第9話 ヒュポケイメノンと樹形図

 次に「ヒュポケイメノンに無い」の定義を考えていこう。アリストテレスは、


(1)ヒュポケイメノンに無く、ヒュポケイメノンについて語られる。


 の解説の際に、それを


 たとえば、人間は、特定のある人間をヒュポケイメノンとして、それについて語られるが、いかなるヒュポケイメノンの内にも存在しない。


 と説明しているのだが、これもやはり何を言っているのかさっぱり判らない。


 これを理解するためには、まずこの文章で述べるところの「人間」とは、人間全体を包括するカテゴリーのことを指していることを理解する必要がある。


 次に、「人間」と「特定のある人間」を先述した樹形図に当てはめて想像してもらいたい。


人間

特定のある人間


になるはずである。


 また、この場合は「人間」というカテゴリーのサブカテゴリーとして、特定のある人間、たとえばアリストテレスという個人が存在する、と考える。


 すなわち、樹形図的には


人間

アリストテレス


になるはずだ。


ここで、


 まず、アリストテレスは『カテゴリー論』の第二章冒頭で、事象の「言語による」説明を、組み合わせに基づくものと組み合わせに基づかないものに分類する。この、「組み合わせに基づかない」ものとは、単語単体のことを指し示している。


 では、組み合わせに基づくものとは?


 これは「XはYである」のような単純な文章を意味している。たとえば、「私は人間である」のようなものだ。


 と書いていたことを思いだして欲しい。


 つまり、


人間は、特定のある人間をヒュポケイメノンとして、それについて語られる


 というのは、


「人間」は「アリストテレス(正確には、特定のある人間であれば誰でも良い)」をヒュポケイメノンとして、それについて語られる。


 と読み替えることができる。


 そして、それは組み合わせに基づくものであるから「XはYである」のような単純な文章になるはずだ。


 となると、この場合のヒュポケイメノンとは「アリストテレス(正確には、特定のある人間であれば誰でも良い)」になり、それについて語られるのが「人間」ということになるので、


 アリストテレスは人間である。


 という文章に読み替えることができる。


 これが「ヒュポケイメノンについて語られる」の具体例だ。厄介なのが「語られる」という言葉が自然的な言語使用とはかなりズレた使い方をされていることで、これは繰り返しになってしまうが「XはYである」、もっと厳密には「2つの単語を組み合わせている」ぐらいの意味だと理解しておけば良い。


 この部分は、単純に文章に書かれていることを理解しようとすると混乱するだけだから、並行して樹形図を思い描く必要がある。


 問題はここからだ。これも繰り返しになるが、アリストテレスは、


 たとえば、人間は、特定のある人間をヒュポケイメノンとして、それについて語られるが、いかなるヒュポケイメノンの内にも存在しない。


 と説明している。この場合のヒュポケイメノンは「アリストテレス」だから、先述した


 アリストテレス(特定のある人間であれば誰でも構わない)は人間である。


 という文章において、アリストテレス(特定のある人間であれば誰でも構わない)の中には人間が内包されていないことになる。


 これは非常に曖昧な説明だ。


 アリストテレスは「ヒュポケイメノンにある」ことを、


「ヒュポケイメノン(基に措定されたもの)にある」というのは、何かの内に、それの部分としてではなく帰属し、それがその内にある当のものから離れて存在することが不可能である、というもののことである。


 と説明していた。従って、ヒュポケイメノンの内に無い、すなわちヒュポケイメノンにあるの否定形を定義づけようとすると、


(パターン1)

何かの内に、それの部分としてではなく帰属し、それがその内にある当のものから離れて存在することが不可能「ではない」


(パターン2)

何かの内に、それの部分としてではなく帰属「せず」、それがその内にある当のものから離れて存在することが不可能である


(パターン3)

何かの内に、それの部分としてではなく帰属「せず」、それがその内にある当のものから離れて存在することが不可能「ではない」


と、たちどころに3つのパターンを思いつけてしまう。


 結論から言うと、これらのパターンの中でどれが正解なのかはハッキリしていない(恐らく2通りだが、これに関しては後述する)。


 ただし、正確では無いにせよ推測は可能である。


 我々が内在説と言う言葉を聞いた時に漠然とイメージするのは、何らかの物体の内部に、何か物体を構成する決定的な要素が「隠れている、あるいは隠されている」というものだ。


 従って、常識的に考えるのであれば、「人間である」とされた特定のある人間の内側には、人間だとカテゴライズされるのにふさわしい何かが「隠れている、あるいは隠されている」ような気になってしまうのだが、これを樹形図で考えた場合、


人間

特定のある人間


 なので、人間のサブカテゴリーが特定のある人間であっても、特定のある人間のサブカテゴリーが人間にはならない。つまり、特定のある人間の内側に「人間」というカテゴリーは存在しない。


 これを文章に変換すると、


 人間は特定のある人間である。


 となるのでおかしい、ということだ。


 ただし、これでも何を言っているのか解りづらいので、先ほどと同じように「特定のある人間」を「アリストテレス」に置き換えてみると、


 人間はアリストテレスである。


 となって、その論理的なおかしさが認識し易い文章になる。


 説明するまでも無いだろうが、この文章がおかしいのは、人間はアリストテレスとは限らない、つまりソクラテスかも知れないし、プラトンかも知れないし、この文章を書いている私かも知れないし、この文章を読んでいるあなたかも知れないのに、「アリストテレスである」と断言してしまっている事に原因がある。


 そして、現代であれば「特定のある人間」は「人間」という集合の元である、と解釈することが可能だが、古代ギリシャには集合の概念は無い。また、アリストテレスの文章を編纂したとされるロドスのアンドロニコスが生存した時代にも無かったはずだ。


 従って「ヒュポケイメノンに無い」とは、下位カテゴリーがヒュポケイメノンだった場合、その上位カテゴリーは下位カテゴリーの内側に存在しない、ということになる。


 これは物凄く変な言い方だが、内在説と樹形図を並べて語れば、そうならざるを得ないのだ。

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