第13話 本質主義

 アリストテレスは、上記のようなミスをしなかった。しかし、同時に彼は単語単体を「定義」、単語を組み合わせたものを「指示」という分類もしなかった。


 なんと彼は、単語単体を、


(1)まさにそれであるもの(本質存在=実体)

(2)どれだけか(量)

(3)どのような(性質的なもの)

(4)何に対する(関係的なもの)

(5)どこか(所)

(6)いつか(時)

(7)置かれている(態勢)

(8)持っている(所持)

(9)作用する(能動)

(10)作用を受ける(受動)


 に分類したのである。

 アリストテレスの狙いは明らかだ。彼は単語の定義を本質的なものとそうでないものに分別したかったのだ。


 数学記号の1の定義が、数式や文章によって変化してしまうと、共通認識が成立しなくなるので(最低でも1つの数式の中では)変えてはいけない、という話は前述した通りだ。そして、アリストテレスはこのルールを本質、あるいは実体だと誤認したのである。


 アリストテレスは、これ以外の(2)~(10)についても解説しているが、本項の本筋から逸脱するので割愛する。また、それらはまとめて「付随的・偶有的」と呼ばれることもある。


 偶有とは、「偶然有る」ぐらいの意味で、古代ギリシア語ではシュンベベコスsymbeb?kos。日本語に直訳すると、「共に居合わせる」という意味になるので、付随的とも訳される。


 シュンベベコスsymbeb?kosのラテン語訳はaccident。英語にしてもaccident。そう、アクシデントのことだ。日本語にすると、事故とか思わぬ出来事になるが、そこから付随的を想起するのは不可能だ。


 さて、話を本質に戻すが、アリストテレスは『カテゴリー論』の第五章で、本質存在、あるいは実体を以下のように分類している。


 さて、最も本来的でかつ第一義的そして最もすぐれた意味で、まさにそれであるもの(本質存在)と呼ばれるのは、ある何らかのヒュポケイメノンについて語られるものでもなく、あるヒュポケイメノンのうちにあるものでもない、という条件を満たすものである。たとえば、特定のある人間、あるいは特定のある馬がそうである。これに対して「第二の本質存在」と呼ばれるのは、第一の本質存在と呼ばれるものがそのうちに帰属する(種)、及びにそのような(種)を包括する(類)である。


 この文言は分かり易い。


 第一字義的な本質的存在(実体)とは、


ある何らかのヒュポケイメノンについて語られるものでもなく、あるヒュポケイメノンのうちにあるものでもない、という条件を満たすもの


なのだから、


(4)ヒュポケイメノンに無く、ヒュポケイメノンについて語られない。


が該当する。その具体例に関して、アリストテレスは、


 たとえば、特定のある人間、特定のある馬がそうである。


と説明している。つまり、たとえばアリストテレスという個人、あるいはオグリキャップという名前の固有の馬、などがこれに該当する。


 また、第二の本質的存在(実体)に関しては、


第一の本質存在と呼ばれる呼ばれるものがそのうちに帰属する(種)、及びにそのような(種)を包括する(類)である。


 と説明しているので、たとえば


 アリストテレスは人間である。


 という文章があったとしたら、アリストテレスが帰属する「人間」という概念がこれに該当する。樹形図に直すと、


人間

アリストテレス


 だ。


 ここまでの説明で、アリストテレスの分類法の大まかな理解が可能になる。


 アリストテレスは、単語単体の場合と2つ以上の単語を組み合わせた場合に分けて説明しているのだが、単語を組み合わせたものによって、単語単体を「本質的か・そうでないか」に分類しようとしているのだ。


 そして、アリストテレスが内在説である以上、何らかの物質なり事象の「見えない部分」には、「見えている部分」よりも重要な何かが隠れていなければならない。従って、それらを1つのまとまりにしたカテゴリーよりも、そのカテゴリーを構成する個々の存在の方が重要になる。


 これを本質主義という。


 認識を視覚と同一視している、すなわち世界を「見える・見えない」で分けている人間にとって、本質主義は自明の考え方なので、これを疑うことはまず無い。


 イデア論のように、この世界とは異なるイデア界がある、という設定の場合は「本当にそんな世界があるんだろうか?」と疑うタイプの人でも、まず本質主義は疑わない。


 これが本質主義の怖ろしいところだ。


 認識とは規則性の把握だ。だから、規則性さえ把握できるのであれば、それが目に見えなくとも、たとえば数学のような概念でも問題なく理解できる。


 しかし、認識を視覚と同一視する、あるいは特殊な視覚の一種であると理解している人間にとって、世界は「規則性があるか・無いか」ではなく「見えるか・見えないか」で了解されている。


 これが全ての論理的な間違いの始まりなのだが、まず厄介なことに世界を「見えるか・見えないか」で分けることは、倫理的なルールに抵触しない。というのも、ほとんど宗教が、この視覚のアレゴリー(比喩)を使って自分たちの教義を説明したり正当化しているからだ。


 次に、世界を「見える・見えない」で分けることそのものは、論理的に間違っていない、という点をあげられる。間違っているのは、あくまでも認識と視覚を同一視することであって、単に「見える・見えない」だけを取り上げるのであれば、そこに論理的な矛盾はない。


 以上の2つの理由から、認識と視覚を同一視している人達は、自分の認識論が間違っているという事実に気付かないというか、疑う動機が無い。


 世界には見える部分と見えない部分がある。


 ある事象にも、同様に見える部分と見えない部分がある。


 そして、見えない部分には本質(実体)が「隠されている」。


 という考え方を、まるで当然のように受容してしまう。

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