第二章 運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ 3


      3


 服を着替えた那美が道の先を行く。残暑の日差しは眩しく、まだまだ蝉が鳴いている。

「どこ行くの?」

「中華。暑いから辛い物でもさ」

 商店街の中を進むと、真っ赤な暖簾のかかったガラス戸が見えた。慣れた様子で、那美はそのガラス戸をがらっと開ける。カウンター席と、三つほどのテーブル席があるこじんまりとした中華料理屋だ。厨房の男性が来客に気付き、顔を上げる。

「いらっしゃい。……ああ、那美ちゃん」

「こんにちは難波なんばさん。奥の席、使うね」

 那美は一番奥の席を指差して言った。難波と呼ばれた男性の顔が、一瞬固くなったように煌津には見えたが、男性はすぐに答えた。

「ああ。大丈夫だよ」

 那美は頷いて奥へと向かう。四人掛けの小さなテーブル席だ。

「穂結君は奥。そっちに座って」

 那美はそう言って、一番奥の壁際の席に座るよう煌津に促した。

「わかった」

 ビデオが入ったショルダーバッグを椅子の背に引っ掛けて、言われた通りの席に座る。

 ――背筋が、ぞくりとした。急速に室温が氷のように冷たくなるのを感じる。

 原因はわかっている。隣だ。隣の席に、誰かいるのだ。

 人ではない、誰かが――……

「どうかした?」

 何でもないような風で、那美が問う。この重たく、冷気を感じる店内の雰囲気に彼女が気付いていないという事はないだろう。

「九宇時さん、この店……」

「穂結君、最初に言っておくけど、ここは普通の店だよ。君が思っているようなところじゃない」

 隣の席に人の気配を感じる。ひどく重たい。骨の中まで凍りつくかのように。

「そんなはずは……」

「今の君は、内在する魔力のせいで霊感が鋭敏になっている。この感覚に慣れていないから、今感じている強い感触を、実物以上に大きく受け止めてしまっている」

 感覚の全てがおかしくなりそうなのに、那美の声ははっきりと聞こえた。

「周囲ではなく、己を見て。意識を潜らせて魔力の流れを掴むの。荒れた川がやがて落ち着くように、エネルギーを循環させて全身に行き渡る量を調節すればいい」

「……己を」

 ――見る。煌津は闇の中に巡る無数の魔力の糸を見た。何匹もの巨大な蛇のように荒れて波立つ魔力の糸の束。その流れをコントロールしようとする――

「違う。無理に手中に収めようとしてはいけない。エネルギーと穂結君は一体。もはや一体なの。自然のままに、循環させるの」

 循環。煌津は、荒れたエネルギーが次第に行き場を見つけて収まっていくのを感じる。血液と同じように、体内を巡る。

「穂結君はマトリックスの中にはいない。異界の中にもいない。ここは現世の層。現世こそ、この世にある全てが混在する場所」

 煌津は意識を現実に戻した。さっきまで感じていた重苦しい冷気はどこにもなかった。隣の席が少しひんやりする。その程度だ。

「……」

 隣の席には、知らない子どもがいた。まだ小さい。六、七歳くらいの子ども。黄色の雨合羽を着ている。たぶん女の子だと煌津は思った。雨合羽のフードからちょっと長い前髪がのぞいていた。彼女は、テーブルの上で、それまでなかったはずのスケッチブックに、クレヨンで何かを描いている。

「九宇時さん、この子は」

「難波さんのお子さん。名前はちゃん。十年前に亡くなった」

 厨房に聞こえないほどの小さな声で、那美は言った。

「十年……?」

「年月は関係ない。彼女の魂は、今も帰る家を求めてここにある。――あ、難波さーん。私、担々麵とダブルギョーザね。穂結君は?」

「へ? え、ええと、じゃあチャーハンセットで」

「……杏仁豆腐も」

 那美が小さく言った。

「え?」

「杏仁豆腐。彼女に」

 女の子は煌津にも那美にも目を向けないまま、一心にクレヨンで何かを書き殴っている。

「あ、あと杏仁豆腐も!」

「あいよー」

 厨房から返事が聞こえた。

「……この子が十年もここにいるなら、どうして成仏させてあげないんだ」

「それは誤認だよ。成仏はさせるものではなく本人が納得したうえで成し得るもの。他人が成仏させているように見えるなら、それはあくまで霊魂本人が成仏するのを手伝っているに過ぎない」

 極めて冷静に、那美は言った。

「十年前、その子はある出来事が原因で命を失った。本来ならば、失われるべきではなかった命。なら、この現世で、少なくとも他人に迷惑をかけないのなら、いつまでも霊魂のまま留まるのも一つの選択だよ。尊重されるべきだと思う」

「それは……」

「確かに、魂が現世に残り続ける事で悪霊と化してしまう事もあり得る。その時は、私が決着をつける。けど、退魔屋の仕事は悪霊と戦う事が本質じゃない。あらゆる魂と向き合い続けるのがこの仕事なの。その子は、生きていれば私たちと同い年だった」

 二人の前に水が差し出されたのはその時だった。エプロンをした女将さんがにこにこしながら言った。

「二人とも水も飲まないで、大丈夫なの?」

「あ、ありがとうございます」

「どういたしまして。那美ちゃん、いつもありがとうね」

「いえ。難波さんとこの中華、美味しいから」

「嬉しいね。うちも、もう十年以上やってるからね。これも御贔屓にしてくれる皆さまのおかげだよ。お兄さんは、はじめてだよね?」

「あ、はい。この間引っ越して来たばかりで……」

「そうなんだ。せっかくだし、いっぱい食べていってね」

「はい」

 にこにこしたまま女将さんが厨房に入っていく。

「彼女のお母さん」

 出された水をひと口飲むと、那美はそう言った。

 煌津の隣に座った千恵里は、顔も上げずにクレヨンを画用紙に走らせている。

「二人は……この子が今もこの店にいる事を?」

「難波さんは知っている。お母さんは、彼女を認識出来ない。十年前の事で、今も苦しんでいるから」

 隣の女の子が手を止めた。どうやら絵が完成したようだった。

「はい」

 女の子が顔を上げ、煌津に描き上げた画用紙を差し出す。その声は、まるで生きている人のようだった。

「見せてくれるの? ありがとう――」

 画用紙を受け取ろうとして、煌津は千恵里の顔を見た。

「――――」

 ――決して、許容されるべきではない傷跡が、煌津の目に飛び込んだ。

 この姿が、今も父親の目には見えているのだろうか。

 この姿を、十年前に母親は目の当たりにしたのだろうか。

 煌津は黙って画用紙を受け取った。画用紙に指が触れた時には、彼女の姿も、画用紙もクレヨンも、まるで幻であったかのように、綺麗にいなくなっていた。

「……見える人が店に来ると姿を見せるの。今日はもう出てこないと思う」

 那美は静かに言った。

 煌津は、店の中が歪んでいるようにさえ感じた。いや、歪んでいるのは目の前のこの子のほうか。

「こんな事を……十年も?」

「九宇時の家の退魔屋や、ほかの退魔屋が来る事もあった。理解のある、一般人の見える人とかも。そういう人たちが彼女の相手をする。描いた絵を見せてもらったり、一緒に遊んだり。私が来る前は、義兄さんが来ていた」

「お父さんにとってはただの拷問じゃないか。あんな……あんなふうになってしまった自分のお子さんを見せつけ続けられるなんて」

「そんな事はわかっている。でも、どうしようもない。彼女の魂は今も自分が亡くなった事を認識していない。それを認識するという事は、生前の苦しみをもう一度思い出すという事だから。彼女自身が望んで選択しない以上、この状況はずっと続く。もし、私やほかの退魔屋が強引に彼女の魂を安らかな場所に送ろうとしても、彼女が拒めば儀式は失敗する。どころか、望まぬ送還によって彼女は魔物か悪霊かになるかもしれない」

「それでも……これは、あんまりにもだろ。一体誰のためになるっていうんだ」

「今の状況を望む人たちのためだよ。たとえそれがどんなに不毛に見えたとしても一緒にいるしかない。退魔屋の仕事は徹頭徹尾そういうもの。地球上の誰が折れたとしても、私たちだけは折れてはいけない。あの世とこの世の境目で立っていられるのは私たちだけなのだから」

 女将さんがお盆を持って席にやってきた。

「はい、おまちどうさま。担々麵とWギョーザね。チャーハンセットと杏仁豆腐もすぐ持ってくるから」

「はーい、ありがとうございます~」

 さっきの調子とは打って変わって、明るい声で那美が答えた。

「先に食べるけど」

「大丈夫だよ。ご遠慮なく」

「では、いただきます」

 箸を取った那美が上品に担々麵を食べ始める。麺を食べていたな、と思った時にはギョーザに箸が伸びている

「……お腹減ってた?」

「退魔屋チェンジはエネルギー使うの。尋常じゃなくね」

 じろじろ見るな、とでも言わんばかりに那美がじろっと睨む。

「はい、おまちどう~。チャーハンセットと杏仁豆腐ね~」

 湯気の立つチャーハンと杏仁豆腐のお皿が、お盆に載ってやってきた。

「あ、ありがとうございます」

「ごゆっくり~」

 去り際、女将さんの目が杏仁豆腐に注がれていた気がした。

 煌津は杏仁豆腐の皿を、そっと隣の席に移した。女の子の姿は、見えない。

「良かったら、食べて」

 見えない少女に向かって、煌津は言った。

「いただきます」

 丸く盛られたチャーハンをスプーンですくって食べる。……美味しい。何だか活力が漲ってくる気がする。

「美味しいでしょ」

「うん」

「私、ここの中華好き」

「……俺も。めっちゃ美味いよ」

 それから二人とも黙ってそれぞれの料理を食べた。

「……そういえば」

 おもむろに、煌津は口を開く。

「静星さんは、どうしたの? その、俺が異界に行ったあと」

「唐突だね」

「いや、何か思い出してさ」

「逃げられた。穂結君を助けるので必死だったから。ヒメたちの目をかいくぐって逃げるなんて、やるね。あの子」

「ああ、それはその。何というか。ありがとう、助けてくれて。ごめん、お礼を言うのが遅くなった」

「いいよ、別にそんなのは」

 那美は軽く笑った。

 血は繋がっていないというが、その笑い方は何だか那岐のほうに似ている。

 かちゃん、と小さな金属音がした。

 隣の席に置かれた杏仁豆腐の皿に小さなスプーンが置かれた音だった。少しだけ、杏仁豆腐が食べられた形跡がある。

「出てきてくれた?」

「そうみたいだね」

 少女の姿は見えない。またスプーンが置かれる音がした。

「この子はこれで幸せなのかな」

「それは私たちにはわからない。幸せかもしれないし、そうじゃないかもしれない」

「見守るしかないって事? 彼女が自分で成仏する道を選ぶまで?」

「生者であれ死者であれ、その意思には干渉できない。口を出せても、他人の気持ちは変えられない。大事なのは、その人が道を選んだ時、助けられる人間が助けを出すという事。私は彼女がこの家を離れる決心がついたなら、全霊で彼女を送ってあげる。それが私にできる手助けだから」

「退魔屋っていうのは……」

 頭の中で言葉を探す。考えを具体化できる言葉を。

「人を助けるのが仕事なんだね。生きていても、死んでいても」

「魂ある者全て。闇から守る」

 那美が水を飲んだ。いつ間にやら、担々麵もギョーザもなくなっている。

「食べるの早くない?」

「習慣で。いつ仕事に呼ばれるかわからないから。お水飲む?」

 煌津のグラスは空だった。

「ああいや。俺が淹れてくるよ。貸して」

「ありがとう」

 那美のグラスを受け取る。それから隣の席に座っているはずの女の子に言う。

「ごめん。ちょっと後通るから――」

 カタカタ。カタカタ。

 杏仁豆腐の皿の上のスプーンが震えていた。

 那美の表情が、一瞬で険しいものになる。

 カタカタ。カタカタ。カタン。スプーンが震えて、床に落ちた。

 店内の電灯が一瞬暗くなる。すぐに明かりがついて、また消える。

「……何だ?」

「火、消したほうがいいんじゃない」

 厨房のほうから二人のやり取りが聞こえる。

 ふと煌津は、足元で蹲っている千恵里の姿に気付いた。何かに怯えるように、耳を塞いで震えている。

「九宇時さん」

「……何か聞こえる」

「え?」

「この音……」

 ――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。

 確かに耳を澄ませると、何か金属を擦り合わせるような音がする。音が次第に近付いてくるようだった。もう一つ気付いた事があった。千恵里は、まるでその音に怯えるかのように震えている、という点だ。

 ――カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。

 電灯の明滅は止まない。ノイズのような音さえ聞こえてくる。周囲の景色に様々な色が混ざり始める。古びたクリーム色の壁には赤や、青や、緑が現れ、壁自体も歪んで波打っている。食べかけのチャーハンも歪み、米粒の一つ一つから人間の腕が生えているのが見えた。それら一本一本が煌津に向かっておいでおいでと手を振っている。カッ、カッ、カッ、カッ、カッ。金属音。そしてノイズ。

「異層転移……」

 自らその事実に気付くと、異様な気配に取り込まれそうだった自分が少し楽になった気がした。いつの間に取り出したのやら、那美はすでにベルトを装着し、リボルバーを取り出していた。

「九宇時さん! ここでそんなの出したら……」

「今そんな事言っていられない。あいつは、もうそこまで来てる」

 残弾を確認し、那美は弾倉を元に戻す。

「あいつって……?」

 煌津の問いに、那美は答えなかった。片手でくるくるとリボルバーを回す。まるでエネルギーを充填するかのように。

 パシッ! と、那美がリボルバーの回転を止めた。

 その瞬間、色とりどり光や、歪みの一切が止んだ。電灯も、先ほどまでと変わらず普通に点灯している。

 ただ一つ、千恵里だけはうずくって震えたままだ。

 がらっと音を立てて、店の戸が開いた。

「こんにちはー。一人なんですけど」

 聞こえてきた声は、それまでの空気にはそぐわないあっけらかんとしたものだった。店の入り口に立った人物に、煌津は見覚えがあった。

「柳田先生……?」

「あれ、穂結君?」

 保健室の柳田先生が、そこにいた。ラフな軽装だった。

「今日は学校の子によく会うなあ。さっきもね、そこで――」

 言いながら、柳田先生は一歩踏み出す。

 目に見えてわかるほどの負のオーラが、先生の足元から店内の全てにかけて広がるのが、煌津には見えた。

「触媒か」

 那美が呟く。

「先生、待って!」

 煌津の声に、柳田先生は呆けた声を出した。

「え?」

 次の瞬間、柳田先生の口と腹から、無数の白い腕が飛び出した。再び異層転移が始まる。周囲の壁が、天井が、けばけばしいまでの色彩と光によって歪められていく。

「退魔屋チェンジ!」

 桜色の光が迸る。同時に銃声が轟いた。迫り来る白い腕を銃弾が粉砕し、跳躍した那美が柳田先生を外まで蹴り飛ばす。

「フジバカマノヒメ! ハゼランノヒメ!」

 御札から呼び出された二人の姫が、再び吐き出された白い腕の侵攻を障壁でもって防ぐ。白い腕は障壁を破ろうとしながら、必死にある方向へと手を伸ばしていた。

白い腕が手を伸ばす先には、小さな女の子が蹲っている。

「狙いは彼女? そんな……」

 那美が驚いたように呟くのも束の間、きっとした目で煌津を見た。

「穂結君、千恵里ちゃんを連れて逃げて」

「逃げろって……」

「守らなきゃいけない奴が多いと私も動けない。いざとなったら、君の中の包帯が何とかしてくれる。ビデオを持って、早く!」

 白い腕が今にも、障壁を破ろうとしている。……迷っている暇はない。

「っ、わかった」

 椅子の背にかけた鞄を取る。自分でも驚くほどの速さで、千恵里を抱える。

 白い腕が煌津のほうを向いた。

「急いで!」

 銃声とともに白い腕が粉砕されるのを横目に、煌津は走り出す。口からは自分のものとは思えない絶叫が迸っていた。

 外は血のように真っ赤な空に覆われている。すでにここは異界だ。千恵里が泣き叫んでいるのは、追われる恐怖からか、家を出された悲しみからか。

「ちょっと、我慢してくれよ!」

 行き先も考えず全速力で、煌津は駆けた。


 浄力を込めた銃弾と、夥しい数の矢によって、白い腕は動きを止めていた。

 依然、異層転移は止まっていない。柳田先生は気を失っているようだが、彼女の内部からは白い腕が出たままだ。厨房の二人は無事だろうか。物音が聞こえない。

「ノウマクサンマンダバサラダンセンダンマカロシャダヤソハタヤウンタラタカンマン」

不動明王真言慈救咒ふどうみょうおうしんごんじくじゅを唱えつつ、那美は愛銃M586の空薬莢を排莢し、素早くスピードローダーで次の六発を装填する。

 ――確かに、あいつの気配がした。

 だが、ここにいるのは、あいつではない。

「出てこいよ。見ているのはわかっている」

 未だ姿を現さない次なる敵に向かって、那美は言った。

「あっあっああっああ――――――――――!?」

 どさっ、と。

 那美の背後に、何かが落ちた。

「あれ? おっかしいなあ……」

 声が聞こえた。男の声が。

 那美は振り返る。視線の先に、顔を歪めて笑うスーツ姿の男がいた。

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

 銃口を向ける。照星を見る。にやけた悪霊の額に照準を合わせる。

「ほざくな、出歯亀野郎」

 悪霊が襲い掛かってくる。那美は引き金を引く――

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