第一章 カンナギ・ガンスリンガー 3


      3


 九宇時と一緒に帰って初めて幽霊を見たあの日から、煌津は時々、幽霊が見えるようになってしまった。

 見ようとして見るわけではない。気付くようになったというのが、より実情に近いか。とにかく、道端であれ、学校であれ、煌津は彼らの存在を認知出来るようになった。

 たいていの場合、幽霊側は何も仕掛けてはこないが、たまにこちらが見える人間である事に気が付くと干渉してくる奴もいる。その中には、九宇時が言っていたような『ちょっとヤバめの奴』もいる。例えば、朝の青いスニーカーはヤバめのほうだろう。首の捩じれた女は、言うまでもない。

「……っ。うーん……」

 ようやく水面に浮上したかのような感覚で、煌津は目を覚ました。真っ白い天井が見え、ついで、ここがカーテンで覆われた一画である事をぼんやり理解する。

ベッドの上だ。どうやら保健室に運ばれたらしい。

 悪い意味で強めの幽霊を見るとこれだ。ひどい風邪でも引いたかのような体調不良。何日か寝込む事もある。

「気持ち悪い……」

 胸の中にむかつきがある。何かの拍子に吐いてしまうかもしれない。

「お、起きた?」

 カーテンが開いて、保健室の先生が顔を出した。

「聞いたよ。寝不足だって? 駄目じゃない。そんなぶっ倒れるまで夜更かししちゃあ」

 きっと睨まれると、寝不足は方便だと言い訳も出来ない。すみません、と小さく答える。

「……ま、今日はもう帰ったほうがいいよ。起きられる?」

「あ、はい」

「一人で帰れそう?」

「大丈夫です」

「そう。担任の先生には私から言っておくから」

 頷いて、煌津はベッドを出た。

 広い保健室には煌津と先生のほかは誰もいないようだ。薬品の匂いが心地良かった。

「すごい顔してるよ。ホントに大丈夫?」

「え、あ、はい。平気です。家も近いですし」

「そう? 何だか寝不足って言うより……」

 一瞬、先生の目がこちらを探るように見えたのは気のせいだろうか。

「幽霊でも見たって顔してる」

「え……?」

「いやあ、保健室来る子の中にはいるんだよ。幽霊見たせいで気持ち悪くなったって子がさ。この学校は特に多いね。君もそう?」

「いや、あの、俺は……」

「そういえば、あんまり見ない顔だけど、もしかしてこの間入ってきた転校生君? 私は保健の柳田やなぎだだよ。よろしくね」

「あ……よろしくお願いします」

「うん。よろしくね。十代は色々見えてしまう時期だけど、仮に君が何か妙な物を見たって言っても私は信じるよ。見えない人も見える人もいるからね」

 柳田先生の喋りは、何というか結構量が多い。しかし、最後のほうはちょっと妙な話しぶりだ。

「もしかして、先生も見えるんです? その、幽霊」

「私? あーいやいや私は見えない。見た事もないし、見たいとも思わない。ホラー苦手だもの」

「あ……俺も、です」

「あははは。じゃあ幽霊なんか見ちゃったら大変だ。倒れるくらいじゃすまないね」

「はははは……」

 何と言っていいやら、煌津は合わせて笑った。

「でも、これは以前保健室に来た子が言っていたんだけど」

 何でもないような口調で、柳田先生は言った。

「心霊現象ってのは、実際問題、身近なものなんだって」

「え」

 それまでの不調など、一瞬忘れてしまった。

「それ、あの、九宇時……」

 言葉が詰まってしまう。少し、動揺している。

「九宇時那岐……」

 その名前を口にした瞬間、先生の表情が変わった。

 穏やかだが、少し悲し気な顔に。

「……君は九宇時君の友達?」

「はい。中学の頃からの」

「そう。そういえば、彼も高校の途中でこっちに戻ってきたって言っていたな」

 柳田先生は眼鏡の奥の目をちょっとだけ細めた。

「彼の事は聞いているでしょ」

「はい」

「あんまり関わったわけじゃないんだけど、彼は保健室にもよく来ていたよ。あんな事になって、本当に悲しい」

「……はい」

 そう。

 本当に、とても悲しい。

「もう、九宇時君のご実家には行かれたの?」

「いえ。でも、そろそろ訪ねようと思っているんです」

「そう。じゃあ、元気になったら行ってあげるといいよ。友達が訪ねてくれば彼も嬉しいだろうし」

「はい……」

 そうだ。行かなければ。

 もう。ずっと会えていないのだから。

「学生時代の友人はずっと友人だって言うけれど、私は本当にそうだと思うよ。たとえ、何があったとしてもね」

 保健室の柳田先生は、そう言って少し寂し気に微笑んだ。

「……そういえば、先生。誰が俺を保健室に連れてきてくれたんですか」

 ふと、ここに来るまでの状況を思い出して、煌津は訊いた。自分で歩いてきたとは思えない。

「うーん? ほら、あの子だよ。あの……君と同じ学年の……」

 何故だか、柳田先生は自分でもよくわからないといったふうに顔をしかめた。

「ほら、あの子。あの……あれ、何でだろ思い出せない。ヤバいな……。とにかく君と同じ学年の子なんだけど」

 保健室を出る前に何とか、先生は思い出そうとしていたが、結局、煌津を運んだのが誰かはわからなかった。


 保健室は、下駄箱がある校舎の玄関口の真下にある。腕時計を見ると十四時だった。ちょっと寝過ぎた。

 期せずして、九宇時の足跡をたどったようだ。これも縁だろうか。

 ――教室に戻らないと。今日は、九宇時の家に行くのは無理だ。体調を治して、明日にでも。

「先輩……先輩!」

 知らない女子の声が聞こえて、煌津は足を止める。この声は幽霊じゃない。あくまでもそういう感じというだけだが、わかる。

「先輩、こっちです!」

 先輩って……誰だ。こちらは転校生だ。先輩も後輩も持ちようがない。

「先輩!」

「おわっ!?」

 ぐいっと腕を掴まれると、強めの力で煌津は引っ張られた。

 当たり前だが、知らない女子生徒だった。栗毛色のポニーテールが揺れる。

「こっちです! 早く隠れて!」

 言うが早いか、女子生徒は図書館前の草むらの影に、煌津を連れ込んだ。

「え、え、何、誰?」

「あそこはぼーっと突っ立ってちゃヤバいんですよ。この時間は出るんだから」

「出るって……」

「しっ」

 可愛いらしい顔に、きっとした目で睨まれて、煌津は思わず怯んだ。

「あっあっああっああ――――――――――!?」

 大きな叫び声が聞こえ、何か、とてても重たそうな物が、どさっと地面に叩きつけられた。

 紺色の背広を着た男が、地面に横たわっていた。

 落下してきたのだ。たぶん、上から。

「あれって……」

 煌津が言いかけたその時、ぶるりと男の体が震え、何事もなかったかのように、男は上体を起こした。

「あれ? おっかしいなあ。死んだと思ったんだけどなあ」

 独り言をぶつぶつ言いながら、男は校舎の壁に手をかけると、まるで昆虫のようにがさがさと不気味な速度で壁をよじ登った。

 そしてまた……

「あっあっああっああ――――――――――!?」

 どさっ。

 背広の男は地面の上に落ちて来た。

「あれ? おっかしいなあ。死んだと思ったんだけどなあ」

 さっきと同じタイミング、同じ文言を繰り返して、男は再び壁をよじ登った。

「毎月十日のこの時間だけ出て来るんです。飛び降りを繰り返すサラリーマンの幽霊が」

 ポニーテールの女子生徒が言った。視線は、背広の男を追っているようだ。

 つまり、この子も。

「先輩も見えているんですね。あれ」

「うん……」

「あいつは結構見える人多いですよ。授業サボってこの辺うろついていたら、ほぼほぼ出くわしちゃうから」

「君はサボり?」

「先生休みで自習なんで、興味のある事しようと思って」

「興味?」

「オカルト」

 前髪をかき上げて、得意げに女子生徒は笑う。

「一年の静星しずほし乙羽おとはです。先輩こそ、サボりじゃないです?」

「サボりじゃないよ、体調不良。って、ああ、ごめん。俺は二年の穂結煌津。……いや待って、あの幽霊は?」

 見れば、背広の男の幽霊は起き上がって壁をよじ登るところだった。

「あれ、何度見ても不気味」

 静星が嫌そうに呟いた。

「放っておいていいの?」

「わたしらには何にも出来ませんよ。だいたい十分もすれば消えちゃうんです」

「そうなんだ……」

 背広の男は何度も登っては落ちるを繰り返す。飛び降り。自分の意思で。

「可哀想って思います?」

 静星が大きな瞳でこちらを見上げる。

「いや……可哀想っていうか、痛くないのかなって……」

「もう。先輩、幽霊なんかに同情しちゃ駄目ですよ? そういうのつけ込まれるから」

 確かに、そうかもしれない。幽霊は、その存在を意識してしまうと、それを感じ取って近付いてくる。身をもって知った事だ。

「悪党と同じなんです。同情を引いて人間を騙そうとする。まあ、あの幽霊は落ち続けているだけだけど」

「何か、幽霊に恨みでもある感じだね……」

「あー……昔、可哀想な幽霊だと思ってついて行ったら、ひどい目に遭いまして」

「えぇ……。何そのエピソード……」

「あいつ、呪いのビデオをくれるって言ったのに、くれなかったんですよ? ひどくないです?」

「えぇ……。何そのエピソード……」

「欲しかったなあ。呪いのビデオ」

「……昔、そんなのないって聞いたよ。友達から」

「えー。夢ねーなー、先輩の友達」

「いや、夢っていうか……」

 相変わらず落下する背広の男を見ながら、静星はため息をついた。

「この街には、ああいうの多いから。……退魔屋さんがいればいいんだけど」

「たい……何?」

「退魔屋。魔を退けるって書いて退魔屋。槍を持った魔女とか、宝剣を持ったお坊さんとかの噂、知りません?」

「そういうのは、知らないけど……」

 いや、違う。煌津は知っている。ただし、あいつは槍も宝剣も持っていなかった――

「退魔屋さんは、ちょっと前まではこの街にもいたんですよ。……とんでもない悪霊が出てきて、やられちゃったらしいんですけどね」

「悪霊……?」

「ええ。ハサミ女みたいな奴」

 また知らない言葉だ。

「ごめん。ハサミ女って何?」

「え? 知らないです? ハサミ女」

「うん」

「え、宮瑠璃市住んでてハサミ女知らないはないでしょ……。先輩、引っ越して来ました?」

「うん。ついこの間だけど」

「あー……それなら――」

 ―――――ゴト。

 硬い音が、近くで聞こえた。

 背広の男が、落ちた音ではなかった。聞き覚えがある。

 いや、ついさっき聞いたばかりだ。

 固い物。人間の頭くらい、重くて硬い物が置かれたような、そんな音。

「先輩、何か黒いの出てますけど……」

 静星が、どことなく怯えたような口調で言う。煌津は自分の手を見た。

 黒い靄のようなものが、袖の内側から立ち上っている。

「助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて」

「……っ」

 声が聞こえる。すぐ近くで、あの声が。

「先輩、あれ……」

 静星が目を向けている方向へ、煌津は振り返った。

 ずり、ずり、ずり、ずり。

 いた。

 ちょうど、背広の男が落下してくる辺りに、あの捩じれた女がいた。手だけで、何とかこっちに這い寄ろうとしている。

「そんな。だって、さっき……」

「ね、先輩。あれ、ヤバい奴ですよね……。わたし、その、凄い悪霊は見てみたかったけど、逃げないとまずくないです?」

 言いながらも、静星は体が動かないようだった。煌津も同じだ。金縛りにでもあったかのように、体中が硬直して動かない。

「先輩っ!」

「無理。静星さんだけでも……」

 捩じれた女の唇が微かに動き続ける。

「助けて助けて助けて助けて助けて助けて――」

 ヒュッ――――

 異様な目つきでこちらを見つめる捩じれた女の上に、黒い影がかかったかと思いきや、背広の男の胴体が落下した。

 ぐちゃぐちゃっ! という気味の悪い音。静星が咄嗟に目を背けた。

 煌津は見ていた。二つの幽霊がぶつかった瞬間、どちらも黒い液体のように広がって、地面に闇が広がっていた。

 視界が歪曲する。

 禍々しいエネルギーを感じる。目がおかしい。いや、おかしいのは気配だろうか。その場の空気が一変していた。空の色は赤に青に緑にと絶え間なく変化し、聞こえて来る音には常時雑音が混じる。煌津と静星と幽霊たちだけが、どこかで世界と切り離されてしまったかのような感覚。

異層いそう転移てんいだ……」

 周りの異常に気が付いた静星が呟いた。

「え……?」

「異層転移ですよ。オカルト雑誌に載っている奴。霊的なエネルギーが負の方向に転換されると、エネルギーが及ぶ範囲で生物が存在する層がずれるんです」

「ごめん、何言っているのか全然わからない」

「だから――」

 静星がじれったそうに叫んだ、その時だ。

 黒い、地面に出来た闇の裂け目とでもいうべき穴の中から、白い一本の腕が飛び出して、まるで掴まろうとするかのように地面に指を立てた。

「ひっ」

 静星が息を呑む。が、怯んでいる暇はなかった。裂け目の中から次々と白い腕が飛び出して、地面に掴まる。

 そして、前兆もなく、真っ白な肌の、巨大な男の眼から上だけの顔が、裂け目の中から飛び出した。

「あれ? おっかしいなあ……」

 ぎょろぎょろと目玉を動かしながら、男が言い、

 そうして、目玉が煌津たちのほうへ向いた。

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

「ぎゃあああああああああ!?」

 静星は、喉が裂けんばかりの声を張り上げた。がっと煌津の腕を掴むと、信じられないほどの勢いで駆け出す。

「うおっ!」

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

「何でデカくなってんの!?」

 無数に生えた白い腕が足のように地面を這って、巨大な顔が追ってくる。空の色は目まぐるしく変わっていく。まだ明かりがついているはずの校舎の窓は一様に暗い。

「どうなっているんだ……」

「先輩、急いで!」

 向こうに見えているはずの校舎までは三十メートルとないはずなのに、走っても走っても一向にたどり着かない。どころか、地面は波打って坂のようになり足がもつれる。よじ登ろうにも足元がおぼつかない。

「嘘、何これ!?」

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

 巨大な顔は、すぐそこまで迫っている。このまま走っていても追いつかれるのは目に見えている。何とか、何とかしなければ。

 ――吐菩加美依身多女。

「あ……」

 唱えないよりは唱えたほうが――

 坂を滑り降り、煌津は震える体を抑えながら、迫ってくる巨大な顔を見据えた。

「ちょっと先輩! 何やってるんですか!」

「静星さんは逃げて!」

 言って、煌津は定期入れをポケットから取り出し、中を開いて確認する。

『吐菩加美依身多女』

吐菩加美依とほかみえ多女ため……」

 書かれた文字を唱えると、定期入れが仄かに桜色の光を帯びる。

「祓い給い、清め給え!」

 カードでも投げつけるように、煌津は勢いをつけて定期入れを投擲する。桜色の光を帯びたまま、くるくると回転する定期入れは巨大な顔の男の瞼に鋭く突き刺さった。

「ぎぃやあああああああああ」

 今度は巨大な顔のほうが悲鳴を上げる番だった。

「今のうちだ!」

 振り返り、煌津は叫ぶ。頷いた静星が、坂を上ろうとしたその時だった。

 空が、鼓動を打っていた。青や緑に変化していた空は、血のように真っ赤に染まっていく。空間にノイズが走る。

 波打った坂から柱のようなものが捩じれ上がってくる。

「あ、あ、あ……」

 静星が尻もちをついた。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 捩じれた柱は、あの捩じれた女だった。何人も出てくる捩じれた女の分身。坂の上を滑るようにして、こちらに迫ってくる。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 女の手が、静星の足を掴む。

「いや、嫌ぁあああっ!」

「静星さん!」

 静星の肩を掴み、体を引っ張り出すようにして捩じれた女の手を振り払う。

 だが……

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

 真っ白い肌から赤い血を流し、怒りの形相で巨大な顔がこちらを睨んでいた。

 じりじりと、白い腕の群れが這い、巨大な顔が近付いて来る。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

「何で見ている人がいるのかなああああああああ」

「嫌、嫌ぁっ!」

 静星の足に、再び捩じれた女の手が近付いた。

 ――ダン、ダン、ダン!

 響き渡ったのは、炸裂音だ。地面から生えていた捩じれた女たちが弾け飛んでいく。

「今のは……」

 ――りぃん。

 鈴の音がして、人影が煌津たちの前に舞い降りた。

 濃紺のブレザーに、スカート。肩にかけたバッグ。この学校の生徒だ。それに、白いに近い銀色の髪。

「ごめん、遅くなった」

 今朝の女子生徒だった。定期入れに『吐菩加美依身多女』を書いたのであろう、あの子。

「君は……」

 言いかけて、煌津は彼女が右手に持っているものに気が付いた。詳しくはないが、見た事はある。西部劇でガンマンが持っているような……

「拳銃……?」

 リボルバーだった。

 女子生徒は煌津の言葉は意に介さず、肩のバッグから何かを取り出した。

 それは大振りなベルトだった。小さなポーチがいくつも付いた、大きな留め具のあるベルト。バッグを脇に放ると、女子生徒は手慣れた仕草で、そのベルトを腰に巻き付ける。まるで自動でそうなったかのように、留め具がガチっと嵌め込まれた。

 彼女の手の中で、リボルバーがくるくると回る。

「退魔屋チェンジ」

 銃把を掴んで、彼女は言った。呪文のように。

 ――呪詛の海を割って、桜色の光が漏れる――

 彼女が着ていた濃紺の制服が桜の花びらのように弾ける。眼前を覆うほどの桜吹雪が万華鏡の如く踊る。いつの間にか、彼女は装束を纏っていた。純白の白衣に、鮮やかな緋袴。その腰回りに無骨な大振りのベルトが巻き付けられている。そして銀髪が、桜色に染まっていく。

「退魔屋……」

 静星が呟いた。

「拳銃使いの巫女……」

 巫女に変身した彼女は、軽やかに跳んだ。ダン! リボルバーが火を噴き、巨大な顔が血を流す。

「ああああああああ!」

 巨大な顔の悲鳴に構わず、さらに銃声が二度轟く。手慣れた仕草で、巫女は弾倉をスライドさせ、空薬莢を排出すると、素早くポーチからリボルバーのスピードローダーを取り出して、銃弾を装填する。

「……《落ちる》? 祓ったはずなのに、何故混合型に――」

 巫女が訝し気に何事か呟き、スピードローダーを投げ捨てる。そこへ無数の白い腕が奇怪な動作で伸びて来た。ぐねぐねと蠢く気味の悪い腕が巫女を掴もうとするが、白衣の振袖がひらりと舞うや、巫女はすでに空中に跳んでいた。

「フジバカマノヒメ、ハゼランノヒメ」

 巫女の手から二枚のお札がはらりと落ちる。鈴の音が鳴り、お札が桜色の光を帯びたかと思いきや、まるで竜宮城の使いのようなたおやかな着物を纏った、二人の姫に変ずる。姫は二人とも弓を持っていた。空中の姫が、どこからともなく取り出した矢を弓につがえるや、雨のごとき高速矢の連射が、巨大な顔に降り注ぐ。

「ああああああああ!」

 白い腕の群れが矢によって地面と結び付けられ、巨顔が悲鳴を迸らせる。

「すご……」

 巫女が、踊るように四方を行ったり来たり跳ぶ。煌津は、巨大な顔の根元に何かがある事に気が付いた。御幣ごへいだ。神事で用いる紙垂を挟んだ神具。それが巨大な顔を四角く囲うように設置されている。

 巫女が、巨大な顔の正面に立った。その両脇に、二人の姫が着地する。巨顔の呻き声が響く。リボルバーの銃口が、巨顔に向けられる。

「掛けまくも畏き伊邪那岐、伊邪那美大神の大前に畏み畏みも白さく、諸の罪、穢れ、禍事に囚われ、我留羅と成りし魂魄を憐れみ給い、慈しみ給い、導き給え。セイ、ジン、チ、ジャ、タイ、ウン、メイ――」

 ……この呪文は。

「ぐるりぐるりと」

 巫女が引き金を絞り、リボルバーの弾倉がぐるりと回る。炸裂音とともに放たれた銃弾が桜色の軌跡を描いて巨顔の額に着弾する。

 一瞬の沈黙。

 次の瞬間、洪水のような爆音とともに桜色の光柱が天に向かって湧き立った。吹き飛ばされそうな衝撃。煌津は咄嗟に静星を庇うが、巫女は微動だにしなかった。

 光柱が消え、爆音の耳鳴りが止むと、そこにはもう巨大な顔はなかった。波打っていた地面も元通りになり、背後の坂ももはや存在しない。

「倒した……?」

 静星が呆気に取られたように言った。

「まだ動かないでね。異層転移が収まるまではしばらくかかるから」

 鈴が鳴っているような声で、巫女は言った。

「異層転移……マジで退魔屋さんも異層転移って言うんだ。すげー。ねえ、今のあいつ、あれで祓い終わったんですか?」

「この場からは消したよ。あとは調べてみないと……」

 言いながら、巫女は巨大な顔があった辺りへつかつかと歩いて行くと、四つの御幣と、地面に落ちていたものを拾った。

 煌津の定期入れだ。

「また会ったね。穂結煌津君」

 桜色の髪をした巫女が言った。

「君は……」

 桜色の光を仄かに放つ目が、煌津を見据える。

「聞いていた通りだね。昔は見えてなかったってわりには、強い霊媒体質」

「は?」

 聞いていた?

「……誰から、何を」

「義理の兄から。君の事を」

「義理の……兄?」

「九宇時」

 その声が神託のように感じたのは、彼女が巫女だからだろうか。

「九宇時那岐」

 自分が、その瞬間どんな顔をしていたか、煌津にはわからない。

 いつの事を思い出しただろう。仲間とともに遊んだ時のものか。二人で帰って抱えた不安を吐き出し合った時か。

 彼の事を思い出すのは。

「私は、九宇時那美」

 巫女は言った。

義兄にいさんが、君の事をよく話していたよ。まさか、宮瑠璃市で会うとは思っていなかったけど」

 九宇時那美。

 那岐の、妹……?

「九宇時に妹なんて聞いた事がない。一人っ子だって……」

「血は繋がっていないよ。今言った通り、義兄妹きょうだいだから」

 表情一つ変えずに巫女は言う。

「今朝の事といい、よっぽど惹き付ける体質らしいね。君は」

「今朝……? あの駅前の?」

「いえ、行きの電車から。あの足だけの男」

 ――朝、腹を蹴り飛ばされた痛みがにわかに蘇る。

「あいつは《キック》って呼ばれていた。タチの悪い奴でね。電車の中にしか出ないのはわかっていたんだけど、逃げ足が速いうえに隠れるのもうまい。何せ足しか見えないから。でも、今日は穂結君を襲ったあとを式に追わせたから、首尾よく祓えたよ」

「何だか囮に使われたみたいだな……」

 腹をさすりながら苦い顔をすると、巫女は困ったような顔をした。

「蹴られる前に助けられなかったのは悪かったよ。まさか穂結君のほうが先に察知するとは思わなかったし」

 ぐいっと横から体を乗り出してきたのは静星だ。

「先輩、朝から悪霊見たんですか。すげー。本物の霊媒体質じゃないですか」

「嬉しくないって」

「えー何で。向こうから心霊現象が寄ってくるの楽しいじゃないですか」

「静星さん、懲りてないだろ……」

「雑談はその辺にしておいてくれる?」

 巫女がくるくるとリボルバーを回して、掌で受け止める。

「悪いけど、この場で見た事は二人とも忘れてもらうよ。私の正体を言いふらされるわけにはいかないからね。怖い思いなら、今日ここで終わらせてあげる」

 巫女の言葉に、フジバカマノヒメと、ハゼランノヒメが同時に矢をこちらに向ける。

「え、ちょっ……」

「心配しなくていいよ。訓練していない人間が異層にいる間の記憶って曖昧だから。この矢の一発で今の出来事も夢になる。あんな恐ろしい目にあった事、忘れたほうがいいよ」

「いやいやいやいや。勝手に人の記憶消そうとしないでよ!」

「悪霊に関わった記憶は、また別の悪霊を引き寄せてしまう。消せるのなら、消すのが掟。穂結煌津君、君にはわかるでしょ」

 忘れもしない。

 初めて出会ったあの悪霊。九宇時と一緒に出会った、恐ろしい記憶。

 あの出来事がなければ。あるいは、今朝の事だって、今しがたの事だって出くわさなかったかもしれないのだ。

「……記憶を消したところで、寄せるものは寄せてしまうだろ」

「それはそう。でも忘れてしまえば囚われる事もない。嫌な記憶が一つ減れば、むざむざ思い出して苦しむ事もないでしょう」

「そうかもしれないけど……」

 脳裏に違和感が走る。仮面のような二人の姫の顔。

「その矢さ、どこまでの記憶を消すの?」

 巫女の目はあくまでも冷たかった。

「悪霊に関わった記憶、全てだよ。あの頃、何考えていたんだか知らないけど、義兄さんが仕損じたのなら、私があらためて決着をつけてやる」

 ぎりっと、二人の姫が弦を引く手に力が籠る。

「そんな事したら、九宇時の事も――」

 巫女の目つきが、一気にきつくなった。

「なければいい。義兄さんとの記憶なんて。義兄さんは逃げ出したんだ。戦う力があったのに、勝手に一人で諦めて。そんな人の事なんて忘れたらいい」

「そんな言い方、やめろ!」

 瞬発的に、煌津は怒鳴った。

「事故だって話だろ!」

「いいえ。あれは――」

 ――助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて――

 耳元で囁く声。

 皮膚が撫でられているかのような怖気おぞけ

「え?」

 捩じれた女の顔が、煌津の真横にあった。

「うわっ――!?」

「先輩っ!?」

 次の瞬間、幾本も伸びて来た真っ白い腕に全身を掴まれて、煌津は後方へと引き摺り込まれる。

「穂結君!」

 二人の姫が矢を放つ。九宇時那美がリボルバーを構える。引き金を絞る。

 銃声が聞こえるか否かのその瞬間、煌津の体は闇の中に引き込まれた。


『消そうと思えば消せるけどね。今の俺でも』

 あの時の、あいつの顔を思い出す。まるで何でもない事のように言う、あいつの顔を。

『消したほうがいいかい。穂結さん』

「――っ!?」

 まるでその瞬間まで息が止まっていたかのように、起き上がると同時に煌津は不格好に息を喫った。

 煌津が寝転んでいたのは、草むらだった。さながら青黒い絵具を塗りたくったかのような、草にしては奇妙な色だったが、間違いなく草むらだ。

 周囲は真っ暗な森の中だ。振り返れば、後ろは鬱蒼と木々が生い茂っていて不気味だ。

 かたや、前方には青い空が見える。夏の一日のような白い雲も。太陽の光が見える。

 煌津は立ち上がり、光のほうへと進んだ。

 さざ波の音が聞こえる。

 森を抜けてすぐのところは崖になっていた。

 右手には、どういう構造になっているのか、崖から生えたように、暗い一軒家が建っている。

 あとは、海だ。濃い、濃紺の海。

 水平線の向こうには、雲のような、巨人のような、白く大きな何かが立っている。いや、まるでこちらに向かって来ているかのような、そんなポーズ。

 波の音が聞こえる。

「……どこ、ここ」

 煌津は知らない世界にいた。


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