溶けない雪とホワイトクリスマス
@takap4106
溶けない雪とホワイトクリスマス
雪の降らないこの地域に住む者にとって、ホワイトクリスマスは夢の世界のことだった。日も沈み、街が浮足立った明かりに照らされ始めた頃、唐突に玄関の扉がたたかれた。不動産屋で広めの家を希望したためか、機能面ではひどく簡素なこの2DKのアパートには、映像付きのインターフォンはついていない。
「あ、やっぱり、暇そうじゃん」
扉を開けると、冷たい風と共に、見たくもない女の顔が飛び込んできた。大学時代からの友人だ。いや、僕は友人だなんて思っていないが。
「今日、予定ある? これから」
「お察しの通りで」
「じゃあお願い。この子預かって」
「……は?」
彼女は自分の背中に隠れていた子どもの肩を強引につかんだ。そして、僕の目の前につきだす。まるで、自分のもとから追い出すように。
その子は、一見して男の子なのか、女の子なのか分からなかった。時期を間違えているのか、ハロウィンのお化けのような白い布を頭から被り、うつむいているようだった。奇妙な子だ。だがそれ以上に、このような日に、自分の子どもをただの大学時代の友人に預けるなどと、彼女の神経を疑った。
「おまえ、また男か」
「悪い? もう恋愛をするには遅いって言いたいの?」
「そうじゃない、でも、この子はおまえの子どもだろ」
「だから? その子のために私の幸せを捨てろと? やけに大人っぽい意見を言うじゃない。恋人だっていたことないくせに」
吹き寄せる風よりも冷たい彼女の言葉に、僕はまだ反論しようとした。だが、彼女は僕以上に怒りを抱えていたようで、その矛先は子どもにむいてしまった。
「あんたも、さっさとそれ取って挨拶!」
彼女は、子どもが被っていた白い布をもぎ取り、さっさと鞄の中に押し込んだ。あらわになった子どもの姿は、やけに髪が長く、線の細い女の子だった。目は大きく、うるうると輝いている。何度か見たことがある、間違いなく、彼女の娘だ。
「あっ、あっ! あー!」
その子は、僕の顔を見るとパニックを起こし、瞳を暴れさせた。母親である彼女に泣きつこうとするが、彼女はうっとうしそうにその頭を手で押さえつけた。
「おい!」
「この子、変なのよ。男を見るとすぐにこの白い布を被ってさ。失礼にも程がある。私の身にもなってよ、ほんと」
慣れているのか、彼女の反応は冷ややかだった。子どもがいくら泣き叫ぼうとも、情緒をピクリとも動かさない。その姿はまったく母親には見えず、僕はさらに憤っていった。歯を食いしばった僕には目もくれず、彼女は続けて言った。
「そうそう、その子、前の彼氏とスキーに行ったとき、急にいなくなったのよね。そのくらい、衝動的に動き回る子だから。面倒ごとには巻き込まれないようにしてね」
「それなら、おまえが近くにいてやれよ」
彼女は応えない。僕の言葉にも、子どもの泣き声にも。
「ほら、このおじさんと今日は過ごすの。男の人に慣れなきゃだめよ」
彼女はそう吐き捨てると、すぐに踵を返した。おい、待て、と声をかけるが、一度も振り返ることなく、彼女は駅の方角に歩いて行った。
子どもは、ぼーっと、母親が歩いていく姿を見ていた。目元であふれていた涙は、もう枯れてしまっている。不憫でならなかった。どうして、そんなに自分勝手になれるのかと、彼女への怒りは収まらない。
だが、このままこの子を放置するわけにもいかない。冷静になり、目の前で固まる子どもの前にしゃがむ。視線を合わせると、意外と背は伸びてるんだなと思った。
「ねえ、とりあえず、入る?」
出来るだけ、優しく声をかけるように憂慮したが、うまくできた自信はない。まず、子どもに接した経験など、ほとんどない。案の定、その子は僕の声に全く反応しなかった。母親の歩いて行った方向を見て、固まっている。
どうしたものかと頭を掻いたが、声をかけても反応しないようでは、もう僕が運ぶしかない。その子の両脇に後ろから手を入れ、部屋の中に運んでいくことにする。工事車両にでもなった気分だ。その子は、抵抗することもなくただうなだれて、僕に運ばれていた。
軽いな、子どもって、こんなに軽いものなのか。
ちゃんとご飯は食べているのだろうか。まずは、あたたかいものでも、作ってやろう。
ひとまずキッチンの前にあるソファに座らせ、僕はホットミルクを出そうと準備を始めた。牛乳を冷蔵庫から取り出し、コップに入れる。
すると、さきほどまで人形のように固まっていたその子が言った。
「それ、雪?」
泣いていたためか、少しガラガラしている。ソファの方を見ると、子どもがソファの上に立ち上がって、こちらを不安そうな目で見ていた。僕はまた優しい声を心がけて、咳ばらいを一つしてから口を開いた。
「雪に見えた? これは牛乳だよ」
その子は首を左に傾けた。
「雪じゃない」
僕は頷いた。
「そう、雪じゃない」
彼女はくしゃっと泣きそうになる。ますます不安を募らせたようで、キョロキョロと部屋の中を見回した。
「雪はどこ?」
「雪は、ここにはないよ」
「雪、雪を探さなきゃ」
突然、その子はソファから飛び立つように駆けだした。扉を閉め忘れた奥の部屋に入り込み、勢いよくクローゼットを開いた。だが、当然のように、そこには雪は入っていない。あるのは僕のスーツやYシャツと普段着や下着の入った質素なタンスだ。
僕は呆れて言った。
「ほら、ここには雪はないんだよ」
「雪!」
え、と思ったときには遅かった。その子は僕のYシャツに飛びつき、器用にハンガーから外すと、それを布のようにして頭にかぶった。明日の仕事に来て行こうと思ってたが、もう皴がついてしまっているのが目に見えてわかる。この部屋にアイロンはない、今一度クリーニングにもっていかなくてはならない。
「あー、えっと」
「雪! 雪!」
僕の困惑はなんのその、子どもはすっかり落ち着いて、僕から隠れるように、部屋の端っこに座り込んでしまった。
奇妙な子、と彼女が言っていた理由がわかる気がする。この子にとって、雪というのは白い布のことを言うらしい。できればYシャツ以外の白い布を準備したいところだが、あいにくベットのシーツはグレーだ。多少おしゃれなものを買おうとした僕の背伸びする精神が仇となった。
かと言って、ずっとあのままにするのも、少し憚られる。そもそもこの家に子どもが遊べるようなものはない。
「ねえ、ちょっと買い物にでも行かない? おもちゃを買ってあげるよ」
「雪! 雪!」
「分かった雪を買いに行こう! そんなものよりもっと大きな雪を買いに行こうぜ!」
「なんと! 雪!」
その子は立ち上がって、僕の目の前でくねくねと小躍りを始めた。そんなにうれしいのか。奇妙な子、とは言ったものの、わかりやすいのは子どものいいところだ。
「じゃあそのシャツは返してもらおうかなー」
「除雪反対!」
その子は威嚇する子猫のように言い放つと、僕を置いて玄関の方に走っていった。ああ、よくそんな難しい言葉を知ってるね。お母さんに教えてもらったのかな? これから、自分のYシャツを被った女の子を連れておもちゃ屋に行かなくてはならないらしい。なるほど、彼女が嫌になる気持ちも、少しわかってしまった。自分の身になってくれ、と思う。
「雪―!」
玄関であの子が呼ぶ。
「今行くよー」
二人でやってきたのは近所のショッピングモールだ。この辺りでは最も大きな商業施設である。3階建てで、服から宝石、スーパー、レストランまで何でもそろっている。正直子どもが楽しめる場所なんて思いつかなくて、おもちゃ屋さんがあるようなところに連れて行けばどうにか楽しませられるだろうかと踏んでいた。
「雪ー」
「呼んでも来ないと思うよ」
僕の少し前を歩くこの子は、キョロキョロとYシャツの隙間から店内を見回していた。思った通り、周囲の視線はとても痛い。いつか通報されるんじゃないか。だがこの子はそんな僕の心配もよそに、爛々と目を輝かせる。
「あ、おもちゃ屋さんがあるよ」
「雪ない!」
「そうだねーおもちゃ屋さんには雪はないかもねー」
「あそこ! 雪見える!」
小さな手が指さした先には、多彩な布を並べた手芸屋があった。確かに、あそこなら白い布が言っているだろう。ほんとだね、と声をかけると、すでにその子は駆けだしていた。慌てて僕も後を追う。
名前も知らない色の布がたくさん売られている。巻物のように丸められた一つ一つの色に目を奪われながら、僕はまた走り回るその子の後ろを歩いた。店員さんはいぶかしげに僕を見ていたが、気にしないことにする。ふと気になって、布の値段を見てみるが、思ったほど安くはない。これなら100均でレースカーテンでも買った方がよかったかもしれないと後悔した。ため息を一つ。
「雪―!」
ぼーっと財布の中身を思い浮かべていると、興奮しきった声が聞こえた。ハッとして前を見ると、巻物状になっていた布を思い切り引っ張り、すさまじい長さを自分の体に巻き付けていた。さきほどまで被っていたYシャツは床に放られている。
店員さんが僕の後ろに立ち、無言の圧力をかけてくるのが分かった。冷や汗をかきながら、その子を指さして、布の値段を聞く。やはり高かった――。
店員さんが布を切っている間、その子はYシャツを被ることなく待っていた。差し出してみても、静かに首を振るのみ。突然どうしたのかと不思議に思ったが、まあ、新しいものを見つけたからかなとさほど頭を悩ませることはなかった。
「はい、パパに買ってもらえてよかったね」
「うん! 雪―!」
「……そう見えているのか」
それなら通報されることはないかな?
僕が胸をなでおろしていると、紙袋を受け取ったその子は布を取り出すことなく、僕の手をつかんで店を出ようとした。
「行こう! パパ!」
「……ははは」
少し、そう呼ばれることには罪悪感があった。僕は父親じゃない。だが、悪い気持ちもしなかった。この子にとって、少し気が許せる存在になれたのなら、そう呼ばれてもいいか。
そう思えた。
結局、家に着くまでその子は布を取り出すことはなかった。ただ、嬉しそうに僕と手をつないで、静かに歩いていた。あの落ち着きのなさはどこに行ったのか。今は、ソファに座って、僕の作ったホットミルクに息を吹きかけながら飲んでいる。僕もその隣でコーヒーを飲んでいた。
ふと、口を開く。
「ねえ」
「なに? パパ」
「雪、いらないの?」
僕は無造作に机の上に置かれた紙袋を指さした。
その子は、少し重そうに口を開いた。
「今は、パパといるからいいの」
僕は思ったことをそのまま口にした。
「パパといない時は?」
その子は言った。
「ママといるときも、いい。でも、ママと一緒に来る人には、見つからないようにするの」
「見つからないようにする?」
「雪は、私を隠してくれるから」
僕はその言葉の意味を深読みした。すぐに想像がついたのは、この子が、彼女の男に乱暴をされているところだった。
「どうして、隠れないといけないの」
「パパ、いいの」
「よくない!」
「パパ、私、パパがいてくれたらいいの」
その子は、僕を諭すように言った。どうして、そんなに大人になってしまったんだ。君はもっと、子どもになってよかったのに。――いや、今、僕がこうして怒ってしまったから、この子は大人になってしまったのかもしれない。
「……トランプとか、しよっか」
「する!」
彼女が再び僕の家にやってきたのは、それからまた数時間たった後だった。時刻はもう深夜だ。眠ってしまったその子を抱いて、僕は扉を開いた。
「あら、ずいぶんリラックスできたみたいね」
「……ああ。」
「この紙袋は?」
「欲しがっていたから、布を買った」
彼女は眉をひそめた。
「いくらだった? もう、厳しく言っておくわ」
「そんなことしなくていい。金も要らない」
「でもね……」
「いいんだ。その代わり、この子がまたここに来たいって言ったら、連れてきてあげてくれ」
彼女は目を見開いて、僕の方を見た。僕は、毅然とした表情をしていたと思う。
「なに、父親にでもなってくれるの」
「……それは、無理だろ」
「そうよね。……でも、正直さ。ありがたい」
彼女は僕に軽く頭を下げ、その子を抱きなおした。そして、僕の部屋から遠ざかっていく。僕はその背中と、彼女に抱かれたその子の顔を見ていた。すると、彼女の目が細く開かれ、僕と目が合った。
「ばいばい、おじさん」
手を振るその子に、僕も、手を振り返した。
雪が、少し降り始めていた。
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