第二章 運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ 1


      ※


 暗闇は、彼女にとって馴染み深いものだった。実に長い間、彼女は暗闇の中にいた。

 つけっぱなしのPCの画面が煌々と光っている。画面に映っているのはミュージックアプリで、CDから再生した一時停止中の楽曲が表示されている。喋る相手は必要なかったが、音楽を聴く習慣はあった。彼女にとって、必要なのは外界との接触ではなく、自分の世界への没頭だった。

「そろそろ、補給が必要だね」

 暗闇の中で、彼女は言った。

 万年床と化しているベッドに背を預け、膝を抱えてうずくまっている。

「心配する事ないよ。君はボクが生き返らせたんだ。だから、君の世話をするのはボクの仕事だ」

 言いながら、彼女はまだ片側半分が残っている長髪を指で掬い、右手に持った古めかしい裁ちばさみで適当に長髪の束を切った。伸ばし放題にした黒髪だが、別に髪型に興味はない。

 部屋には、彼女以外誰もいない。

「存分にやるといいよ。十年前のように。狙ったものは全て仕留めればいい」

 床に、切り離した長髪の残骸を落とす。

 暗闇と彼女の長髪が同化する。

「さあ、行って。皆殺しにしてきて」

 ぞぶり、ぞぶりと、沼地のような音を立てながら、落とされた長髪が床に飲み込まれていく。

 部屋が徐々に明るくなる。暗闇が晴れて、部屋の中は元通り、LEDライトに照らされていた。

 自分の血が体の中を巡っているのを感じる。胸の裡から突き刺すような高揚。彼女は笑っていた。


      1


 しばらくの間、崖っぷちの手前で座り込んで、煌津は呆然としていた。

 波の打ち返す音だけが響き、濃紺の海には魚の影さえ見えない。

「どこ、ここ……」

 それしか言う事がない。

 後ろは森、前方は崖。その先は海である。煌津が立っているところは、少しばかり傾斜がついていて、舗装はされていない。

 海の向こうには、白い巨人のようなものが見える。まるで、こちらに手を伸ばして、やって来ようとするかのようだった。ただし、今のところ動いている様子はない。

「あれは何だ……」

 さながら、突然異世界に捨てられたかのようだった。

「神隠し……」

 頭の中の知識を探る。そう、これでは神隠しだ。隠されたのは煌津本人。

 神隠しは、洋の東西を問わず語られる怪奇現象だ。人が、ある日、何の脈絡もなく忽然と消え失せる。昔、町内文化研究会の先輩が教えてくれたところによれば、いなくなるのは子どもも大人も関係ないという。行方不明になった人物は、東洋では神域に連れ去れたと考えられ、西洋では妖精の里に行ったという考え方もあった。が、現代では、神隠しの話はより怪談化され、神秘性よりも恐ろしさや不気味さが際立つようになる。

「神域って感じじゃないよな、ここ」

 もちろん、神様の事など何もわからないが、あまり居て楽しい場所ではないようだ。

 行方不明者が必ず帰れるのかどうかはわからない。ただ、先輩が話していたところによれば、仮に帰れたとしても、現実世界では十年の時が過ぎている、なんてパターンが多かったはずだ。であれば、煌津が仮に帰れたとしても……

「静星さんは……。それに……」

 辺りを見回すが、静星や、あの九宇時那美という子の姿は見当たらなかった。こちらに来たのは煌津だけなのか。

「む……」

 坂の下方に、大きな物が見えた。崖べりの道に、まるでプラモのパーツでも取り付けたかのように、そこだけぼこっとせり出している。

「家だ」

 駆け足で坂を下る。

 奇妙な事だが、崖に取り付けられたかのように、一件の家が建っていた。軒下は、足場のように組まれた鉄筋や鉄骨が、崖に刺さって家の土台になっているようだった。崖が崩れそうな気もするが、地面にはひび割れらしいものはない。

 家は全体的に影が落ちていた。平屋だった。信じられない事に、家屋の横には小さな駐車場のようなものもある。ただし、車や自転車は見当たらず、埃を被った水鉄砲や浮き輪が棚の上に乱雑に置かれているほかは、何の果物かもわからないが、拳より少し小さいくらいの大きさの実がなった細い木が生えている。

 錆びて黒ずんだ郵便ポストの横に、手製らしい看板が立っていた。表札はないが、これがその代わりらしい。看板には《あだむの家》とペンキか何かで書いてある。

「あだむの家?」

 あの、アダムとイヴのアダムだろうか。それとも、海外の方の、とか……。いや、まともな方法で来たわけではないこの場所に、まともな人間が住んでいるはずがない。

 どうしよう。家があるという事は、誰かがいる、もしくはいたのだ。この世界から帰る手がかりがあるかもしれない。

 だが、危険過ぎる。

 ついさっきまで本物の悪霊に襲われていたのだ。何もわからないこの世界で、防御手段一つ持たずに、こんな怪しげな家に入るのは、あまりにも考えなしだろう。

 悪い事に、『吐菩加美依身多女』が書かれた定期入れはない。ビニール袋に入れた塩も。この家の中で何かに襲われたとしても、反撃も出来ないのだ。

「ほかに、何かないか……」

 ポケットの中を探る。小銭入れ。スマホ。ハンカチ、ポケットティッシュ。制服の胸ポケットにはペンが差してある。そのくらいだ。

「スマホ……」

 電源ボタンを押すと、スマホはまだ電力が生きている。が、奇妙な事に、時計は表示されていなかった。アンテナも圏外だ。ロックを解除する事は出来るが、当然ネットにはつながらない。

「いや、確か……」

 ビデオフォルダを探す。以前、保存しておいたものがあるはずだ。画面をスクロールしていく。見つけた。

『ドン ドン ドン ドドドドドド』

『かんじーざいぼーさつぎょうじんはんにゃー』

 動画の中で、お坊さんの一人が太鼓を叩き、もう一人が火の中に長い箸で護摩木や米やお香を入れながら般若心経を唱えている。以前、九宇時に言われた事を思い出して、大きなお寺が公式動画でアップロードしていた新年祈祷の護摩行を、スマホのカメラで録画しておいたのだ。これを流せば、お守り代わりにはなるだろう。

「よし」

 迷ってばかりもいられない。煌津は《あだむの家》の玄関のドアノブに手をかける。

 回す。ドアノブが動く。鍵はかかっていない。

 玄関のドアを開けると、埃の臭いがした。部屋の中は暗かった。

「お邪魔します……」

 念のため、そう言った。ちょっと考えたあと、靴は脱がないまま上がった。床の埃は結構溜まっていたし、何か出た時に靴を履き直す暇はないだろう。

 玄関のドアを開けたまま、部屋の中へと進んでいく。

 広い造りの家だった。玄関から細く短い廊下を抜けると、居間に直通している。カーテンがしまったままの居間には炬燵が出しっぱなしで、本や、衣類が散らばっていた。古びたテレビの前には、四角い箱が山積みになっている。

 あれはビデオテープだ。

 嫌でも昔見てしまった怖い映画を思い出して、煌津は身震いする。

 左手にも部屋があるようだが、襖が閉ざされており、包帯のようなもので襖自体が囲われている。その囲い方も無茶苦茶で、きちんと狙いがあって包帯を駆使したというより、とりあえず囲えるように囲ったという感じだった。

「ヤバいな……」

 思わず口に出してそう言った。まるで何かが閉じ込められているかのようだった。

 右手は台所になっていて、テーブルの上にザルや皿が置いてある。台所の窓から差し込んだ日の光が、空中に浮かんだ埃を煌かせている。

(とりあえず)

 居間のカーテンを開ける。何かが起こるかもしれないと思うと、胃壁がおかしくなりそうだったが、カーテンを開けて起こったのは部屋が明るくなったくらいだった。

 窓の外は、やはり海だった。水平線の左端には、あの白い巨人が見える。

 振り返って居間の中を見回す。洋服箪笥から寝間着のような衣服がはみ出していたり、箪笥の上にはガラスケースに入った二体の和人形が飾られていた。どこにでもありそうな、普通の家だ。ただ、怖いので和人形のほうはあまり見ないようにした。

と、炬燵の卓上に、何かがあるのが見えた。

 ノートだった。縦書きで、文字が書いてある。

 反対側から見てもわかる。日本語だ。ノートの向きは玄関側に向けられていて、お茶請けを盛る皿を上から乗せられていた。飛ばないようにしている。つまりこれは、入ってきた人間に見せるためのものだ。

 ノートの読める位置に戻って、煌津は皿をどかし手紙を手に取った。


『運悪くこの世界にたどり着いてしまった方へ。

 最初に、沖に見えるあの白い巨人は心配ありません。

 計測してみたところ、あれは七年に一歩だけこちらへ近づいてくるようです。

 しばらくはやって来ません。

 この家の駐車場から生えたリンゴは食べないほうがいいです。知恵の実ですがヨモツヘグイです。

 この世界では十二時間で半年、二十四時間で一年が経過します。長居はしないでください。

 元いた世界が見たい場合は、居間の姿見を見てください。本来のあなたが映ります。

 隣の間には入らないほうがいいです。居ます。開けなければ大丈夫です。

 外の森は、探検してみましたが脱出は出来ませんでした。

 詳細がわかったら、このノートに書き足しておいてください。

 退屈したら散歩するのが良いですが、うまくすると帰れるようです。

 居間の時計がこの世界の時間です。

 部屋の隅に、私が使っていた布団があります。休む時に使ってください。

 それから、デッキの中のビデオは見ないように。

 それでは、元いた世界であなたと巡り会える事を楽しみにしています』


「えっと……?」

 色々書いてあるが、もう一度読んだほうがいいだろう。

 白い巨人のくだり……はとりあえず関係なさそうだ。七年に一度らしいし。駐車場のリンゴ。あれリンゴだったのか。ヨモツヘグイ。意味は黄泉の食べ物だ。いや、まあいい。とにかく食べなければいいんだろう。この先が重要そうだ。『この世界では十二時間で半年、二十四時間で一年が経過します。長居はしないでください』……今、ここに来てから何分経った?

 スマホは駄目だ。煌津は腕時計を見た。

 十四時五分。時計はそこで止まっていた。保健室を出たのが十四時。十四時五分なら、まだ静星と話していたくらいだろう。

 どの道、長居は出来ない。二十四時間で一年……いや、そもそもこんなところに二十四時間も居たくない。

『隣の間には入らないほうがいいです。居ます。開けなければ大丈夫です』

「居ますって……」

 左手にある襖を見る。まるで箱でも囲うように、白い布で乱雑に囲われた襖。

 あの部屋はヤバい。絶対に入ってはいけない。

 散歩すれば、うまくすると帰る事が出来るとノートにはあった。ならば、この家はとっとと出てしまい、あてはなくとも歩き回って運よく元の世界に帰る事を狙ったほうがいいだろう。少なくともこの家にいる限り、危険は目に見えているのだし――

「……あの、誰かいますか?」

 他人の声が聞こえたのはその時だった。反射的に、煌津は襖を見ていた。

 白い布で囲われた襖は、無表情な能面のようで不気味だった。

「ねえ、そこに誰かいますよね!」

 今度は確実に聞こえた。女の子の声だ。襖の向こうから聞こえた。

「あの、そっちから開けてもらってもいいですか? この襖動かなくて」

 ガタッ、ガタッ、と襖が詰まる。動きに苛立ちが見えた気がした。

 出たがっている。それはわかる。だが、中にいるのが善良なものだとは限らない。

「……」

 煌津は無言でスマホを炬燵の上に置いた。ロックを解除して画面を操作する。

『ドン ドン ドン ドドドドドド』

『かんじーざいぼーさつぎょうじんはんにゃー』

 護摩行の録画を再生する。使える魔除けはこれしかない。これで中にいるものに影響があれば……。

「この襖、何か固いんですよ。動かなくて。ねえ、そっちどうなってます?」

「な……」

 ノーリアクションだ。という事は、この部屋の中にいるのは、悪霊やその類ではない、という事だろうか。いや、そもそも録画だから魔除けたり得ない、という事も考えられる。

「ねえ、襖動かないですか? わたし、もうずっとこの部屋に閉じ込められていて……」

 嘘だ。そう自分に言い聞かせる。ずっとこの部屋に閉じ込められていて? ずっとというのはどれくらいの事だ。二十四時間で一年なら、中にいる人は何時間ここにいた? 何年? この異様な世界で、たった一人部屋の中に取り残されて、その人は正気を保っていられるのか?

 その人は、今もヒトなのか?

「……っ、うっ」

 襖の向こうから嗚咽が聞こえる。

「……何で返事してくれないの。何で皆無視するの。お母さんに会いたい。会いたいよ」

 胸の中が疼く気がした。

『はんにゃーしん』

 護摩行の再生を止める。これはどうやら効果がない。それに、中の彼女が、ただ救出を待っているだけの人なら、勝手に怪物扱いするのは良くない事だ。

 襖に手を伸ばす。無造作に走った白い線。布に指先が触れる。

ぞわり、と。

 白い布が生き物のように波打った。

「うわっ!?」

 思わず手を引っ込める。今のは何だ。目の錯覚か。今さらこんなところに迷い込んだというのに、目の錯覚も何も……。

 ――ガチャ。ガチャ。ウィーン。

 何か、物音が後ろのほうで聞こえる。

 振り返ると、ザーザーという音ともに、テレビの画面がついていた。

 白と黒の無数の楕円が右から左へ、左から右へと動く。ザー、ザー。これは、確か『砂嵐』だ。

 ぶつん、と音がして、青い背景にぐわんと波が走る。白い文字が画面に浮かんでいる。

『これより、研修ビデオを再生します』

 文字が浮かぶ。次々と。ノートにビデオについての記述があったはずだが、もう思い出せない。

『悪を倒さんと願うなら』

『その者の本質を知る事です』

   『それが魔を退散させる者の務め』

          『それでは』

  『終いまで見よ』

 シュルルル、と何かが滑るような音。

 次の瞬間、画面に映っていたのは、荒い映像の、古びた光景だった。首を少し傾げ、背中をのけ反らせ気味の、白い着物を着た女性が、境内の石畳の上に敷かれた御座の上に正座させられている。

 その目は白い布で目隠しされている。女性の体は縄で縛られ、その両端を二人の男が持っていた。神主がカメラに映っていない方向に向かって、誰かに対し、こちらに来るように促す。すると、画面の手前から、ぬっと、鍔広の帽子を被った黒いコートの男が現れた。

 いや、正確には、顔も映っていないし、体つきもがっしりはしているが男性とも女性とも断定できるわけではない。脳が勝手にそう認識したかのように、奇妙な確信が煌津にはあった。

『狐か、犬神か』

 男の声がした。コートの男が言ったのだ、と煌津は思う。

『遣わしたモノが帰って来たのだ。言え。誰に何を遣わしたのだ』

 女性の、ひきつるような声がする。

『許すまじ。許すまじ。たばかり。謀った。我を。我を』

『言え。誰に遣わした。誰に遣わしたのだ』

 コートの男の叱責が飛ぶ。

『コーーーーーーーーーン!』

 唐突に、叫び声が境内に響く。女性の声ではない。縄を掴んでいた男の片割れが、急に天を仰いで叫んだのだ。

『ワン! ワンワン! ワォーーーーーーーーーン!』

 縄を持っていたもう一人が、同じように天を仰いで吠える。

 神主が慄然とした顔でその様子を見る。コートの男は微動だにしない。

『コーーーーーーーーーン!』

『ワン! ワンワン! ワォーーーーーーーーーン!』

 二人の男は縄を投げ捨て、さながら獣のように吠えまくりながら、境内の中を駆け回る。

『ひ、ひひひひ、ひひひはははははは』

 目隠しされた女性の口元が、けたたましく可笑しそうに笑う。

『狐! 犬神! 狐! 犬神! 許すまじ! 許すまじ! 我を謀った者! あの娘も、あの男も、狂わせて殺す!』

 黒い靄が立ち込める。穢れ。直感する。邪悪なモノが放つ穢れ。縄で縛られているというのに、女性は境内を転がりながら笑い続けている。

『ガルラとなりし御魂よ』

 コートの男が言った。

 いつの間にか、その袖口から包帯のような白い布が溢れ出ている。

『セイ、ジン、チ、ジャ、タイ、ウン、メイ――』

 静かに男が呪文を唱える。女性の笑い声は止まらない。冷え切った境内の空気を感じる。

 画面が回転する。ぐるぐる、ぐるぐる。煌津自身が画面の中に溶けていくかのようだ。

 どこかの洋館が見える。場面の脈絡がない。洋館の一室で、男が宙に浮いている。悪魔にりつかれている。そういう事情がわかる。何故か。情報が。頭の中にある。

 祈祷師らしい女性が祈っている。男にぐるぐると白い布が巻き付いていく。

 シュルルル。音が聞こえる。耳元で。

 場面が変わる。子どもが白い布でぐるぐる巻きにされていく。両親らしい男女が、その様子を泣きながら見ている。布を操っているのは、今度は老人だった。さらに場面転換。今度は外国人。黒人の神父が白い布を使って聖書の言葉を唱えている。場面転換。今度は侍だ。侍が、印を結び白い布で鬼を捕らえている。さらに場面が変わる。さらに、さらに別の使い手が白い布を――

 布は受け継がれてきたのだ。煌津は悟る。はるか昔から、魔を退散するために。

『ねえ、開けて! ここから出して!』

 聞き覚えのある声。見覚えのある部屋。

 今、煌津がいる居間だ。炬燵の位置も、テレビの位置も変わりはない。

『開けて! 開けてよ! 何で閉じ込めるの!』

 白い布は、一人でに襖を封印していく。居間には誰もいない。

「これは何だ」

 煌津は問う。だが、自分が今やどこにいるのかもわからない。煌津は画面を映すカメラの主だ。だが、自分の体というものが認識できない。

    『これは歴史』

 知らない声が答える。

『お前は知らねばならぬ』

      『学ばねばならぬ』

  『魔を退散するために』

        『悪鬼を救済するために』

 知らない声が話を続ける。音は聞こえる。耳はある。でも、顔がどこにあるかはわからない。

「何で、何で俺がそんな事を――」

 どこにあるかもわからない自分の口で、煌津はうわ言のように口走った。

        『誰でも良いのだ』

  『悪を恐れ、善を選び』

       『恐怖しながらも、他人のために身を犠牲にする』

   『誰でも良いのだ』

 包帯で出来たヒトガタが、緑色の目を煌かせ、煌津を見て笑う。

『使えるならば』


「おっ、おおっ、ごっ――」

 煌津の口の中に、ビデオの山から伸びた無数の黒いテープが吸い込まれていく。気道が塞がる。息が出来ない。苦いともまずいとも言い難い。プラスチックをそのまま食べているかのような、ひどい味がする。

 両目に白い包帯が飛び込んでくる。眼球を貫く痛み。絶叫も、テープのせいでくぐもっている。幾条ものテープ、そして白い布が煌津の中に吸い込まれていく。

 ――ばたん。

 唐突に、煌津は居間の床に落ちた。詰まっていた気道が急にすっきりしたせいで、慌てて体は呼吸を再開する。自分の呼気が荒いのが聞こえる。だが無理だ。酸素が足りない。もっと、もっと息を喫わなければ。

「はあーっ、はあーっ」」

 息が整わない。どころか、どんどん息が出来なくなる。ひどく体が熱い。

 セイ、ジン、チ、ジャ、タイ、ウン、メイ。セイ、ジン、チ、ジャ、タイ、ウン、メイ。頭の中呪文が繰り返されている。ビデオテープの映像が瞼の裏で延々と再生される。

「うっ……うう」

 熱が収まってきた、気がする。頭の中で繰り返されていた呪文も、映像も薄らいでいく。

 立ち上がる。額は汗をかいていてひどかった。袖で額をぬぐうと、頭がまだ少しくらくらする。

「何分……」

 ぼんやり時間を気にする。何分経った。それは、元いた世界では何時間になる?

 がた、がた。がた、がた。

 後ろで、物音がする。襖だ。

「待って……」

 開けなければ。煌津は立ち上がって、取っ手に手をかけた。襖をくくっていた包帯のような白い布は、もうない。

「よいっ、しょ」

 がら、と。つっかえていた襖が勢い良く滑る。

 襖の向こう側の部屋には明かりがついていなかった。手前に人影が見えて、煌津は思わず、うっ、と呟いて身を引いた。ずっと閉じ込められていたせいだろう。黒髪は伸び放題でぼさぼさだった。

「あー、ありがとうございます。やっと外に出られた」

 黒髪の主は顔を下げたまま、息をついてそう言った。

「ああ、いえ。良かったです。無事で……」

 何と言っていいかわからず、煌津は思いつくまま喋る。そうだ。思ったより元気そうじゃないか。

 無事で良かった。無事で……

「……っ!?」

 黒髪の主の頭部はやけに下方にあった。さながら這いつくばっているかのようだ。こういうものを見た事がある。大型犬。黒髪の主は両腕を床につけている。では、襖を掴んでいるこの手は何だろう? これでは、まるで……

「本当――助かりましたあ」

 黒髪の主の肩から、さらに二本の腕が伸びて、煌津の肩を掴む。

 これで腕は六本――黒髪の主が顔を上げる。

「ありがとうございまああああああす」

 黒髪の中から顔をのぞかせた骸骨が、おぞましい声で言った。

「うわぁああぁあああっ!?」

 逃げようとして足がもつれる。肩をがっしりと掴まれたまま、黒髪の骸骨がのしかかってくる。

「出られてよかったですわたしもうずっとあの部屋の中にいたからお腹空いたお腹空いたお腹空いたお母さんどこですか探しているんですどこですか知っていますか」

 骸骨が女の子の声でまくしたてる。骸骨の口がすぐそこまで迫っていた。ひどい臭いに吐き気が込み上げる。

「放せっ!」

 骸骨の胴体をどかそうとするがびくともしない。肉体の感触。体毛に触れている。まるで大型犬だ。さらに二本の腕が煌津の足を掴む。

「お母さんどこですかどこに行ってしまったんですかわたしクロと散歩に出たんですクロはもうずっと長生きなんですよお腹空いたお腹空いたお腹空いたお腹空いたお母さんどこですか」

「知るもんか! どいてくれっ!」

 残っていた二本の腕が、煌津の首を掴んだ。

「ぁっ……!」

「お母さんどこですかお母さんどこですかお母さんどこですかわたしわたしわたしお母さんもうどこにもいない……」

 声音が少し変わった。首を絞める強さは変わっていない。このままでは窒息させられる。

「黒い……靄が……」

(泣いて……る?)

 ぞわり、と煌津の皮膚の内側で何かが動いた。

 両手の袖口から白い包帯が幾条も飛び出し、骸骨に絡み付く。自分の体にはなかったはずのものなのに、その包帯の一本一本は肉体の延長のような感覚だった。

「黒い……靄……靄……靄がァ」

 ――ブウン。

 雑音とともに、脳に直接映像が飛び込んでくる。女の子と黒い犬が、ダイニングを呆然と見つめている。部屋の中は暗く、彼女と犬のほかは誰もいない。「お母さん、帰って来てないね」と女の子の声。場面が切り替わる。ブロック塀のある細道を女の子と犬が散歩している。呪。目の前に黒い靄が現れる。煌津は――呪――自分自身が立ち竦んでいるかのような感覚に襲われた。女の子が尻もちをつく。犬が唸り声をあげ、それから、黒い靄が眼前でいっぱいに広がり――!

「やめろっ!!」

 夢を夢だと認識して、無理矢理目覚めるのと同じように、煌津は頭の中の幻覚を振り払う。いや、一方で確信している。今のは幻覚などではなく、この包帯が、少女の声で話すこの骸骨に絡んだ事で読み取った、〝事実〟なのだと。幻覚だと思うには、あまりにも生々しい臨場感だ。

「お母さんどこですかお母さんどこですかお母さんどこですかおか、くろ、もや……」

 骸骨の眼窩の奥に鬼気迫る気配を感じた。

「ウゥウ……ぐぅるぐぅうう」

 唸り声がする。包帯を通して脳に情報が入り込んでくる。敵意。敵意。敵意。敵意。敵意。敵意。

「がぅアッ!!」

 包帯の千切れる音がして、骸骨の大きく開けた口が迫る。左の鎖骨辺りに強烈な痛み。骸骨の歯が、煌津の肉と骨を噛み砕く。

「ぁ、ああ――ッ!!」

 痛みが脳髄を支配して、自分が叫び声を上げた事さえどこか遠く感じる。包帯が袖口から溢れ続けている。煌津は拳を握った。もの凄い力が内側から湧いて出る。まるで暴力性の奔流だ。押さえつける腕を振り払い、反射的に、骸骨の側頭部を殴りつける。ガン! ガン! 一発殴るごとに怒りが増幅する。がん! がん! くそ、こいつ。放せ。放せ!

「このォッ!」

 力任せにのしかかってきている体を蹴り上げる。自分の体ではないかのような力。骸骨の口が外れる。一瞬の隙をついて、煌津は骸骨の拘束から抜け出した。

「はっ、はっ――」

 噛まれたところが焼けているかのように熱を持ち痛む。玄関を飛び出し、地面に転げた。立ち上がらなければ。

「ぐるぅっ、がるぁっ」

 暗い家の中から、獣の唸り声が聞こえる。行き先を考えている暇はない。とにかく逃げないと。もつれそうな足に何とか力を込めて、煌津は立ち上がった。

 黒い影が家の中から飛び出してくる。間一髪で、煌津はそれを躱した。緩やかな坂道を少し滑る。妖しげな世界の太陽が、骸骨の全身をさらけ出す。想像通り、大型犬のようだ。いや、それより体毛は鋭く濃い。まるで狼だ。前脚は人間の腕、後ろ脚は狼のそれだ。どういう構造なのか、前脚の付け根の辺りからさらに二組の二本腕が生えている。黒い髪の毛が残ったままの骸骨は、まるで古い怪談話に出て来る落ち武者みたいだ。

「はぁっ、はぁっ」

 意識が朦朧としてくる。傷口から毒が回っている気がする。自分が変質していくのがわかる。

 骸骨が唸り声を出しながら、こちらを見る。何か。何かないか。何か、この危機を脱せるものは。

 すぐ傍にあるのは家の駐車場だ。横を見ると、細い木が見えた。何の実かもわからない実が成っている。

 ――ヨモツヘグイ。

「お腹が減ったっていうなら……」

 にじり寄り、手を伸ばす。痛みを堪えながら、細い木に成った果実をもぎ取る。

「がるアァっ!」

 骸骨の狼が吠えた。

「これでも喰らえ!」

 ひゅん、と痛まないほうの腕で投げた果実は放物線を描いて、骸骨の前にぽて、と落ちた。

「すん、すん」

 匂いを嗅いだ骸骨が、ぱく、と果実を口にする。じゃり、じゃりという咀嚼音が聞こえる。

 嚥下する。特に様子が変わったところはない。

「……ぐぅるぐぅうう」

 再び、骸骨がこちらを向いた。

「無駄か……」

 これは本当にやばい。逃げないと。

 ――ドクン――

 空間自体が振動する。

「あ、あ、あ、おぅおあ」

 骸骨の様子がおかしい。体をくねらせて、のたうち回っている。

 空の色が変化してく。赤に青に緑にと。ノイズがひどい。この世界全体が歪められているかのように揺らいでいる。

「異層転移……」

 遠くで、何かが爆発するような音。だーん。この音は……。

 ――ピュン、と。何かが体の脇を掠めた。

 がん! 骸骨の頭部が弾かれたように上向く。よろめいた骸骨が再びこちらを向くと、その額には小さな何かが埋まっていた。

「銃、弾……?」

『着弾した!』

 ノイズがかかった声が、空から聞こえた。周囲の景色に、別の景色が混ざっている。校舎。植え込み。透明なそれらの景色が重なって見える。

「……ぐぅるぐぅううぁッ!」

 骸骨が吠えて、こちらに駆けて来る。早い。あっという間に近付かれる!

「穂結君!」

 名前を呼ばれるのと同時に煌津は襟を掴まれ、後ろに引っ張られる。視界が暗転する――

「ぐるっ……があぁ……っ……ぁ、ああぁ、置いて行かないで!」

 目の前が真っ暗闇に閉ざされるか否かのその一瞬、少女の叫びが聞こえた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る