても、これだけのものを抱え込んでいたら今日以前に学内で那美が気付いていたはずである。つまり、これは蓄積した呪いではない。ごく最近、先生の中に大量に投入されたものだ。
呪った奴がいるのだ。短時間で、大量の呪詛を仕込んだ人間がいるのだ。それを時限爆弾のように、先生が店内に入った瞬間、発動するように仕掛けていた……。
「何で……」
白い腕に、口が現れて悲痛な声を出す――那美は自分のしくじりに気付く。術の維持が、一瞬ブレたのだ。
「何で俺の腕、切っちまったんだよおおおぉおおぉっ!」
一本の白い腕から、無数の小さな腕が生えて、即座に手を伸ばし那美の腕を掴む。
ごおっ! と柳田先生を中心にして空気が引き込まれていく。吸引する風の力に足元がぐらつく。
「しまった!」
「何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で何で!?」
たちまち分裂した無数の白い腕が、那美を呪詛へ引き摺り込もうと引っ張ってくる。
「ぐっ――!」
【
えらく機械的な音声が聞こえたのは、その時だ。
ヒュッ、ヒュッ、ヒュッ、と連続で発射された包帯の一本一本が、白い腕の本体に巻き付く。まるで早回しをしているかのような連射速度だ。
あいつが来た。穂結煌津が。
「うおぉおっ!!」
どこかで
「九宇時さんっ!?」
「私は平気! そのまま引っ張って!」
煌津は頷き、唸り声を上げて白い腕の本体を引っ張る。次の瞬間、白い腕の本体のそこかしこに、今度は数え切れないほどの口が現れる。
「大会が近かったんだよぉっ!」「俺が何したって言うんだよっ!」「何で何で何で何で何で何で」「腕がなきゃ何もできないぃぃぃぃ」「結婚するはずだったんだ」「何で俺の腕、切っちまったんだよおおおぉおおぉっ!」
次々と放出される負のオーラをまとった悲嘆の数々に、煌津は奇妙な顔をした。
「九宇時さん、これって!?」
「耳を貸さないで! 感情に訴えるようでも、これらの言葉はもうすでに呪詛なの! 共感したら取り込まれる!」
左手で刀印を作り、右腕の腕で晴明桔梗を描く。右腕に憑りつこうとしていた小さな白い腕が何本か解呪されるものの、まだ腕を引く力は強い。
考えなければ。このまま引っ張り合いをしていても埒が明かない。そもそも呪力量が多過ぎるのだ。減らさなければ。こちらで対処できるほどの量に――……
那美の目が、煌津の包帯で止まった。湯気を立てるほど呪力を侵食する魔力の包帯。自分でも閃くものがあったのはわかる。何を閃いたのか。具体化するまでのコンマ一秒が長く感じる。
「いや、駄目。それは……」
「九宇時さん」
煌津が那美の目を見ていた。とても静かな目で。
「穂結君……?」
「これってさ……もしかして、出来るんじゃないの? ビデオに」
煌津の目が確信に満ちていた。何故それに気付いたのだ。那美が見たからか。煌津の包帯を。たったそれだけで気付いたというのか。
煌津が包帯を力いっぱいに引っ張る。だが、白い腕の本体はびくともしない。
「俺、やってみるよ。この腕もエネルギーなら、包帯で取り込んでビデオに――」
「駄目!」
白い腕の引っ張る力がさらに増す。那美の足がずりずりと滑る。
「万が一、呪力を穂結君が吸収してしまったら、今度は君が呪われる! そんな事になったら――」
煌津は、何故だか笑っていた。
「九宇時さん。言い合いしてる暇、ないでしょ?」
――その笑顔が、誰かに似ている気がした。
「ああ、本当にもう――」
左手の刀印で白い腕の本体に晴明桔梗を描く。
「アチメ! オーオーオー!」
白い腕の本体のほとんどが、一瞬消し飛ぶ。が、すぐにまた再生が始まる。ここで端緒を失うわけにはいかない。
「今! 傷口に包帯を突っ込んで! 早く!」
那美がそう言うと同時に、煌津はこくりと頷く。と、煌津の背中から無数の包帯が飛び出し、白い腕の本体に出来た傷口に突き刺さっていく。
「いい!? ビデオにする事だけを考えて! 吸い上げたら即射出! 余計な雑念は捨てて!」
「わかった!」
煌津が応ずるのと同時に、白い腕の本体に突き刺さった包帯が、何かを吸い上げるように動き始めた。煌津の体のあちこちから、ビデオテープの中身である黒いテープが噴き出し始める。この動作に慣れていないのもあるだろうが、呪力量が多過ぎて形にしづらいのだろう。
「ああああっ、これ、まじできついっ!」
「頑張れ! 何とか耐えて!」
那美の主となる攻撃手段である術は、浄力を使用する。浄力は魔力や呪力をゼロへと変換させる力であるので、今、下手に白い腕本体に使えば、煌津の包帯も巻き込んで消えてしまう。
カン! ビデオテープの成り損ないのような物体が、地面にぶつかって消える。
「頭、、、あた、、おかしく、、、、、なってるっっ!!」
煌津の声がおかしい。これは、やばいか……!
「頭に流れる情報を見るな! 呪力を外に出す事だけを考えろ!」
「ぐる、、、、あっっ、、、おおおおぉっ!」
カン! カン! カン! カン! カン! ぐるぐる巻きで積み重なっていく黒いテープの山と、ビデオテープの成り損ないの破片が次々と弾き出されていく。
那美の腕ももう限界だ。小さな白い腕は、すでに肩にまで迫っている。ほどなく、右腕が食われる。
「バックアップは――苦手だけど!」
那美は左手の刀印で、三角形を素早く二つ描く。一つは正三角形。一つは逆三角形。重ねて、
「私の魔力を受け取って!」
六芒星越しに那美は魔力を放出する。桜色の光が六芒星から煌津の体に流れ込む。
「ぐ、、、っ、、、、何か……・元気、でたかも!」
那美の豊潤な魔力を受け取った煌津の体から、桜色の包帯が飛び出した。幾条もの桜色の包帯は、白い腕の本体はおろか、柳田先生の体にまで伸びていき、呪力を発するあらゆる部分に突き刺さる。
「ビデオビデオビデオ! ビデオになれぇええええええええええっ!」
豪風が吹いた。凄まじい風切り音がして、煌津の体がぐらりと崩れる。
「穂結君!」
倒れかかったところを、煌津は何とか踏み止まった。
「っ、大丈夫……」
カン! と音を立てて、何かが地面に落ちた。
全面が真っ白の、ビデオテープだ。見た目こそ真っ白だが、呪力の塊だ。
「な、な、な、な、な、な、」
おそらくは核を抜かれたためだろう。白い腕は今やその形を保てなくなりつつある。
「アチメ! オーオーオー!」
邪霊除去の言霊を叫ぶと、先生から生えていた白い腕が吹き飛んでいく。
支えるものを失った空中の柳田先生の体が、ぐらりと落下を始める。
「先生!」
「フジバカマノヒメ!」
那美が叫ぶのと同時に、フジバカマノヒメが飛び出して先生の体をキャッチする。息はあるようだが、無事かどうかはあとで調べてみないとわからないだろう。
「……よかった」
煌津がほっと胸をなでおろした。
「穂結君、平気?」
「あー……頭がすごい痛い。まあ、何とか……」
煌津は包帯姿のままだ。という事は、魔力はまだ保たれている。
「ありがとう、穂結君。助かった」
「ははは。どういたしま……いや、まだだ! あのでかい顔!」
はっとした様子で煌津は辺りを見回す。巨大な顔面は、どこにもいない。
「ああ、それなら大丈夫」
何でもない事のように言って、那美は銃把を軽く握る。
「どこから来るかは、わかっているから」
那美がそう言った、その瞬間――
「あっあっああっああ――――――――――!?」
真上から、巨大な顔面の影が那美と煌津に落ち――
「掛けまくも畏き伊邪那岐、伊邪那美大神の大前に畏み畏みも白さく、諸の罪、穢れ、禍事に囚われ、我留羅と成りし魂魄を憐れみ給い、慈しみ給い、導き給え。セイ、ジン、チ、ジャ、タイ、ウン、メイ――」
那美はリボルバーの銃口を真上へと向けた。
「ぐるりぐるりと」
煌津が真上に顔を向ける。銃声が響き渡る。
「見たいものは見れた?」
那美が独り言のように呟いたその瞬間、桜色の光が爆発する。
「うぎぃやああああああああああああ」
巨大な顔面の断末魔とともに、周囲の光景に波紋が生まれる。ぐねぐねと空間自体が転がされ、発光はさらに、さらに強くなり――……
一瞬の間を置いて、那美と煌津は太陽の光が眩しい、中華料理屋の屋根の上に立っていた。
フジバカマノヒメは、中華料理屋の前の道路で、柳田先生を抱えたままだ。
「帰ってきた?」
「ええ。……千恵里ちゃん、出てきて大丈夫だよ」
那美の言葉に、透明になって姿を消していた千恵里が姿を現す。まだ少し怯えている様子だ。無理もないが。
体が、重い。
「くっ……」
「九宇時さん、平気?」
「大丈夫……」
さすがに力を使い過ぎた。大きな術を連発したうえに異界との繋がりも切ったのだ。
「……いや、ごめん。やっぱ無理。悪いけど穂結君、その包帯でうちまで抱えて――」
――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。
ぞわり、と鳥肌が立った。
千恵里が那美を見上げている。フードの中の怯えた目が見えた。
「穂結君、逃げて!」
次の瞬間、全身に走ったのは刃物で切り付けられた時の痛みだった。それが何箇所も、何十か所も同時に、深く、鋭く、那美の全身を切り刻む。
「あ……」
体が崩れ落ちていく。血液を一度に大量に失ったせいで、視界が真っ暗闇に閉ざされていく。
ほう ほう ほたるこい
あっちのみずは にがいぞ
こっちのみずは あまいぞ
童謡が聞こえる。視界の端に、黒く長い髪が見える。大きな刃物を持って、灰色のワンピース一枚の、腰まで伸びた長い髪の女――
……ああ、やはり。
「――――ハサミ女」
那美の意識は途切れた。
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