先生の恋人になるまであと6600万年
屑原ゆに
1
昼休みの社会科準備室。
普通教室のない四階は静かで、私と先生の息遣いまでも耳に届く。
物が多くてごちゃごちゃした狭い空間の中で、先生は困ったようにため息をついた。
「さや先生、早く」
私はいつまでも躊躇っているさや先生を急かす。
「苗字で呼びなさいって言ってるでしょ」
「はいはい」
改める気のない返事をして、授業のプリントが置かれたままの机に腰かける。
「でも隠れて生徒とこんなことしてるのに、そこにこだわる意味ある? 牧本先生」
さや先生の眼鏡の奥の瞳が泳ぐ。
「……見るだけでしょ」
さや先生は恨めしそうに私を見ると、ブラウスのボタンに指をかけた。
さや先生はいつもグレーのパンツと白いブラウスを着ていて、ほとんど黒に近い焦げ茶色の髪を一つに束ねている。さらに眼鏡までかけていて、普段は地味で目立たない先生だ。
先生はまだ23歳で歳も生徒と近いから生徒たちにはちょっと舐められている。
ブラウスのボタンを全部外して襟元をはだけさせる。静かな空間にはそれだけの動作で衣擦れの音が響いた。左肩のキャミソールとブラジャーの肩紐もずらすと、さや先生は気まずげに私から顔を背けた。
日に焼けてない白い肌が蛍光灯の強い光に照らされる。でも私は、それよりも鎖骨の下の一点に目を奪われていた。
さや先生の鎖骨の下には、タトゥーが入っている。
小さなバラの花が一輪だけ白い肌の上に咲いている。
気の弱そうな地味な先生に、こんな秘密があるとは誰も思わないだろう。
私は机から降りて先生に近づく。すると先生の肩が少し強張ったのがわかった。
先生のなめらかな肌に似合わないそれは、私をひどく興奮させる。そのギャップに私は、ぞくぞくと全身の血が沸き立つような感覚に陥った。
「似合ってる」
似合わないタトゥーをしているのがたまらなくいい。
あからさまな嘘にさや先生は返事をしなかった。
私は先生の目の前に立つと、恥じ入るさや先生をまじまじと見つめる。
身長がほとんど変わらないからタトゥーを見るために近づくと、自然と顔も近くなる。
私はそっとさや先生の肌に触れる。すると先生はびくっとして身体を引いた。
「っ…………」
でも私は、容赦なくバラの花を指でなぞる。肌の感触はさらさらしていて温かい。
「ねぇ。どうしてタトゥー入れたの?」
「前にも言ったでしょ」
さや先生は私の顔を見ずにぶっきらぼうに言った。
若気の至りだと以前に言っていたけど、あんまり信じられない。先生みたいなタイプがそんなことするだろうか。ずっと真面目に生きてきた、そんな感じがするのに。
タトゥー全体に手のひらを当てるとさや先生の鼓動を感じる。そのまま親指で押すように触ると力をかけた分だけ肌が凹んだ。
「もういいでしょ」
さや先生は私の手を掴んで止める。
「くすぐったかった?」
「もう昼休み終わるから」
「まだ大丈夫だよ。それに、さや先生自分の立場わかってる?」
「……わかってる。でもだめ。昼休み中付き合えるほど暇じゃないの」
さや先生は渋い顔をして答えた。
私も鬼じゃないから今日のところは許してあげることにする。
さや先生はブラウスのボタンを止めると、元の地味な姿に戻った。とても鎖骨の下にタトゥーを隠しているとは思えない。
そんなさや先生を見つめて私の口角は自然と上がる。
「いいよ。そんなとこも好きだから」
「なにそれ」
「私のことめんどくさいって思ってるでしょ。それになんとか逃げようとしてる」
私は資料が並んだ棚に寄りかかってさや先生の顔を見る。
「別に、そういうわけじゃ……」
先生はきまりが悪そうに目をそらした。
「もう行くから。鍵かけるから円城さんも早く出て」
社会科準備室のドアに手をかけるさや先生に、私は言う。
「さや先生。好き」
「……ありがとう」
困らせてる自覚はある。好きだと言いながら脅しまがいなことまでしている。
さや先生は私の気持ちに答えてはくれない。
女同士だからとかそんなのは関係なくて、たぶん生徒だから距離をおこうとしてくるんだと思う。
さや先生がドアを開けて、私たちは社会科準備室から廊下に出る。窓から日が入る分、廊下の方が暖かかった。昼休みの四階は生徒がいなくて私たちの足音がよく響く。
私は階段の前で立ち止まると、少し前を歩くさや先生にはっきりとした声で告げる。
「どうやっても私からの気持ちを消すことはできないから」
さや先生は私の突然の言葉に瞬きを繰り返して困ったように眉を下げた。
「じゃ、またねー。さや先生」
私はさや先生がなにか言う前に、手を振って足早に階段を降りていった。
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