第一章 カンナギ・ガンスリンガー 2


      2

 

 宮瑠璃市立宮瑠璃ひがし高校は、小高い丘の上にある。そこの2‐C教室が、煌津のクラスだ。建物は古く、九十年代の半ばに建てられたのだという。教科書やノートや提出物でさえも、タブレット一つで済むご時世だが、以前からこの学校にいる先生の中には、未だに黒板を利用する人もいる。


    相遇因縁得立身

    花開不競百花春

    薔薇汝是應妖鬼

    適有看來惱殺人


 古典の教科書に表示された、一見物騒な字面の漢詩を眺める。菅家かんけぶんそうという本に収められている『殿前の薔薇をむ、一絶』という漢詩だった。

「殺人だって」

「怖ぁっ」

 隣の席でひそひそと話す声が聞こえる。転校して一週間が経過しているが、煌津は特定の誰かと話してはいなかった。休み時間は教室にはあまりいないようにしていたし、帰りはいつも早い。人と話すより勉強に集中しているほうが楽だ。こうして人を遠ざける雰囲気を作っていたおかげで、煌津に進んで話しかけて来るクラスメイトは一人もいない。

「えー、菅家文草という名前から想像がつくかもしれませんが、作者は菅原道真です。皆さんご存知の通り、宮瑠璃という名前の名付け親と言われており、天神様、有名な学問の神様であり、怨霊としても知られていますね」

「やっぱ怖いじゃん」

 クラスのうちの何人かが笑う。古典の先生は気にも留めていない。まるで書き慣れているかのように、黒板にスラスラと漢詩を書いていく。

「えー、因縁に相遭いて、身を立つること得たり。花開くも、百花の春に競はず……」

「先生、タブレットに書いて送ってよ。黒板じゃ画面に残らないじゃん」

「授業の録画を見てください。これは残しておきますから、あとで、カメラで撮ってもいいですよ」

 あくまでもペースを崩さずに、先生は授業を続けていく。煌津はタブレットの画面に黒板の文字を機械的に写した。あまり集中出来ていない。頭の中は、学校に来る途中からずっと、別の事を考えている。

 チャイムが鳴る。先生がチョークを置いた。あっ、と声にならない声で呟く。最後のほう、解説を全然聞いていなかった。

「えー、次回は小テストを行いますので、これまでの授業の復習をしておいてください。それでは日直の人」

「はい。起立」

 煌津は慌てて号令する。礼。ありがとうございました。

 転校もそこそこに、もう日直だ。画面を上書き保存して、タブレットにペンタブを戻す。

「穂結君、理科準備室の場所わかった?」

 隣の男子生徒が声をかけてきた。彼はもう一人の日直だった。

「あぁ、大丈夫だったよ。鍵は開けて先生に返しておいたから」

「オッケー、ありがとう~」

 次の授業は化学だ。準備をしないといけないが、気になる事が頭を離れない。

 ――今朝の女子生徒。

 一限目が終わった後から、煌津は合間の休み時間を利用して、それとなく彼女の姿を探した。何せ銀髪の子だ。目立つはずだと踏んで、他のクラスを覗いてみるが、それらしい子はいなかった。考えてみれば同級生かどうかもわからないのだから、見つからなくても仕方ないかもしれない。

『吐菩加美依身多女』

 定期入れを取り出して、内側に書かれた文字を眺める。

(あの子が書いたのか?)

 一字一字漢字変換して、スマホで検索してみる。出典の怪しそうなサイトが表示される。


〈三種祓詞〉

 三種祓詞(みくさのはらえことば)「吐菩加美依身多女 祓い給え 清め給え」は、神道に伝わる穢れを祓う言葉です。

読み方は「トホカミエミタメ ハライタマエ キヨメタマエ」と読み、これを唱える事で、自分の穢れや、外からやって来る穢れを祓うのです。


「神道……」

 トホカミエミタメなら何となく覚えがある。こういう漢字を書くとは知らなかったが、ちょっとマニアックなオカルト系の漫画で言葉自体は知っていたのだ。

 銀髪で、他人の定期入れの内側に、マジックで神道の言葉を書く女子。

(絶対目立つでしょ)

 そう考えた後、今朝の事を思い返す。

 あの時、駅前で囚われた不思議な、暗い感情に飲み込まれている感覚。彼女が現れなかったら、自分はどうなっていただろうか。自分の中で、『何かをやってしまっていい』、『たがを外してしまっていい』という感覚が大きくなっていた。

 あれはつまり、『穢れ』ではなかったのか。ウイルスのように飛来して、内側で勢力を増していく『穢れ』。そしてもし、あの異様な感覚を、彼女が定期入れに書いたこの言葉が祓ったのだとしたら。

 普通の人なら鼻で笑うだろうが、煌津には、この発想を確信するに至る過去の体験がある。

(見つけないと)

 とりあえず、すぐに次の授業だ。そのあと昼休みになる。そこでもう一度探しに行こう。

「てか、あたしさあ。見ちゃったんだよねえ、朝の」

「え……まじで?」

 クラスの後方で声がした。どこか得意げな声が。

「ヤバぁ。オカ研じゃーん」

「いや別にオカ研じゃねーし。違うの。朝練で早かったからさあ、警察が来た直後くらいだったのかなー。ビニール? みたいなのかける時に……」

 ――呪。

 黒い霧のような闇が、煌津の周囲に立ち込め始めている。

 悪い予感がする。

 絶対にいる。この教室の中に――……

「首がさあ、雑巾みたいに捩じれた――」

 呪。呪。呪。

「女の人の顔と目が――」

 ―――――ゴト。

 何か固い物が、煌津の机に置かれた。

 目をやるな、目をやるな。そちらに目をやってはいけない。

「ねえ」

 声がした。見ない。見ない。見ない。絶対見ない。

「ねえ」

 さっきより語調が強くなる。目を固くぎゅっと閉じる。絶対見ない。絶対。絶対。

「ねえ」

 反応してはいけないと脳が指示するより早く、煌津の両の瞼が、人の指のようなもので、無理矢理開かされた。

「何で助けてくれなかったの?」

 首の捩じれた女の顔が、虚無とも怒りともつかない目をぎりぎりまで近付けて言った。

「うわぁっ!?」

 反射的に飛び退いたせいで、煌津が座っていた席が大きな音を立てて倒れる。どっと汗が噴き出る。だが、もう机の上に女の顔はなかった。

「はっ、はっ、はっ……」

「ど、ど、どうした、穂結君……」

 さっきまで喋っていた女子の声がした。

 周りを見ると、皆一様にこっちを見ている。

「……あ、いや。ごめんその、寝不足で……」

「え、え、そんな、ちゃんと寝な~?」

「う、うん。そうね。保健室行ってくる……」

 頭が重い。定期入れとスマホをポケットに仕舞い、煌津は教室を出る。魔除けの塩は上着のポケットの中だ。

「うん、だって」「ベイビーかよ」という声が聞こえたが、構っていられなかった。  眩暈がする。

 考えてみれば、今日は朝から『出会っている』し、事件現場にも近付いてしまった。ああいうものを、寄せ付けやすくなっているのだろう。

「悪霊……」

 あの首が捩じれた女は、そうなのか。目を付けられてしまったのかもしれない。初めて悪霊に出会った時には九宇時がいた。だが、今はもう……。

「無理。学校出なきゃ……」

 このままでは誰を巻き込むかわからない。保健室で休むのも無理だろう。廊下の壁をつたうように歩き始めて、一歩、二歩と歩いたところで煌津はよろめく。

「ちょっと、穂結君。大丈夫~」

 さっき声をかけてきた女子たちが近くまでやってきた。

「え、あ、うん。大丈夫、大丈夫……」

言いながら、ひどく気分が悪くなっていくのを煌津は感じた。吐きそうな気さえする。

「いや駄目でしょ。顔めっちゃ青いよ」

「ちょっと高橋~。穂結君、保健室まで連れてってやんなよ~」

 もう一人の女子が、教室にいる男子生徒を呼ぶ。

「え、何、穂結そんなヤバいの?」

「いや! ホント、ホントに大丈夫だから……」

 万が一にも、ほかの人間を巻き込むわけにはいかない。悪霊は煌津を追っているはずだ。だから、たぶん、すぐにでも……でも、足元がおぼつかない。

「ほら、穂結君。しっかりしなよ――」

 女子生徒が煌津に手を貸そうとする。

 その左肩から千々乱れた黒髪が現れる。汚らしい黒髪は虫のように彼女の顔を這いずるが、女子生徒はそれに気付く様子はない。

「うん? どしたー穂結」

 心配そうな声を出す女子生徒の顔の真横から、首の捩じれた女が煌津を睥睨していた。

「――――」

 声を出すな、と必死に自分に言い聞かせる。今、大声を出してパニックにさせるのはごめんだ。

「穂結くーん?」

 女子生徒の声がする。すでに黒髪が彼女の顔を覆っているが、まだ彼女は気付いていない。いや、見えていないのだ。

「……オーケー、大丈夫。だいぶ、大丈夫」

 煌津は左手を挙げた。それとなく、首の捩じれた女のほうに近付ける。

「ちょ、何……?」

「肩にゴミついているよ」

「えぇ?」

 言いながら、女子生徒は自分の左肩を手で払う。すると、首の捩じれた女の髪が、ずるずると彼女の顔から離れ、代わり煌津の左手へと絡み付いてきた。

 かつて九宇時が教えてくれた事だ。肩を払うのは簡単な魔除け。ただし本来は他人に払ってもらうのが正解だが、今回の場合、目的は達した。

「大丈夫。取れたよ」

 悪霊は、今や煌津の左肩に掴まり、不穏な重みを感じさせていた。

「保健室、行ってくるね」

「う、うん。一人で大丈夫?」

「大丈夫。ありがとう~」

 なるべく不自然にならないように、しかし出来る限り速足で、煌津は踵を返す。耳元では、悪霊がずっと囁き続けている。このまま聞いていれば気が狂う。穢れに、取り込まれる。

(急げ。急げ。急げ。急げ)

 廊下を進む。階段を下りる。二階から一階へ。呪呪呪。頭がおかしくならないうちに!

 一階へ下りた。そのまま突き当りまで進む。古い木製の引き戸が見える。呪。鍵は開いている。さっき煌津が開けたのだ。理科準備室。呪。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 耳元の囁きを無視して、理科準備室に飛び込む。ほかの誰かが入ってこないように、即座にその辺りにあった椅子を置いて、引き戸が開かないようにする。

「うぅぅうっ!」

 耐え切れなくなって、床に転がる。重い。何十人にものしかかられているかのように、強烈に重い。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 呪呪呪呪呪呪。穢れが頭の中に侵入してこようとする。匍匐前進のように進んで逃れようとするが、左半身はもうほとんど自由が利かない。右半身も怪しいものだ。力を振り絞って右腕を動かし、上着のポケットからビニール袋を取り出す。開け口側をくわえて、引っ張る。ビニール袋の口が開く。

 ぶわっとこぼれた塩を、煌津は必死に左半身の悪霊にむかって振りかけた。

「ぎぃやあああああああ」

 悪霊が絶叫を上げた。左半身がふっと軽くなる。急いで悪霊から離れる。悪霊を退散させる方法は知らないが、とにかく今は持っている手段を試すしかない。スマホであの動画を検索すれば――

「うっ、うわっ!?」

 右足首が強い力で掴まれ、煌津の体は再び倒された。拍子に、スマホが床を滑って転がっていく。

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 囁きが脳に染み込んでくる。頭が割れる。こんなのを聞いていたら。全身が、重い。床に押さえつけられながらスマホを探す。あった。窓の下だ。そう遠くではないが、手が届くかどうか……!

「何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?何で助けてくれなかったの?」

 スマホに手を伸ばす。もう少し、もう少しで届きそうだ……。

 スマホに伸ばした右手が血の通っていない灰褐色の手に掴まれる。呪呪呪呪呪呪呪。体温が下がる。思考が深い闇に堕ちていく。穢れ。魂も身体も穢される。

ガタガタと、音が聞こえる。誰かが理科準備室の引き戸を開けようとしているのか……。駄目だ。もし入ってきてしまったら、その人も悪霊に……。

 ――――りぃん。りぃん。りぃん。

 鈴の音が聞こえる。準備室中に響いている。清らかな、鈴の音。

「あああああぁああがあああ」

 悪霊が絶叫を上げる。鈴の音が響き続ける。ふっと体が軽くなった。悪霊が煌津から離れたのだ。

「今だ!」

 床に転がったスマホを掴み、ロックを解除。ネットにはつながっている。検索エンジンを立ち上げ、マイクボタンを押す。

「般若心経!」

 検索結果に表示された動画を最大ボリュームにして再生する。

『まかーはらみたーはんにゃーしんぎょー』

 どこかのお寺で撮影された般若心経の読経動画が爆音で流れ出す。黒髪を振り乱し、悪霊がのたうち回る。

「何で何で何で何で何で何で何で何で何でぇえええええ」

『しゃーりーしーぜーしょーほうくうそー』

 ――――りぃん。りぃん。りぃん。

 悪霊の絶叫が木霊する。理科準備室の棚が、窓が、器具が震えている。

「ぎゃあああああああ!」

 雄叫びを残して、部屋中の震えが止まる。同時に鈴の音も止んでいた。

「はあ、はあ、倒した……」

 体中が異様に重い。呼吸も整わない。汗もそこかしこから噴き出している。だが、何とか歩けそうだ。重たい体を引き摺りながら、戸のところまで行き、椅子をどかす。

「ほ、保健室に……」

 休まなければ。歩くのもきつい。戸を開けると、誰かがすぐそこに立っていた。女子生徒。校章の縁の色からして同じ学年だ。それに……銀髪。

「君は……」

 言いかけたところで意識が遠のいていく。

「お疲れ」

 端的過ぎる労いの言葉が聞こえたところで、煌津の意識は途切れた。

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