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 きっかけは些細なことだった。


 友達と話しながら歩いていた私は前を見てなくて、教室から出てきた先生に気づけなかった。

 あ、と思ったときにはもう遅くて、先生に思い切りぶつかってしまった。先生が持っていたプリントが廊下に散乱して、私はとっさにごめんなさい! と謝罪する。


「大丈夫。それより怪我してない?」


 私の不注意でぶつかったのに、牧本先生は自分よりも私のことを心配してくれる。

 牧本先生は私のクラスの日本史の担当だけど、眼鏡をかけた若い女の先生という外見的特徴以外あまり印象がなかった。先生が生徒としてクラスにいたら教室の隅で本を読んでいる目立たないタイプ。そんな感じの地味な先生で、私は先生のことを好きでも嫌いでもなかった。

 だがこのすぐ後、先生への印象を改めることになる。


「大丈夫です。ごめんなさい」


 散り散りになったプリントを拾う。友達も手伝ってくれてすぐに拾い集めることができた。

 まだ床に膝をついたままの私のそばで、牧本先生が最後の一枚を拾おうと身を屈める。そのときブラウスの隙間から黒いものがちらっと見えた。


「え?」

「なに?」


 牧本先生は思わずもれた私の声に顔を上げた。先生は間近で見ると地味だけど整った顔立ちをしていることに気づく。

 でもそれよりもブラウスから覗く鎖骨の下あたりの肌に、黒い線で描かれたものが見える。

 痣でもあるのかと思った。でもそれは痣というには細い線で——

 え、タトゥー?


「円城さん? 大丈夫?」


 驚きのあまり固まっていると先生が心配そうに私の顔を覗き込んでいた。


「あ、いや、なんでもないです」


 私は慌てて立ち上がると先生から離れた。

 心臓がバクバクとうるさい。

 地味な牧本先生とタトゥーが結びつかない。今こうして先生を見ると、私が見たのは幻覚だったのではと思えてくる。

 私は混乱したまま先生と別れると、もう友達の話が全く頭に入ってこなくなっていた。




「牧本先生、ちょっといいですか?」

「円城さん。いいですよ」


 授業を終えて牧本先生が廊下に出たところを呼び止める。

 先生は授業の質問だと思ったようで教科書を開こうとしたが、私はその手を押さえて止めた。


「先生って元ヤンですか?」

「え? 元ヤン?」


 思いもよらない質問に先生は目を丸くして私の言葉をただ繰り返した。


「元ヤンキーの元ヤンです」

「え、何急に、違うけど……」


 先生は怪訝そうに眉を顰めた。


「ですよねー。私も違うかなとは思ったんですけど」

「そう……」


 先生はだからなんだと言いたげに目を細める。

 私は、自分の鎖骨の下を指でトントン叩いて言う。


「じゃあなんでタトゥー入れたんですか?」

「え……? は……なんで……?」


 牧本先生は真夜中にお化けでも見たかのような恐怖と驚愕がないまぜになった表情で私を見た。

 そりゃそうだ。着替えでも覗かなければ知るはずのないことをなぜか私が知っている。普通に考えてちょっと怖い。


「こないだぶつかったときに、たまたま見えちゃったんですよ」


 理由を知っても牧本先生は恐怖の表情を貼り付けたままだった。何か言おうと口を開けたり閉じたりしていたが、言葉にならないようだ。


「その反応だと本当なんですね。先生がタトゥーって意外すぎて、私の見間違いかと思ったりしたんですけど」

「ちょっとっ、こっち来て」


 先生が私の手を強く引っ張る。私はされるがままに先生に廊下の端まで連れてこられた。

 先生はキョロキョロと周囲を見て生徒がいないことを確認すると、声をひそめて私に尋ねる。


「そのこと、誰かに言ったりした?」

「言ってないです。やっぱりバレたらまずいんですか?」


 私は思わず口元を緩める。

 私の通うこの学校は私立の女子校で校則が厳しい。当然髪を染めるのは禁止だし、靴下まで学校指定のものを履かなければならない。

 先生であってもタトゥーを入れているのはまずいのかもしれない。見えないところだし、さすがにそれだけでクビになることはないと思うけど。


「とにかく、誰にも言わないで」


 牧本先生は私の目を見て真剣な表情で念を押す。


「そう言われても、思わず口が滑るかもなぁ」


 わざとらしく言うと先生が私を睨んだ。

 こんな顔するんだ。


「ちょっとふざけないで。ほんとに言わないって約束して」

「いいよ。でも言わないかわりに先生のタトゥー見せて」

「え、嫌だ」

「じゃあ言いふらします。牧本先生は身体中にタトゥーが入った元ヤンだって」

「ちょっと、静かに、嘘もやめて」


 先生は観念したようにため息をついた。


「わかった。見せるから約束して」

「やった。誰にも言わないから安心して」

「最悪……」


 先生は額を押さえてつぶやいた。

 先生の気持ちとは裏腹に私の胸は高鳴っていた。


 そうして私と牧本先生の秘密の逢瀬が始まった。

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