第14話 一対多

 しかし、認識を視覚と同一視しない人間にとって、この考え方は酷くおかしい。


 まず、認識は規則性の把握なのだから、まず世界は規則性のある事象(決定的事象)と無い事象(非決定的事象)に分けられる。


 そして、規則性の無い事象に関しては認識することはできない。


 また、認識が規則性の把握である以上、それが見えるか・見えないかは全く関係が無い。見えない事象でも認識可能だし、またそれは特殊な視覚、あるいは視覚の代用能力を獲得したからでは無い。


 そう。そもそも、世界を「見える・見えない」で分けること「そのもの」がおかしいのだ。


 こう考えることによって、本質主義の異常な点をより明確に理解できるようになる。


 アリストテレスの本質主義はウーシア、つまり「A(ある単語)とは何であるか」もしくは「Aとは何か?」を解き明かすことが目的となる。


 たとえば「自由とは何であるか」とか「正義とは何か?」のような問いの立て方がこれに該当する。


 しかし、2度繰り返したように、Aの単語単体と紐付けられた定義のみでは、それが「何であるか?」は分からない。正確には、未決定の状態だ。


 その状態の単語単体に対して「何であるか?」という問いを立てても、「決まっていません」以外の回答など有り得ない。


 たとえば「自由とは何であるか」という問いを立てたとしても、それは「表現の自由」かもしれないし、「修学旅行の自由時間」かもしれないし、「フィギュアスケートの自由演技」かもしれないが、とにかく他の単語と組み合わせるまでは、それが「何であるか」が未決定なままで、ただ単語単体の定義があるだけなのだ。


 ところが、これが本質主義やイデア論で解釈されると、「自由」の意味は文脈で変化するとか、真の自由はイデア界にしかない(つまり、この世では真の自由など存在しない)という、非論理的な結論が導き出されてしまう。


 ここでもう一度、自然言語よりも厳密な数式で考えて欲しい。


 たとえば、1+5=6と4-1=3の数式を並べて、「1の意味は文脈で変化します」とか「真の1など存在しません」と言っている人間を正気だと思えるだろうか? もちろん、正気では無い。


 そして、こういった不毛な議論を紀元前から延々と現代まで続けてきたのが、ギリシャ哲学とその系譜に連なる西洋哲学なのだ。


 それらの間違いは、認識と視覚を混同することで発生している。その代表的なものが具象と抽象という対義関係だ。これは具象=見える、抽象=見えないの言い換えに過ぎず、この対義関係を前提にした全ての思考が論理的に間違えていると言える。


 また、これらの理論は矛盾を解消する目的で、更なる疑似理論を作って正当化を図ったことによって、他にも派生的な間違いが生じさせている。


 まず、大きいのは一対多という対義関係だ。これは、プラトン、アリストテレスだけではなく、古代ギリシャの思想の多くに見られるもので、プラトンの場合はイデア(1に該当)とその影である現実世界での事象(多)という関係、アリストテレスの場合は特定のある人間や特定のある馬といった、個々の存在(1に該当)から種や類といった上位のカテゴリー(多)という関係で表現されている。


 一対多が問題なのは、「多」が「全て」の対象とは限らない点にある。たとえば、10万個のリンゴの実があったとして、その内の9万個が赤くて1万個が青かったとしても、「多」の概念を用いれば「リンゴの実は赤い」ということが言えてしまうため、残りの1万個の青いリンゴの実が例外になるので、絶対に矛盾が生じてしまう。


 古代ギリシャ哲学において、こうした数学的な処理は上手くいっておらず、仮に視覚のアレゴリーから脱出できたとしても、矛盾の無い論理構築は難しかった可能性が高い。


 現代では、このようなあるカテゴリーに対する理解の仕方は、「全称(universal)」と「存在(existence)」に分けるのが基本となる。


 全称とは「主語と述語の関係が、その命題の全てに亘ること」で、もっと分かり易く説明すると「全てのAはBである」という文章が成立する事を指す。数理論理学では、ALL

のAをひっくり返して∀という記号で表記される。


 たとえば、「全ての人間はいずれ死ぬ」という命題があったとして、これは不死者が発見されない限りは正しいだろう、ということになる。


 一方の存在だが、これは「少なくとも1つのメンバーが述語の特性や関係を満たすこと」で、もっと分かり易く説明すると「AはBである」という文章が成立する事を指す。数理論理学では、existenceのEをひっくり返して∃という記号で表記される。


 たとえば、「アリストテレスは人間である」という命題があったとして、アリストテレスが人間であることが証明できれば、他の人間がアリストテレスでは無くても、この命題は正しいということになる。


 このように、古代ギリシャ哲学では「多」だったものを「全て」に、「1」だったものを「存在(この場合は、全てでは無いが0でも無いという意味)」に置き換えることによって、論理的な矛盾が生じる可能性は消滅する。しかし、たったこれだけの変更を知識階層がどうにかできるようになったのは20世紀に入ってからで、しかも現在まで間違えている人達も相当いる。


 また、プラトンとアリストテレスの場合、ここから派生した諸哲学が、更に間違いを悪化させているケースも少なくない。


 プラトンに関しては、新プラトン主義で別項として解説することにして、ここでは話をアリストテレスに戻して進めていこう。


 それはヒュポケイメノンのことだ。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る