第二章 運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ 2
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反射的に跳ね起きると、煌津は、一瞬自分がどこにいるのかわからなくなった。ダウンライトの部屋。壁に吊るしたバッグ。見覚えのある勉強机。自分がいるのはベッド。自室のベッドだ。
「帰ってきた?」
慌ててスマートフォンを見る。不思議な事に、スマートフォンはいつも通り枕元に置かれ、USBケーブルで充電器と繋がれていた。
九月十一日。土曜日。二二時五分。
『あまり急に動かないほうがいい。異界に触れて精神も肉体も疲弊しているから』
急に聞こえた人の声に、煌津は思わず息を呑んだ。まるでスピーカーを通して聞こえるような籠った声だ。
「九宇時……さん?」
『右にいる』
言われた通り右側を見る。出入口のドアの横。洋服箪笥の前。
「うわっ!」
薄暗い部屋の中に、仏像のような微笑みを浮かべた着物姿の女性がいた。
いや、正確には彼女は女性ではない。あの九宇時那美という巫女がお札から変じさせた〝姫〟だ。名前は確か、ハゼランノヒメ。
『遠隔で監視するのは疲れるから手短に話す』
ハゼランノヒメは口を動かさないまま、九宇時那美の声で言った。
『穂結君が異界から帰ってきてから一日と数時間が経っている。ご両親は、穂結君が風邪で学校から早退して、そのまま寝込んでいると思っている。何か聞かれたら、話を合わせて』
「異界……? あの、あだむの家とかいうのがあった、海の向こうに巨人が見える世界の事か」
『あだむの家?』
那美の声に不穏な響きが混じる。
『記憶はあるみたいだね』
「あそこは一体何なんだ。あの骸骨の犬は……」
『あなたが見たのは……いえ、行ったのは死者たちの世界。ただし地獄じゃない。あの世と呼ばれる異界の一つ。私たちの間では、《あだむの世界》と呼ばれている』
「あだむの世界?」
『宮瑠璃市から繋がった事例が一番多いけれど、滅多にあだむの世界に繋がる事はない。特別な因果がない限りは』
「因果……?」
『異界への門は霊的なエネルギーの高まりによって開くけど、門の先にある異界は、人間の数だけあると言われている。あなたがそれと理解していなくても、因果はあなたの中にある。何かが、あなたをあだむの世界に引き寄せた』
意味がわからない。煌津は前髪に指を入れて掻き乱す。
『明日の十時に私の家にきて。そこで改めて説明する』
「君の家? それって……」
『九宇時神社。道中はハゼランノヒメが守る』
煌津は思わず、ハゼランノヒメの顔を見える。相変わらず、仏像のような柔和な微笑み。
「……俺の記憶、消すの?」
那美はすぐには答えなかった。
「九宇時さん」
『……消すのも選択肢のうち』
「そんな!」
『ただし』
那美の声が遮る。
『私は記憶を消すより、もっと大仕事になるんじゃないかと考えている』
「何それ。どういう意味だよ」
『今は説明したくない。遠隔で式神を呼び出しているのは疲れるの。今説明してどうなるものでもないし』
「不安になるだろ!」
『経過は見ていたから大丈夫だよ。変化はない。万が一君が寝ている間に、動きがあればハゼランノヒメが私に知らせるから。じゃ、明日十時にね』
どうやら相手が通話を切りそうな気配を感じて、煌津は慌てて声をかける。
「ちょ、ちょっと。この子ずっといるの? その、この、ハゼランノヒメって子」
『いるよ。明日うちにくるまではずっとね。君の家に、君を連れて帰ってきてから、寝顔をずっと見ていた。……ハゼランノヒメが、ね。私は見ていないから』
「さっき監視してるって……」
『人の寝顔に興味はない』
怒ったふうでもなく、九宇時那美は言った。
「じゃあ何で寝顔の話――」
『ちゃんとお風呂に入ってきてね。神前に出るのだから。じゃ、おやすみ』
九宇時那美の声はそれっきり沈黙した。
「九宇時さん……?」
念のため一分ほど待ってみたが、返事はなかった。
「電話じゃないからわかりづらいな」
まあいいか。通話は終わりだ。
薄暗い部屋の中には、相変わらず微笑みを浮かべたハゼランノヒメが佇んでいる。心なしか、煌津の顔をずっと見ているような気さえする。
「寝辛いな……」
明日の十時か。予定はない。いつもの日曜日のように、昼近く寝ているわけにもいかなさそうだ。
九宇時神社。九宇時那岐の実家。
「……」
電灯のリモコンを手に取る。寝やすいように、明かりを完全に決してしまおう。そう思ってスイッチを押すと、
「うわっ」
途端にハゼランノヒメの体がピンク色に光っていた。まるで蛍光ペンだ。
「ええ……」
壁のほうを向いて、なるべく目をやらないようにする。だが、部屋の隅がほんのり光っているのがわかる。これ、外から見えたりしないだろうか。
「ごめん……もうちょっと暗くならない?」
すっと、ハゼランノヒメの光量が落ちた。ダウンライトくらいに。
「ありがとう」
そうして、煌津は眠りに落ちた。
自分でも驚くほどすっきりと、悪夢の一つも見ずに煌津は目を覚ました。朝七時。風呂に入り、朝食を食べ、簡単に支度をした。九宇時神社の最寄り駅を確認し、以前部活で使っていた文庫本の古事記を読み返す。そうして、何となく落ち着かない時間を過ごした。
「行ってきます」
宮瑠璃線に乗り、学校とは反対方向に向かう。
車両の中は煌津以外の人間はいなかった。高天は九宇時神社のほかは特に見るべきものもない駅だ。日曜とはいえ、各駅停車の利用者も少ないだろう。
人間は乗っていないが、人間でないものなら向かいの座席に座っている。ハゼランノヒメだ。昨晩から一向に変わる事なく柔和な微笑みを浮かべている。
(本当にずっとついてきている)
ハゼランノヒメがいるからなのか、家を出てから怪現象には遭遇していない。電車の中では座席の下に足首だけが見えていないかと不安になったが、今のところ見えない。
『あの世とこの世の境目を、考えた事はあるかい』
一瞬の虚を突かれ、その声に自分の右隣を見る。
九宇時那岐がいた。まだ同じ学校に通っていた頃のまま。
向かいではハゼランノヒメが笑っている。乗客はほかにもいる。立っている客。座っている客。
『わかりやすい境目はない。こちらからあちらへは地続きで、行くのは簡単なんだ』
「やめろよ、九宇時」
いつになく苛々して、煌津は言う。いつの間にか、自分の服が前の学校の制服に変わっていたが、煌津の意識は、その変化を当然のものとして受け入れている。当然だ。九宇時と一緒にいるのだから。
「簡単なわけないだろ。誰だって死ぬのは怖いんだから」
『でも人間の体は脆い。死への恐怖があっても、強度の限界に達すれば境目を越える』
「何が言いたいんだよ」
『この世は留まるに値するかい? 穂結さん』
電車が止まり、乗客がさらに増える。ざわめきが大きくなっていく。
『皆、初めはこの世で生を謳歌したいと思う。でも、だんだん自分と他人の境遇の違いがわかってきて、自分が立っている側がどうやら日の当たらない場所だとわかったら、そこに根を下ろし続ける意味はあるのかい』
「何を……」
何故急にそんな事を言うのか、と言おうとして、煌津は自分がつり革につかまっている事に気が付いた。両隣は知らない乗客。座席に座った那岐は、煌津を見上げている。
『俺たちは影の中で戦い続けるしかない。でもそうなると知っていて、この世界に生まれてきたわけじゃないんだ』
――ふと、目が覚める。
煌津は座席の壁に頭を預けるようにして眠っていた。乗客は自分のほかには誰もいなかった。
『高天。高天です』
やばい。もう駅に着いている。煌津は慌てて電車を降りた。ハゼランノヒメが悠然とした足取りでそれに続く。
高天駅から九宇時神社までの道はわかりやすい。改札を出たら、まず山を探すのだ。九宇時神社は標高八十六メートルの小高い山、
一つ目の大きい鳥居が見えた。
まるで天上にまで続いているかのように見える、長い長い石段の参道に、真っ赤な七つの鳥居が等間隔に並んでいる。これが噂に聞く
「すげ……」
話に聞くのと実物を見るのとでは大違いだ。九宇時は健脚が自慢だったが、毎日ここを上っていたのだろうか。そりゃ足腰も強くなる。
と、煌津は腕時計を見た。九時五十分。約束の時間まで十分ほど。
「間に合うかな」
ともかく、上るしかない。階段の脇のほうから煌津は早足で上り始める。三つ目の鳥居までは全速力が出せた。そこからは、自分でもわかるくらいにがくっと勢いが落ちる。とんでもない階段だ。四つ目を過ぎる。腕時計の長身は五十五分を指している……。
「いやいや……」
無理でしょ、これ、と声にならない声で呟く。だが、何とかしなければ。あと三つ鳥居を抜ければゴールなのだし。
「はあっ、はあっ」
無我夢中で駆け上がる。五つ目を過ぎる。時計を見る余裕はない。六つ目が見えてくる。
「はあっ、はあっ!」
七つ目を抜けた。山頂だ。
「無理っ。ここを、走るのはっ……」
体を折り、肩で息をする。汗がどばっと噴き出していた。筋肉ががくがくとなっている。腕時計を確認する。十時五分。
「あちゃ……」
間に合わなかったか。そう思った時、目の前にペットボトルが差し出された。
「はい」
長袖シャツにスカートというシンプルな恰好の銀髪の子が、目の前に立っていた。制服ではないし、髪の色も桜色じゃないが、誰かくらいはさすがにわかる。
「九宇時さん」
「お疲れさん。喉渇いたでしょ、おごってあげる」
「あ、ありがとう」
「いいんだよ、うちの自販機だし」
ペットボトルを受け取って周りを見る。確かに自販機があった。ここまで集金に来たり中身を入れに来たりするのはさぞ大変だろう、と思う。
「ハゼランノヒメ、ご苦労様」
ずっと後ろについていたハゼランノヒメに、那美は声をかけた。ハゼランノヒメはやはり微笑んだまますっと消え去っていく。はらりと落ちたお札を拾い、那美は言った。
「上がって。今、お義父さんいるから」
「あ、うん……」
ハンカチで汗を拭き、念のためその場で制汗スプレーを噴く。
緊張とも、何とも言えない気持ちが込み上げてくる。
曇りガラスの引き戸を開け、社務所兼自宅のような建物の中へ入っていく那美に続く。
「お邪魔します」
「どうぞ」
突き放すふうでもなく言って、那美はサンダルを脱ぐとそのまま奥に行ってしまう。煌津は慌ててそれを追いかける。
「お義父さん。穂結君来たよ。那岐が向こうでお世話になっていた」
「……おお」
台所で新聞を読んでいた宮司らしい格好の壮年の男性が振り向く。細身で、心なしか九宇時那岐に顔立ちが似ている。白衣に紫の袴。袴には紫色の紋も入っている。紫の袴の神職は上級の位階なのだと、昔何かの本で読んだ。
「はじめまして。那岐の父です」
「あの……穂結煌津です。九宇時君とは仲良くさせてもらっていました。この度は……」
急な事でとも、とんだ事でとも、言葉が出てこなかった。舌が急に重くなったかのようだった。
「いえ。まあ、まずはあちらへどうぞ」
那岐の父親に促され、煌津は居間のほうへと向かった。
広い居間の奥、神棚に下に祭壇が作られていた。そこには、遺骨を納めた骨壺、那岐が良く飲んでいたエナジードリンクの缶、花瓶に生けられた花、使っていたスマートフォン、そして那岐の写真が写真立てに入って飾られていた。
三月五日。夜。未明。九宇時那岐は宮瑠璃市の端にある灯台の下で亡くなった。
転んだ拍子に頭を打ったのだと煌津は聞いていたが、詳しい状況は知らされていない。MMAの返事が一週間近くなかったので、引っ越す前に知らされていた九宇時那岐の実家の番号にかけた煌津は、そこで初めて彼が亡くなった事を知った。
実に六か月振りに見る友人の顔は、煌津が知らない写真の中にあった。こうして改めて見ると、綺麗な顔立ちをしていると場違いにそう思う。
一礼をして、祭壇に手を合わす。ごちゃごちゃ何か言葉を考えるくらいなら、無心で祈ったほうがいいような気がして、現にそうする。
一呼吸置いて、那岐の父と那美のほうへと向き直る。
「那岐が退魔屋の仕事をしていたのは、穂結君もご存知だと聞いています」
おもむろに、那岐の父が話し始めた。
「はい」
「何でも、一度那岐と一緒に幽霊を見たとか。それなら、あまり余計な説明はいらないかもしれないですね」
那岐の父がそう言って笑う。笑った時の顔が、やはり那岐に似ている。
「そう、ですね」
つい最近はもっと深く関わるような事があったのだが、話がややこしくなりそうなので当然言わないでおく。
「穂結君は、退魔屋という仕事をどう思いますか」
「え?」
急な質問に、煌津は戸惑った。
「どうって……」
「退魔屋というのは、たった一人で戦争をするような仕事だと、私は那岐と那美に教えてきました。私も、私の父も同じ教えを受け継いでいます」
「戦争……」
「私たちが相手にする悪霊や呪詛の類は、私たちのような者のほかに、対処出来る者はありません。私たち退魔屋は最後の一線なのです。決して越えられてはならない境界線なのです」
境界線。それは、あの世とこの世の境目の事か。
「だから、戦争?」
「そう。我々が負ければ人が死に、呪詛が世に撒かれ、悪霊が跋扈する。我々は戦わなければならないのです。決して負けてはいけないのです。たとえ命を落としたとしても」
そこで、那岐の父は言葉を切った。
「我々の仕事は世の中のほとんどには理解されないが、しかしこの仕事を必要とする人間は必ずいて、助けを待っている」
那岐の父の言葉を、那美はただ黙って聞いている。
「那岐は優秀な退魔屋でした。同世代でもあの子に並ぶ者はそういなかったでしょう。あの子には霊能者としての才能があった。本人が望んでいたかどうかはわかりませんが、私はあの子に自分の跡を継いで欲しかった。闇の世界から、この宮瑠璃市を守って欲しかった」
那岐の父の目が赤く充血していた。
「あの日、那岐は灯台の下で儀式を行いました」
「……儀式?」
「人身御供。術者本人を神様への供物とし、我が身を以て魔が出入りする異界への門を封じる。この宮瑠璃市には歴代の術者が張り巡らせた強力な魔術のネットワークがあり、あの子はその一部となって怪物どもの侵入を防ぐ事を選んだのです」
急な話に、何と言っていいのかわからない、というのが正直なところだ。
「事故だと聞いていました……」
「現場の状況は、そうとも取れるようになっていましたが、見る者が見ればわかります。あれは儀式です。那岐ほどの術者であれば確実に成し遂げているでしょう。那岐の魂は天に行く事も地獄に行く事もありません。この街の防壁として、永遠に働き続けるのです。しかし、それは……」
「お義父さんが望んだ形じゃない」
那美が静かに、あとを引き取る。
居間が静まり返っていた。物音ひとつ聞こえないほどに。
「……私はあの子に、生きていて欲しかった。生きてこの街を守って欲しかった」
静かに、那岐の父が言った。
「あの日、仕事を終えたあと、那岐から連絡がありました。どこか疲れていた様子でしたから、心配したんです。でも、一人で帰るとそう言って……」
那岐の父の声は震えていた。
煌津には到底理解し切る事の出来ない感情が、そこにはあった。
煌津は友人を失くしたが、目の前にいる那岐の父は息子を亡くしたのだ。自分が思ってもみなかったタイミングで。
その喪失感には、簡単に寄り添えるはずもなかった。安易な言葉など許されないのだ。ただ、亡くした人を思って、その死を悼む事が唯一出来る事だった。それ以外に出来る事など何がある。
「……息子は、聡い子でした」
絞り出すように、那岐の父は言った。
「きっと何かを見たのだと、そう思います。最期を迎える前に、何かを。でもそれが何なのか、私には知る由もありません」
それから、那岐の父は那美に目をやった。
「那美、穂結君に用があるんだろう。私はもう行くから、あとはゆっくりしたらいい」
「はい」
「穂結君。今日は来てくれてありがとう。那岐もきっと喜んでいると思う」
「……はい」
頭を下げて、那岐の父は静かに退室した。
「穂結君。ちょっとついてきて」
そう言って、那美は立ち上がる。
「ここでは出来ない話だから、向こうで話そう」
「……」
確かに、ここで異界の話などするのも何だ。
「わかった」
煌津は頷いた。
那美に連れ立って、九宇時家の廊下を進む。明かりはついておらず、暗い。
「どこに行くの?」
「訓練場」
那美が答える。答えが端的過ぎる。相変わらずやりづらい。
「訓練場?」
「退魔屋としての訓練場だよ。私と那岐はそこで訓練していたの、戦い方や術の扱いを」
廊下の先に、大きくて重そうな岩が二つあった。
岩だ。どこからから切り出してきたような剥き出しの岩が二つ。そこに鉄の輪の取っ手が二つ。
扉だった。巨大な岩の扉。その片側に、ダイヤルのようなものがついている。
「ここが訓練場?」
「これは九宇時家の人間が代々受け継いできた人工のゲート。こちらから異界に行かなきゃならない時に使う。でも今回行くのは異界じゃないから安心して」
言いながら、那美は白い手をダイヤルにかざす。
「右に十一、左に二、右に三、左に十二」
暗い廊下に仄かな桜色の光が灯る。那美の手が触れているわけではないのに、那美が手を動かすのに従ってダイヤルがガチャガチャと音を立てて、右へ左へと動く。
「九は九にして
「……禁煙サイン?」
「禁煙サイン」
何か変? という顔で見つめられ、思わず煌津はたじろぐ。
「呪文とか、もっと仰々しいものだと思ってた。この間のも……」
「ああ。これは那岐と作った呪文だから」
「……自由なんだね」
「そういうものだよ」
そういうものだろうか。
ぐわぁーんという大きな音を響かせて、岩の扉が開いていく。
向こう側の光の量が多過ぎて、煌津は目が眩んだ。那美は気にした様子もなく前に進んでいく。遅れないように、煌津はそのあとを追う。
光の中に入った瞬間、体がふわりと浮かんだような感覚に陥る。
「退魔屋の世界には、基本となる四つの力がある」
那美の声が響く。足は、半ば自動的に光の中を進んでいく。
「《魔力》、《呪力》、《妖力》、《浄力》。それぞれの力は、この世界に対する作用を表している。たとえば、魔力は与える力であり、呪力は減らす力と考えてくれればいい。魔力を生きている人間に与えれば、身体を発達させ精神を高揚させる。呪力をぶつければ、身体を蝕み精神を腐らせる。魔力と呪力は対立するエネルギーであり、この世の
景色が変わる。煌津は宇宙の中にいた。空には無数の星々があり、足元には地球があった。煌津と那美の周りを、二つの大きな光球がぐるぐると回っていた。光球はぶつかっては互いに弾かれ、ぶつかってはまた弾かれ、を繰り返している。
「ここは……?」
「ここは私と那岐で作った訓練場の一つ。総称して、私たちは《マトリックス》って呼んでいた。仮想現実だから。見た事ある? 映画」
「いや……」
「まあ古い映画だからね」
光球がぶつかり合う。ばーん、ばーん。
次の瞬間、景色が一変し、煌津は見知らぬ校庭にいた。夕暮れの校庭だった。薄暗く、夕焼けと闇の色は濃く、不気味である。
トラックの上を、何者かが這いずっている。人間のようだが、奇妙だ。上半身だけで、うつ伏せで腕を使って這いずっている。少し離れたところにある下半身は仰向けで、水泳のように地面を蹴って動いていた。
「あれは……テケテケ?」
「あ、知っている? 有名な怪異だからかな」
這いずっている上半身の頭が、こちらを向く。顔面蒼白の、異様な目つきをした女の子。そう認識した次の瞬間、ずささささっと物凄い勢いで、女の子の上半身がこちらに迫ってくる!
「ひっ――!」
「大丈夫」
上半身だけの女の子が、煌津に襲い掛かる寸前で停止していた。さながら動画の一時停止のように。
「仮想現実って言ったでしょ。この子と、このステージはかつて宮瑠璃市に現れた怪異の話を模して作ったの。この街の怪異は特別で、《我留羅》って呼ばれている」
「がるら……」
煌津は強烈な表情をしたテケテケの顔を見つめる。仮想現実とはとても思えない。すぐにでも食い殺されそうな凶暴さを感じる。
「我留羅は呪力の塊。異界より漏れ出したエネルギーが、現世の恨みつらみを取り込んで怪異となったモノ。
目の前のテケテケがふっと消える。周囲の景色が書き変わっていく。
遠くに稜線の見える、崖っぷちを工事して造ったような、楕円形の広いスペースの上に煌津と那美はいた。振り返ると、大きな寺院が立っている。山中に建てられた寺院のようだ。楕円形のスペースの縁には岩が並べられ、最低限人が落ちないような柵代わりになっていた。
「ここもマトリックスの訓練場の一つ。術や武芸の訓練をするところ」
「何でそんなところに……」
「戦うからだよ」
いつの間にか、那美の手にはリボルバーが握られている。そして足元には、あのポーチが連なったベルトがあった。
「戦う?」
「そう」
手の中でくるりとリボルバーを回転させ、那美は続ける。
「このリボルバーと銃弾には、浄力が込められている。魔力と呪力がそれぞれプラスとマイナスの作用を起こす力であるのに対して、浄力はそれらをゼロにする力。魔力、呪力、妖力、
銀色のリボルバーの銃口が、無機質に煌津に向けられた。
「な、何で!?」
「この銃は普通の人間相手には弾が出ないようになっている。普通の人間は魔力も呪力も妖力も眠ったままだから。ただし……」
煌津は、自身の異変に気付いた。袖口から、あの包帯が伸びていた。袖口からだけではない。背中や腹や、襟元から、衣服の隙間という隙間から、何本も何本も包帯が飛び出している。
「ただし、今の穂結君相手なら、撃てる」
逆光でその姿に影の落ちた那美が、冷たく言い放つ。
「こ、これは……!?」
「異界から帰って来た人間は、何かしらを持ち帰っている可能性がある。だから私はハゼランノヒメを君に付けていた。特に、あだむの世界は《魔物喰らいの帯》が封じられていると言われていた」
「っ、魔物喰らい……?」
何か、急速にエネルギーを吸い取られているような、そんな脱力感があった。
「今、君から伸びているそれだよ」
煌津の頭上で、大きなヒトガタが形成されつつあった。緑色の目を爛々と光らせた、包帯の悪魔とでも言うべき風貌のヒトガタが。
「これは……ヤバいね」
訓練場の景色が振動していた。ヒトガタは異物であり、このマトリックスの世界はその存在を受け止め切れていないかのようだ。
「かなり痛いだろうけど我慢してね。そいつを君から引っぺがすから」
ベルトを拾い上げるや、彼女はくるりとそれを腰に巻く。ガチッと留め具が嵌る音がした。くるくると、まるで何かの儀式のように、流麗に
「退魔屋チェンジ!」
那美が叫ぶと同時に、桜色の光が溢れ出す。彼女が着ていた衣服が白衣に、緋袴に変化していく。緋袴に小さなポーチがいくつも連なったベルトが現れ、銀髪が桜色に変わっていく。
ヒトガタが鋭く伸びた指を那美に向かって突っ込ませた。土煙を立てて、地面が抉れている。
「九宇時さん!?」
ヒトガタが砕いた場所に、すでに那美の姿はない。彼女は跳んでいた。上空にある彼女の影がヒトガタに落ちている。撃鉄を起こす音がした。
ダン! ダン! ダン! 浄力の込められた銃弾がヒトガタを貫く。衝撃で煌津の骨まで震える。
「うぐっ……!?」
自分の体が銃弾で突き破られたかのようだ。こんな衝撃を何発も食らっていて耐えられるのだろうか……。
「少し堪えて。そいつを封じ直してあだむの世界に送り返す」
那美が懐から四個の御幣を空に放ると、それが煌津を囲うように四方に着地する。
「東に青龍、西に白虎、南に朱雀、北に玄武、中に匂陣、地に帝台、天に文王、前に三台、後ろに玉女。九字を敷き、九字を建て、九字で囲う九字の箱。閉じよ、九神の封!」
四つの御幣が光を放ち、青い壁、白い壁、朱の壁、玄の壁となり、ヒトガタを光の柱が貫き、煌津とヒトガタの間に壁、ヒトガタの上に壁、前に、後ろに光りの壁が発生し、それらが一挙に箱を形成しようとヒトガタに迫る。
――その瞬間、煌津に見えたのは、この訓練場を構成するエネルギーの織り込みだった。色とりどりのエネルギーの糸は全てが魔力だと理解出来た。それらの糸が強引にヒトガタに吸い寄せられるのも――
「何を――!?」
那美が息を呑んだ。訓練場のテクスチャーが剝がされていた。夕暮れの稜線が描かれていた景色は無残に引き千切られた壁紙のようにぼろぼろで、その向こうはただ真っ暗な闇が広がっていた。パァン! と、青い壁が割れる。続いて白、朱、玄。ヒトガタを封じようとしていた箱を構成するはずの壁は全て破壊されていく。
「魔力を取り込んでいる!?」
那美が引き金を引き、弾切れと同時に排莢、ポーチからスピードローダーを取り出して装填。再び連射する。煌津には色が見える。魔力というあらゆる色が混在する塊に、銃弾に込められた浄力というゼロに変化させる式が飛び込んでいくのを。だが、それは無駄だ。魔力は無限に増量し続ける。絶対に、ゼロにはならない。
「っ!?」
ヒトガタから無数の包帯が伸びて、那美の体を次々と掴んでいく。ヒトガタが何をやろうとしているのか、煌津にもわかった。取り込む気だ。
「やめっ――」
叫ぼうとした瞬間、喉の包帯が締め付ける。喉だけではない。腕も、足も。まるで煌津に邪魔はさせないとでも言うかのように。
――意識が深く潜る。これは、ヒトガタの内側か。自分の内側か。
『馬鹿な真似は止せ』
闇の中にどろどろと蠢く極彩色の中、声が響く。
『お前はただの器』
『
『誰でも良いのだ』
『この娘でも』
『器として適格ならば』
煌津は様々な色の糸を見ている。それら全てがエネルギーだ。それら全てが魔力だ。
掴もうと思えば、この手に届く。
「魔を、退散させるっていうなら……」
泥の中でもがくように、煌津は力づくで手を伸ばす。
「相手を間違えるな。その子は人間だ……!」
無数の糸を、煌津は掴む――!
次の瞬間、全て糸が煌津自身に流れ込んでくるのを感じる。まるで色の奔流を一身に受けているかのようだ。無数のイメージ、無数のエネルギーを感じる。骨という骨、肉という肉、神経の全てに魔力が行き渡っていく。
「はっ――!?」
気が付くと、煌津は半壊した訓練場の上に立っていた。目の前では巫女装束の那美が荒い息をついている。
「穂結君、まさか……」
呼吸を整えながら、那美が言った。
「魔物喰らいの帯を、コントロールした……?」
「……何か、見えたよ。たくさんの糸。あれが魔力ってやつかな」
考えるより先に、煌津は答えていた。とてつもない疲労を感じるが、同時に体中にエネルギーが満ちているのがわかる。体が、熱い。爆発するのではないかと思うほどに。
「何だか、ヤバい感じがする……」
「魔物喰らいの帯が、訓練場を構成していた魔力も持っていったのね。それが全部、穂結君の中にあるのが見える。魔力の量が多過ぎて、他人が外に出そうとすればバランスを壊してしまう……」
頭が熱でぼんやりする。体内でエネルギーが暴れている。
「どう……したらいい?」
「それはもう穂結君の魔力。穂結君がコントロールして外に出すしかない。何かイメージして。それだけの魔力量なら、何かを造り出す事で消費出来るはず」
手足が震える。立っていられない。がたがたと震えるが、心身の高揚が止まらない。
「どうしたら――」
「手を前にかざして。目を閉じて、イメージして。強いエネルギーが込められた何かを。内なる魔力が形となるに相応しいものを!」
「ぐっ――!」
目を閉じる。極彩色がどろどろと蠢くイメージ。溶岩の爆発。力強い鬼のような者のシルエット。無数の色彩の糸が何か形を成そうとしている。溶岩の爆発。内に潜むのは、包帯。魔物喰らいの帯。那美を食おうとした。それは、駄目だ。彼女は関係ない。彼女は魔物ではないのだ。だから、今度もしそんな事をしようとしたら、俺が、俺がこの手でこいつを――!
――何かが、ぎゅるぎゅるぎゅると音を立てて回転する――
自分の中で爆発しようとしていた魔力が外に飛び出したのがわかった。相当な量だ。それが空中で形を成し、回転しながら落ちて来た。まるでそうなる事が計算されていたかのように、カン! と音を立てて、煌津と那美のちょうど間に突き刺さる。
「これは……」
それは、長方形の箱だった。掌よりは大きく、真っ黒で、プラスチックのような透明な板の内側に、綺麗に巻かれた二つのテープが見える。
「ビデオ……?」
那美が、思いっきり眉根を寄せて言った。
「いや、何でビデオ?」
「え……いや、わかんない」
「私、強いエネルギーが込められたものって言ったよね? 穂結君的にビデオってそういうものなの?」
「え……ほらだって、呪いのビデオとか」
――――――エッチな奴とか。
「ベイビーめ」
那美が忌々しそうに言う。えぇ……と、声にならない声が煌津の口から漏れた。
「ビデオはともかく、九宇時さん……平気?」
「私は大丈夫。魔力を循環させれば肉体は治せるから」
言うが早いか、桜色の光が仄かに那美を包み、そして消える。心なしか、那美の血色が良くなった気がする。
「九宇時さん、このビデオ……」
「それはこちらで預かる。君はこれ以上、こっちの世界に立ち入らなくていい」
那美の手が突き刺さったビデオに伸びる。その動きよりも一瞬速く、煌津はビデオを掴み取った。
「穂結君?」
那美の目が静かに煌津を見つめる。
「これ……俺の魔力が込められたものなんでしょ? てことは、俺がこれをどうにかして使う事が出来れば……」
「……邪悪なモノたちと戦える、と?」
こくりと、煌津は頷く。
「そう。それは正しい」
那美は冷たい声で答える。
「でもそれは、穂結君の仕事じゃない」
「あいつは、俺と同い年なのにその仕事をしていた。だったら俺も――」
「義兄さんはほかの人とは持っているものが違った。だからやれていたんだよ。自分にも同じ事が出来ると思うなんて、思い上がりだよ」
「そりゃ、あいつとは違うさ。だけど……」
「塩と読経で追い払うのとはレベルが違う」
「そんな事はわかる! 君の戦いを見ていれば」
「では、何故?」
那美が問う。何故だろう。頭の中を探っても、うまい言葉が見つからない。
ただ、瞼に、友人の姿が焼き付いて離れない。
「……他人が怖い思いをするのは嫌だ。俺は幽霊が見えるようになってから、ずっと恐ろしかったんだ。そんな思いを、ほかの人もするなんて耐えられない」
ビデオを持つ手に力が入る。
「これは、俺の力なんだ。これを使ってあの日、九宇時が俺を助けてくれたみたいに、誰かを助けられるなら、君に預けるわけにはいかない」
那美は射殺すような目で煌津を見た。リボルバーのグリップを握る手に力が入っている。
「そう……そうか。言ってもわからないようなら」
排莢。空の薬莢が金属的な音を立てて地面に落ちる。
煌津は身構える。おそらく次はリロード。そして早撃ちだ。譲らない態度は見せたものの、果たしてそれが正解だったかどうか。内側の包帯は当てにならない以上、頼りはこのビデオだけだが、実際問題、ビデオなんてどう使えば……。
那美は銃弾の入っていないリボルバーをくるくると回し、ホルスターに収める。
「うん……?」
「今は言い合いになってもしょうがないから」
桜色の光が一瞬強く光る。光が収まった時には、那美は銀髪に戻り、服装もさっきのものに戻っていた。
「お昼、食べに行こうか」
「……え」
煌津は腕時計を見た。時計の針は、十二時ちょっと過ぎを指している。
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