第一章 カンナギ・ガンスリンガー 1

      ※


 九月一日。N県北東部。

 浅間山の麓に広大な敷地を持つ工場があり、その敷地内の一画に、鬱蒼と木々の生い茂る鎮守の森がある。森の入り口には神明鳥居があり、奥へ進んでいくと、ほどなく古びた社が見えてくる。

 鍛冶の神、天目一箇神あまめのまひとつのかみを祀る社である。ボールベアリング、小型モーターなどの主要製造品のほかに、防衛関連用特殊機器の製造も担うこのマザー工場の敷地内に、鍛冶の神を祀る社があるのはそう不自然な事ではないが、現代科学の粋を集める施設が立ち並ぶ中に、古来の神を祀る神域が設置されたのには重要な理由があった。

「掛けまくも畏き伊邪那岐大神筑紫つくし日向ひむかたちばな小戸おどはらそぎ祓え給いし時にせるはらえ大神等たち諸の禍事、罪穢けがれらむをば祓え給い清め給えと白す事をきこしせとかしこみ恐みも白す」

 防衛関連用特殊機器製造部門の主任を兼任するこの社の神主が、本殿ではらえことばを唱えていた。神主の前には、あんと呼ばれる机状の台があり、その上には大麻おおあさと、静謐な本殿にはそぐわない無骨な武器が置かれていた。

 銀色の銃身が鈍く輝くリボルバーピストルだった。S&W M586.6インチモデル、そしてその使用弾薬である.38スペシャル弾の一箱五十発の箱が百個、案の上と下とに積まれている。

 神主の後ろでは巫女装束を纏った桜色の髪の少女と黒いスーツの男性二人が、静かに頭を垂れていた。奇妙な点が一つあった。いくつもの小さなポーチのついた茶革の大振りなベルトが、巫女装束に編み込まれるようにして装着されている事だ。

「――再調整は完了しました。銃は完全にきよめられております」

 祓いを終えた神主が静かにそう言った。

「ありがとうございます」

 巫女装束の少女は礼を言い、案の上からリボルバーを手に取った。一般に拳銃自体の重さというものは、概ね一一〇〇グラムから二〇〇〇グラム程度であり、弾薬を装填していたとしても、そう重たいわけではない。だというのに、浄められたこのM586は、普通の拳銃とは違う、まるで生き物のような重たさを感じさせた。神が宿ると言えば言い過ぎではあるが、その力が銃全体に通っているという実感があった。

「お忙しいところ、再調整していただきありがとうございました。ひと月で〝穢れ〟を多く浴び過ぎていたので、家ではどうしても祓い切れず……」

 少女は再度礼を述べ、ベルトの右手側についたホルスターにリボルバーを仕舞った。

「いえ。宮瑠璃市の現状は伺っております。出来る時にメンテナンスを行っておかなければいけませんよ」

神主の返答に続いて、スーツの男が口を開く。

「左様。宮瑠璃市の呪力濃度は日に増すばかり。意図的に呪詛を撒いている者がいるはずだ。このままそやつを排除できなければ、遠からず街の限界が来るだろう」

「霊能コンサルタントにも協力してもらい、常駐できる次の退たいを探しているが、宮瑠璃市の怪異は、ほかとは性質が異なる。適した者がなかなか見つからない」

「……やはり、街由来の術者でなければ」

 神主が、どこか苦い顔で言った。

 少女は、湖面の如き静かな表情を崩さない。

「闇の世界の侵攻は宮瑠璃のみならず、国を越え、世界各地に広がりつつある。この状況で、いち都市が呪詛に満たされれば、そこからは穴が開いたように腐敗が進み、あっという間に国土を呑み込むであろう」

「出来る限り支援をしよう。たったお一人に大事だいじをお任せしてしまうのは、我々としても慙愧ざんきに絶えないが、今しばらくの奮闘をお願いしたい。九宇時くうじ殿」

 少女は黙って頭を下げる。腰に吊ったM586がいやに重い。


      1


 九月十日。金曜日。朝。いつも通り、宮瑠璃市内を通る宮瑠璃線に乗って通学する。

 モバイルメッセンジャーアプリのトーク履歴を開いて、目当ての相手の名前を探す。最後にメッセージを送ったのは六か月なので、下へ下へスクロールしていく。

 九宇時那岐、という名前を見つけて、トークを開く。

 自分がメッセージを送った時間の上に『既読』の二文字はついていない。だからといって、それで別に動揺する事はなかった。既読がついていない事を確認……いや、既読がついていないという事実を、ただ単にまた見たくなったから見たというだけの事だった。

 煌津はスマホの画面を暗くして、ポケットにしまった。そして電車の窓から、どう市と宮瑠璃市の境に流れる伊瑠々いるる川が、陽光を受けて煌いているのを眺めた。

 陰鬱でも、不快でもない。強いて今の気持ちを言うのならば、それは虚無感に近い。

「ねえ、あそこ座ろ。ママ」

 隣の車両から移ってきた女の子が、母親の袖を引っ張って、座席を指差す。煌津は、見るともなしに女の子が指差した先を見た。

 ――見るんじゃなかった。

 座席は確かに一人分空いている。傍目には、空いているように見えるだろう。だが、座席の下、暖房用ヒーターの前には、人間の両足首だけがあった。足首から上は、まるで空間に溶けてしまったかのように見えないが、二本の足首から下ははっきりと見える。青いスニーカーと靴下。時々、何か期待しているかのようにステップを踏む。

「座ろ。あたし、座っちゃうからね」

 女の子が座席へ向かう。足首だけの何かは見えたままだ。

 ――いけない。

 ポケットの中から、魔除けとして持ち歩いている少量の塩が入った小さなビニール袋を取り出す。足早に煌津は女の子の進行方向に割って入ると、そのまま空いた座席に座り込んだ。

「あ……」

 女の子が途端に悲しそうな顔をする。煌津は知らない振りをした。塩の入ったビニール袋を手の中で握りしめる。

 足首は、まだ煌津の足元に見えている。

「ほら、行くよ。どうせ次の駅で降りるんだから」

「えー」

 不満を述べる女の子の手を引いて、母親がさっと煌津の前を通り過ぎる。

「最低」

 小さく、はっきりと煌津に聞こえるように母親が吐き捨てる。やはり知らない振りをするしかない。

 仕方ない。こればっかりは。もしあの子が座っていたらどんな目に遭っていたか……。

 視線を落とす。だが、足首はもうそこになかった。

「邪魔しやがって!」

 男の怒鳴り声が耳元で爆発したかと思うと、次の瞬間蹴りでも入れられたかのような衝撃が腹部を襲った。

「うぐぅっ!」

 たまらず煌津は体をくの字に折り曲げる。ビニール袋が手の中から落ちた。周囲が不可解そうな声を上げるのが聞こえる。当然だ。周りの人間には何も見えていない。

足首だけの青いスニーカーが踵を返して、閉ざされたドアのほうまで進んでいき、そのまま溶けるように消えていくのが見えた。

 電車が止まった。

『宮瑠璃。宮瑠璃。終点です。この電車は車庫に入ります』

「っ……」

 ビニール袋を慌てて拾う。心配はない。あの程度なら、こちらに目を付けたわけじゃなさそうだし、蹴りを入れたから向こうの気も済んでいるだろう。経験則だ。粘着されている感じがしない。

 電車やバスの中は、今の煌津にとって必ずしも安全ではない。だが、完全に避けて通る事は出来ない。たとえどんな不可思議な目に遭ったとしても、煌津はただの高校生だった。高校生は、当たり前の事だが、高校に通わなければならない。体のない足首が腹を蹴り飛ばしてくるからと親に伝えて、家から一歩も出ないわけにもいかなかった。

 煌津は痛む腹をさすりながら、通勤客と通学客で形成された人混みへと紛れていく。

 転校して一週間もすれば、以前とは全く違う通学路にも少しは慣れるものだ。改札を出たところにある大きな時計は七時五十分を指している。ここから学校までは歩いて十五分ほどだ。と、後ろから急いだ客の体が、少し肩にぶつかった。今度は痛みなどなかったし、向こうも気づかなかったようだ。住むところが変わっても、ここもまた都会なのだ。人とぶつかるくらいは日常茶飯事である。腹の痛みもそろそろ引いてきた。

 S県宮瑠璃市。

 首都東京より約一〇〇キロメートルの距離にあり、S県の北東に位置する県庁所在地である。ふるだけ山麓を源流とする伊瑠々川を隔てて恵里道市、宇瑠うる市に接し、その人口はおよそ二十七万人。市の花はギンバイカ、市の木はアカシア、市の紋章はさながら七つの門が連なったような独特のシンボルである。

 観光名所と呼べるほどのものは見当たらないが、民俗学者などの間では、日本神話の中でも宮瑠璃市古来の文献にしか見られない独自の神話、伝承が伝わっている事で有名だった。例を挙げれば、市の名である宮瑠璃という地名は、その昔、かの菅原道真公が、旅の途中立ち寄ったこの地で、瑠璃色に煌めく宮殿を幻視した事に由来する。または、伊瑠々川の起源は、古利弥岳の由来である嵐の女神、しゅと、伊瑠々川の由来である竜神、伊瑠々いるる弥無伽やむかしゅの激闘の末、敗れた竜神の死体が川へと変じたものであるとされているし、その伊瑠々弥無伽主も元はといえば海で暮らす海神であったが、母恋しさに冥府へ参ろうとする須佐之男すさのおのみことが大暴れした際に海より出で、陸地で暴れ回ったのが乱行の始まりと『宮瑠璃風土記』には記されている。須佐之男命はともかくとして、布留利弥主や、伊瑠々弥無伽主といった神々の名は、古事記や日本書紀などでは見られない。

 この神話の気配色濃い土地へ、父親の転勤が決まったのは三か月前の事だ。それから引っ越すまでは休日もやる事が多かったのを覚えている。前の高校にいた時は、町内文化研究部という部活動をしていたが、煌津の転校が決まるや、先輩たちは部誌の特別号を出す事を決めてくれた。荷造りやバイトの引継ぎや編入試験の勉強に加えて、煌津は部誌の原稿も書かなければならなかった。引っ越しぎりぎりのタイミングで原稿を提出し、部誌は後日こちらへ送ってもらう事になった。

 やる事が多くて助かったと思う。やるべき事が見えていれば、余計な思案をせずに済む。

 人混みのざわめきの中にあっても、煌津はそれらの音がどこか遠くから聞こえているように感じた。ついさっき電車の中であった事さえ、もう忘れそうだ。

 ――何も考えていない。考えられていない。

 転校してから、新生活はただ状況を認識するのに精一杯で、感情を挟む余地がない。目の前にやってきたタスクを処理、処理、処理。その連続だ。土日は疲れて動けなかった。

 自分がこの街にいる事を不思議に思う。この宮瑠璃市にいる事を、だ。煌津はおみくじをゲン担ぎに引く事はあるが、縁、というものは信じていなかったし、実感していなかった。だが、今こうしてここにいるというのが、一つの縁なのかもしれない。

 九宇時那岐の実家はこの市内にある。早いうちに尋ねなければならない。

 あいつに、会いに行かなければ。

 歩を進める間にも、記憶は勝手に掘り返される。

 高一まではあいつと一緒だった。その夏、那岐のお父さんが体調を崩して、それからあいつはこの宮瑠璃市へ戻ったのだ。それから、それから……。

 東口を出ると、人だかりが出来ていた。何だか雰囲気が違った。物々しい。どことなく緊張感がある。人だかりの中の人々は、ほとんどがスマホを高く掲げて何かを撮ろうとしている。パトカーが数台、ロータリーに止まっているのが見える。

「本物らしいよ」

「雑巾みたいになっているんだって、体が」

 そんな声が聞こえてきて、さすがに煌津も足を止めた。

  ヤバい予感がする。何か、事件があったのだ。それはわかる。問題は、煌津がそういうヤバそうな事件の現場に近付いてしまった事だ。

(こういう場所は良くない)

 かつての煌津ならともかく、今は良くない。

 電車の中の出来事が、さっそく頭の中で蘇ってくる。こういう場所では、必ず見てしまう。奴らを、近付けてしまう。

「……助けて」

 誰かが、耳元で、囁くように言う。

 駄目だ。すでに、傍にいるのか……。

「助けて助けて助けて助けて助けて助けて助けて」

 やめろ。俺に近付かないでくれ。俺は何でもない。何も出来ない。

 九宇時とは違う。

 ――りぃん。りぃん。

 唐突に、意識に割って入るように、鈴の音が聞こえた気がした。

 煌津から二人分ほど離れたところに、同じ学校の制服を着た女子生徒がいた。濃紺のブレザー。背丈もそう変わらない。目立つのは、その髪だ。短く切り揃えられたその髪は、白に近い銀。

――りぃん。りぃん。

「う……」

 まただ。

 その子が手に持っている鞄に鈴は付いていない。今の音は一体何だ。鈴の音はもう聞こえない。音源は全く別のところにあるのか。いや、確かに、彼女のほうから音は聞こえたと思う。

 囁き声がもう聞こえていない事に、煌津は気付いていなかった。

 女子生徒はじっと睨むように人だかりを見ていた。もしあんな目で見られたら、ちょっと怯んでしまうだろうと思うくらい、鋭い視線だった。

「……前にもあったよね。こういうの」

「子どもの時でしょ。バラバラにされた奴……」

 ひそひそと誰かが話しているのが聞こえる。りぃん。りぃん。りぃん。鈴の音がさっきよりも近くで聞こえる。女子生徒の銀がかった白い髪が、何だか今は薄桃色に染まっているように見える。彼女の目じりがきつくなる。もの凄い苛ついたような顔。

 不安が膨れ上がってくる。

「伊瑠々川に捨てられていたんでしょ」「あの時と同じだよ」「五人死んだんだっけ」「いや、もっと……」「花壇から腕が生えてたとか」「あの頃から景気悪くなったから」――呪――「テレビの連中がずっと街の中にいたよ」「オレ、インタビュー受けたんだよ!」――呪――「普通の事じゃないよ、こんなの」「脳味噌とか、その辺にあんじゃないの?」「ハサミ女だよ」「帰って来た。また、こういうのが……」呪呪呪。

 まるでヘッドホンで聞いているかのように人混みのざわめきが大きくなっていく。暗い感情がひりつくような心地よさで胸の裡を毒していく。呪。勝手に脳へと受信される他者の不安と好奇心。視界が、少しずつ赤色に染まっていく。呪。赤いシート越しに見ているかのような、真っ赤に染まった人混み。自分も『いい』のではないかと思う。「あの女」この世は所詮理不尽な事の詰め合わせである。だからこの駅前で、今朝、どうやら誰かが何かしらの害意を他人にぶつけたのと同じように、自分もまた、誰かに害意をぶつけてもいいのではないだろうか。呪。たとえば、あの母親。娘を助けてやったというのにあの態度。「あの野郎」許されるものではない。呪呪。それに、今朝は後ろからぶつかられた。相手からは謝罪の一言もない。あの母親とぶつかってきた奴を見けだし、自分が受けた被害よりも、少し強い――

「ねえ」

 りぃん、と。今度こそはっきりと、目の前から鈴の音が聞こえ、

「これ、落としてたよ」

 そう言って、あの銀髪の女子生徒が、二つ折の定期入れを煌津の目の前に出していた。

 近くで見ると、肌も白い。つい今の今まで蝕まれるようだった暗い感情を、煌津はもう忘れていた。

「あ……俺の」

「気を付けなよ、穂結煌津君」

 そう言われたと悟った時には、女子生徒の後ろ姿が煌津から離れていくのが見えた。腕時計を見ると、もう八時だ。

「やば」

 急いだほうがいいだろう。

 走り出そうとしたところで、スマホが震える。MMAのトーク受信のバイブレーション。画面を見ると母からだった。『急な仕事で遅くなりそうだから、夕飯は食べておいて』。父は今日、職場で泊りだ。『わかった』と打ち返す。母から『よろしく』というスタンプ。

 帰宅時間に自由が利きそうだ。今の学校では部活もやっていない。なら放課後、九宇時那岐の実家に寄ってしまうのが良いかもしれない。

 ……そういえば。

「何で知っているんだ」

 名前。彼女とは今日初めて喋ったのに。

 いや、そうか。定期券だ。そう思って、煌津は渡された定期入れを開く。

「む……」

 定期入れの内側には、マジックか何かで殴り書きされたような言葉が二つ。何とか判読できる。

『吐菩加美依身多女』

 それから。

『落とすな』

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