第12話 実体(本質存在)

 もっとも、世界を「見える・見えない」で分けない人間にとって、彼及びにその後継者の論旨は明らかにおかしい。この点に関して、具体的に検証していこう。


 これも繰り返しになるが、アリストテレスはイデア論を否定するために内在説を採った。


 ただし、彼は物体は質料(ヒュレー・材料)と形相(エイドス・本質、あるいはそれが何のためにあるのかを指し示す何か)で構成されているとした。


 その際に、アリストテレスは最も重要な要素を実体=ウーシア(ousia)だとした。

(注・『新版 アリストテレス全集』では、本質存在と和訳されている)

このウーシアとは、古代ギリシア語で「~である」に該当するエイナイ(einai)の女性分詞形ウサ(usa)から派生した言葉で、土地や財産を意味する単語である。


 「~である」が実体?


 財産が実体?


 まず、上記の説明だけだと、ほとんどの日本人がこのような感想を抱くだけだろう。常識的に考えるのであれば、「~である」という単語は、文法という規則によって並べられている、単なる記号に過ぎないからだ。


 では、アリストテレス自身の説明はどうか?


 彼は『カテゴリー論』の第四章の中で、次のように説明している。


 いかなる組み合わせにももとづかずに語られるもののそれぞれは、次のいずれかを表示する。

(1)まさにそれであるもの(本質存在=実体)


(中略)


(1)本質存在は、たとえば人間、馬


(後略)


 これを読んだだけでは、アリストテレスが何を言いたいのかは、やはり不明瞭だ。『新版 アリストテレス全集』では、『カテゴリー論』以外のアリストテレスの著作に用いられているウーシアの使い方から、それが「何であるか」、あるいは「何か?」と同意であると推定しているが、恐らくこれが正しい理解だと思われる。


 つまり、ウーシアとは「~は何であるか」なのだから、それがたとえば馬だとしたら、「馬とは何であるか」となる。これは、要するに「定義」のことだ。


 文章は単語単体と、それらを文法などの規則に則って組み合わせたものに分類可能で、単語単体の場合は、それが意味するものは「定義」、組み合わせられたものが意味するものは「指示」、と分けて認識しなければ正確な理解は不可能だという話を、「トラと文化」という例で説明したことを思い出して欲しい。


 また、アリストテレスが『カテゴリー論』の第二章において、分類を単語単体と単語を組み合わせたものに分けていたことも思い出して欲しい。


 そう、アリストテレスは、この2つを別物だと認識していた。この点では、アリストテレスはどちらも「意味」として解釈してしまう人達(その中には、現代人も多数含まれている)よりも、遙かに論理的だったと言える。


 これは認識論を理解する上で決定的に重要だからもう一度説明するが、単語に紐付いているのはあくまで「定義」だけだ。


 たとえば、「花」という単語の定義が「植物が有性生殖を行うための器官」だとしても、その「花」という単語単体では、それが「薔薇の花」なのか「百合の花」なのかは分からないし、あるいはそれが「公園に咲いている花」なのか「教室の花瓶に飾られた花」なのかも分からない。


 何故なら「花」という単語の「定義」に、「薔薇」や「百合」や「公園」や「教室の花瓶」は「含まれていない」(これが視覚のアレゴリーである事を理解した上で読んでいただきたい)からだ。従って、「花」という単語単体では、それが具体的にどのような種類の花で、またどこに存在するかに関しては「決まっていない(未決定)」と言える。


 それらを決定するのは、単語の組み合わせだ。たとえば、「薔薇」+「花」なら「薔薇の花」になる。これを「指示(もしくは指し示し)」と呼ぶ。「花」という単語は、「薔薇」という単語と組み合わされることによって、初めて「どんな種類の花か?」が確定する。


 これは場所も同様で、「公園に咲く」という単語と「花」を組み合わせることによって、初めて「どんな場所に咲いているのか」が確定する。


 ところが、単語単体と単語の組み合わせを同一視していると、「花」という単語の意味に、「薔薇の花」も「百合の花」も含まれていなければならないし、「公園の花」も「教室の花瓶に飾られた花」も含んでなければならなくなる。


 そうなると「花」という単語の「意味」にあらゆる「花に関する種類や事象」が含まれている必要が生じるので、「全ての花」を包括する概念が必要になってくる。


 これがイデアだ。


 従って、イデア論者は単語単体の「定義」と2つ以上の単語を組み合わせた「指示」の区別がつかない。それらを一括して「意味」として理解しているからだ。


 また、イデア論者はそれらの無数にある単語の「意味」を決定するのが「文脈」だと理解している。


 たとえば、先述した「薔薇の花」という単語の組み合わせがあったとしたら、それを「指示」だとは理解せず、「薔薇の花」という文書の文脈によって、「花」という単語に含まれている無数の意味から、文脈によって「薔薇」が選択されていると考えるのだ。


 これが如何におかしいかは、自然言語と比較すると厳密な定義が成されている、数学記号で考えると解りやすい。


 たとえば、1という数字があったとして、これを数学記号と組み合わせて、


1+2=3


1-1=0


 という数式を書いたとしよう。単語単体の「定義」とそれらを組み合わせた「指示」を区分して考えられるのであれば、1+2であろうが、1-1であろうが、1の定義自体は「変わらない」というルールに同意できるはずだ。


 ところが頭の中で「定義」と「指示」が厳密に区分できていないと、1+2と1-1は「文脈」が異なるので、それぞれの数式で1の「定義」が異なるという結論を受容してしまう。つまり、1の「意味」の中に、1+2だった場合や1-1だった場合があると考えてしまうのだ。


 これでは「規則性」が担保できない。1+2と1-1における1の「定義」が異なるのであれば、1という記号が書いてあっても同じ1という意味では無いことになってしまうからだ。


 また、この考え方をしている限り、その人は数式なり言葉なりを丸暗記する以外の選択肢が無くなってしまう。本稿で執拗に「規則性」と「定義」と「指示」を説明しているのはこれが理由で、恐らくこの文章を読んでいる段階で、3つの概念を理解できない人は振り落とされているだろうから先に進む。

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