第11話 「ヒュポケイメノンに無い」のもう一つの場合

 では、最後に残った、


(4)ヒュポケイメノンに無く、ヒュポケイメノンについて語られない。


 はどうだろうか? アリストテレスは、これに関して、


 たとえば、特定のある人間、特定のある馬がそうである。


 と簡潔に説明している。


 要するに、それは例えばアリストテレスという特定の個人であったり、オグリキャップという特定の馬だったりするということだ。


 しかし、前述したように「ヒュポケイメノンに無い」は曖昧な概念だ。この場合の具体例を、アリストテレスは提示していない。


 また、少なくとも


(1)ヒュポケイメノンに無く、ヒュポケイメノンについて語られる。


 の事例で説明した、


人間はアリストテレスである。


 のような、論理的に有り得ない単語の組み合わせではない可能性が高い。というのも、アリストテレスはこの項目で、人間と特定のある人間を比較していないのである。


 では、一体アリストテレスは何を想定していたのか?


 これは、あくまでも私の推定だが、彼が考えていたのは「樹形図の最下層を特定の個人や特定の動物にする」という構想だったと思われる。


 たとえば、樹形図の最も下の部分がアリストテレスという特定の個人だったとすると、それよりも下位のカテゴリーは存在しないため、たとえばXという単語を使った、


 Xはアリストテレスである。


 という文章は作れない。正確には、


 アリストテレスはアリストテレスである。


 という同意反復(トートロジー)は書けるし、それは論理的に間違っていないのだが、樹形図を前提とした分類を想定すると、この考え方は受け入れがたい。樹形図に直すと、


アリストテレス

アリストテレス


 になってしまうからだ。


 そして、特定の個人よりも下位のカテゴリーが無ければ、この特定の個人に関わるヒュポケイメノンも存在しないため、ヒュポケイメノンの内にあることができない(つまり無し)し、ヒュポケイメノンについて語ることもできない(つまり語られない)。


 従って、樹形図で考えると「ヒュポケイメノンの内に無い」パターンというのは、


(1)上位カテゴリーを主語、下位カテゴリーを述語とした「XはYである」という文章が論理的におかしいケース。たとえば「人間はアリストテレスである」のような文章が該当する。


(2)そもそも、樹形図的に最も下層のカテゴリーなので、ヒュポケイメノンに相当する下位カテゴリーを見いだすことができないケース。たとえば、アリストテレスという特定の個人は、それよりも下位のカテゴリーが無いので「Xはアリストテレス」である、という文章が書けない。


 の2通りが考えられる。これでは、後代の哲学者が複数の解釈を想定するのも仕方がない。


 さて、以上のように『カテゴリー論』を延々と説明したのには理由がある。


 日本語で『カテゴリー論』を現代の数学や論理学を前提として解説した書籍や論文が存在しないのだ。


 ところが、この部分をきちんと把握していないと、西洋哲学史を勉強しても単なる個別の思想家の論説を丸暗記するだけになってしまう。


 そこで、もう一度プラトンからおさらいをしていこう。


 まず、倫理観や数学のように五感で認識できない何かを、人間はどのように認識しているのか、という謎がある。


 これを、認識が視覚の一種であり、世界を見える・見えないで分けてしまう(これを視覚のアレゴリーと呼ぶ)人達が、合理的に説明しようと試行錯誤した結果、その1人であるプラトンが、我々の世界の外部に五感では認識できない何かを認識可能にする光のようなものが存在する世界(これをイデア、あるいはイデア界と呼ぶ)があるに違いないと主張した。


 このイデア論に対して、プラトンの弟子だったアリストテレスが反発し、イデア論無しでの合理的な説明を試みた。その結果として、以下の理論を主張した。


(1)五感とは無関係なイデアなる存在があったとして、それがどうやって五感と結びついているのか、という合理的な説明が無い以上、イデア論は間違っている。


(2)認識が五感と結びついている以上、認識を可能にさせる「何か」は、そのモノ自体に「隠されて」いる(内在説)。


(3)しかし、イデアが存在しない以上、五感では認識できない何かを認識する能力は、内在する何かが、その内在する何かの外側によって決定され、かつ何かの外部(これは、イデアのように世界の外部では無い)から学習することによって成立する。


(4)これらの事象を説明するのに、「ヒュポケイメノンに在る・無い」と「ヒュポケイメノンについてついて語られる・語られない」の組み合わせ、合計で4通りの分類が可能である。


 こうやって並べると明らかなように、アリストテレスの認識論のベースにあるのは、反イデア論である。逆に、アリストテレスの認識論が反イデアだと理解していないと、彼の説明が何を指し示しているのかがほとんど分からなくなる。


 ただし、繰り返しになるが、同時にアリストテレスは世界を「見える・見えない」に分けるという、視覚的アレゴリーも放棄していない。


 このため、アリストテレスの認識論は間違っているのだが、それはイデア界という空想上の異世界を想定しているイデア論ほど分かり易くない。


 アリストテレスがやって見せたように、イデア論を否定するのは簡単だ。五感では認識できない何かを認識するための光が、一体どこから発しているのかを証明する方法が無ければ、イデアがあると断言することは不可能だからだ。


 もちろん、それだけではイデアが無いことの証明にはならないのだが、あると断言するだけの何らかの根拠がない以上は仮説でしかないのも事実である。


 一方、アリストテレスの認識論は、そもそもイデアを否定しているので、これほど簡単に「ある・無い」という論争はできない。その分だけ、否定することが難しい。

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