ぐるりぐるりと
安田 景壹
序章
少し先に、赤い服を着た女の人が歩いているのが見えた。道路には、その人と自分達のほかは誰もいない。
「実際問題、心霊現象っていうのは思った以上に身近にあるものだよ」
何でもないような口ぶりで、
「見える人にははっきり見えるし、自分は見えないと思っている人でも案外見えていたり、存在を感じ取っていたりするものなんだ。同じ層に存在しているんだから、本来は見えるも見えないもないと俺は考えているんだけど、まあ、認識出来る事は人それぞれだね」
「俺、見た事ないけど……」
「そんな事ないよ。
那岐はやけに自信のある口ぶりだ。
穂結
「九宇時くーん、やっぱりないよ。幽霊と会った事」
「まあ、向こうから接触ないとわからないもんだから。でも絶対見ているよ」
「妖怪とか、そういう話は好きだけど。実際に出くわすのは嫌だな。俺苦手なんだよ、ホラー」
「えー。前にオカルト漫画買ってたじゃん」
「あれはほら……どちらかといえばかっこいい寄りだから」
「線引きが微妙だねえ。まあ、怖い時は怖いけどね、心霊現象」
「どんな時だって怖いでしょ。俺、オカルト漫画は好きでも霊感とかはいらないから」
昔から、ホラー映画の予告編は目を閉じてやり過ごしていたほうだ。配信サービスで勝手に再生される予告編も、苦手なものは全部非表示にしている。妖怪やUFOやUMAは好きだが、怖い話は、読んでいると何だが左肩が少し重くなるような気がするのだ。
「言ったでしょ。霊感ってのは誰にでもあるものなんだよ。ただ、個人差があるだけ。……人によっては、全く見えないのに惹き付けてしまう体質ってのもあるし」
「そんなもんかなあ。九宇時ははっきり見えるんでしょ?」
「まあね。おかげで高一なのに仕事してるよ」
那岐の実家は神社をやっていて、那岐はその手伝いがてら霊媒師のような事をやっている、らしい。高校生なのに。
「悪霊を祓ったりするんだよね。霊媒師って」
「いやまあ、霊媒師とはまたちょっと違うんだけど。悪霊を祓ったりはするよ。……たまにだけど」
「何か、お経とか唱えたり?」
「まあ、そんな感じ」
「……聞いてもいい?」
「え。な、何だよ、改まって」
「……呪いのビデオって、本当にある?」
「…………ビデオ?」
「ビデオ」
「ないよ、そんなの。ていうか、それ古い映画の話でしょ。穂結さん、ビデオ見た事ないでしょ。実物」
「…………昔、近所のお兄ちゃんが拾ったの見せてくれたよ。その、なんていうか、エッチな奴。パッケージだけ」
「……うわあ」
「いや、引かないでよ! いいじゃん、子どもだったんだから」
いつもこんな調子で話している。那岐と知り合ったのは中学二年生の頃だったが、出会った当初はここまで話してはくれなかった。今では一緒に遊びに行ったりする仲だ。今日は試験が終わったのでカラオケに行こうと思っているが、いつもなら駅までのバスに乗れるはずなのに、今日は待っていても来なかった。そんなわけで、駅までニ十分くらいかかる道を、こうしてだらだらと歩いている。前を歩く女の人も、きっとバスに乗り遅れたクチだろう。
「お経って、効くの? その、悪霊とかに」
「お坊さんが唱えたほうが効くのは間違いないね。修行しているから。でも、もし出くわしたら唱えないよりは唱えたほうがいいよ」
「いやだよ、悪霊に出くわすの」
「呪いのビデオよりは出くわす確率高いよ。魔除けの方法を知りたいかい? 他人に肩を払ってもらうとか、塩撒くだけでも効果はあるね」
「やめてくれよ……」
「ふふふ。まあ本人が好き好んで悪霊なっているってパターンだけじゃないからね。色々と巡り合わせでそうなるものだから……」
そこまで言って、那岐はひと息つくと、急に前方をじっと見た。
「穂結さん、俺達どのくらい歩いていたっけ」
那岐は流行りのテレビ番組の真似をして、煌津の事を『穂結さん』と、後ろのほうを跳ねあがらせて呼ぶ。それはともかく、煌津は腕時計を見た。
「えーと、あれ、三十分くらい経ってる?」
普通なら、もう駅に着いている頃だ。だが、煌津も那岐も、まだ通り道である住宅街の中にいる。
「うん?」
「穂結さん、そのまま――」
那岐が何か言いかけていたが、聞き終わるよりも早く、それまで自分達が歩いて来た距離を確かめようと、煌津は足を止めて後ろを振り返っていた。
道の向こうに赤い服を着た女の人の後ろ姿が見えた。腰まで届きそうな長い茶髪だが、少しボサボサしているようにも見える。だが、引っ掛かったのはそんな事じゃない。
「ううん?」
煌津は、再び自分達の進行方向へと顔を向けた。
前方に、赤い服を着た女の人の後ろ姿が見える。
「え、嘘。何で――」
煌津は、もう一度後ろを見た。
「ぼぉおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお」
全身をのけ反らせ、目玉をひん剥いた逆さの顔が、目の前にあった。
「うわぁああっ!?」
驚く間もなく、煌津は襟首を掴まれると、後方へと引っ張られる。
「ちょっと、ごめんよ」
「九宇時!?」
逆さの顔をした女の髪は、生きているように蠢いていた。禍々しい気配を漂わせ、白目の広い目玉は怒っているのか驚いているのか、とにかくそんな感じだ。胸の奥がぎゅうっと掴まれているかのように、息をするのも苦しくなってくる。耳鳴り、いや重低音で耳の中を殴られているかのような低く鈍い人間の唸り声がそこかしこから聞こえる。全身が麻痺していく。骨や筋肉の動きを一切禁じられたかのような。動けない。逃げなければいけないのに、動けない。
「噂の《のけ反り》か。こんなところにいるなんて……」
那岐は動揺した様子もなく嘯く。
――りぃん。
鈴の音が聞こえる。
那岐の声が、静かに、何かを唱える。
「掛けまくも
那岐の右手が跳ねあがり、掌が女の逆さ顔へと向けられる。
「ぐるりぐるりと」
瞬間、耳の中に鳴り響いていた重低音が消え、煌津は自分がまるで空の上にいるかのような、静かだが、体の緊張の一切から解き放たれたような気がした。
赤い服を着た、逆さの顔の女はもうそこにはいなかった。煌津の横で、さながら全力疾走でもしてきたかのような那岐が、ふーっと息を吐いた。
「今のは……?」
「ちょっとヤバめの奴」
那岐は額の汗を拭った。
「前の方にいるのはわかっていたんだけど、考えていたのよりちょっとレベル高かった。まあでも、祓う事は出来たから……。穂結さんを巻き込むつもりはなかったんだけども」
それから、那岐はにっと笑った。
「見ちゃったねえ。幽霊」
とても笑えるような心境ではなかったが、とにかく今見た事の衝撃があまりにも大き過ぎて、煌津は思わずひきつるように笑った。
――これが、煌津が初めて出くわした幽霊の話である。
この日以来、煌津の日常は変わってしまったと言っていい。
九宇時那岐はそれから少し経った頃、実家の都合で故郷の
煌津は友人達と企画して、ささやかだが那岐の引っ越し会をやり、東京駅で旅立つ彼を見送った。
それから、高校二年生になり、春が過ぎ、夏を越え、秋を迎える手前になった。
※
その日、宮瑠璃市、宮瑠璃駅前の渦状に並べられたタイルの上に、人間の体らしき物が置かれていた。
発見されたのは早朝。ちらほらと通勤客の姿が見え始める時刻だった。最初の発見者は、はじめは寝袋でも置いてあるのかと思ったという。
だがそれが、さながら雑巾のように極限まで捩じられた女性だとわかると、駅前には絶叫が木霊していた。
七時を過ぎ、通勤通学のピーク時間になっても、駅前は騒然としたままだった。
宮瑠璃市を象徴する瑠璃色の渦状タイルの上に、冒涜的な形で遺棄された死体。
それは、まるで街全体にかけられた呪詛のようであった。
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