第7話 反イデア論
プラトンの著作は後世の西洋哲学の主要な模倣対象となった。イギリスの哲学者であるアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861~1947)は、著書である『仮定と実在』の中で、
西洋の哲学的伝統についての最も穏当な一般的特徴づけは,それがプラトンへの一連の脚注からなっている,というものである。私が言いたいのは,学者たちが彼の諸著作から怪しげなやり方(doubtfully)で引き出してきた・体系的な思想の枠組のことではない。それらの著作中にばらまかれている・豊かな一般的諸観念のことを,私は示唆しているのである。
(邦訳は「プラトン的直観」・中釜浩一からの引用)
と、その「影響力」が大きかったことを述べている。西洋の哲学者にプラトンが好まれたのには様々な理由が考えられるがやはり「見える・見えない」で世界を分別する方法が、認識と視覚を同一視しがちな人々にとって、取り付きやすかったというのがあるだろう。
つまり、まず世界を見える・見えないで分別し、そこから「見えないものの方が重要である」という結論さえ導き出せれば、後はどんな「設定」にしようが構わない、というお手軽さが受けたのだ。
そして、ホワイトヘッドが指摘しているように、それらの大半は方法論としてdoubtfully=疑わしいものだった。そうなってしまった原因は、学者の質の問題でもあるのだが(そもそも、論理的な思考が出来るのであれば、プラトンをベースに論理構築をしようとは思わないだろう)、ベースとなったプラトンの考え方、この場合は認識と視覚を同一視する、がおかしいというのが大きい。
このイデア論のおかしさに早い時期から気がついていた人物がいた。アリストテレス(紀元前384年~紀元前322年)である。
アリストテレスはアテナイで20年ほどプラトン門下として勉学に勤しんだとされており、プラトンの死後は何らかの理由によってアテナイを離れて独自の学説を打ち立てた。その彼が執拗に攻撃したのがイデア論だった。
イデア論は数学のように五感では認識し得ない事象を、どうやって認識しているのかという疑問に対して、現実世界では無い=目に見えないイデアを想定することで説明をしようとしたものだ。従って、イデア自体は五感とは直接的な関係性が無い。
アリストテレスが気に入らなかったのはこの点で、彼はイデアが五感と無縁であるならば、五感による認識もイデアとは無関係に起こると批判した。そして、五感と関係のある事象を認識するための要素は、認識の対象となっている物自体に含まれていると考えた。これを内在説と呼ぶこともある。
問題は、内在説では数学などが認識できる理由を説明できない点にあった。そこで、アリストテレスは、面白い解決方法を導き出した。物は質料(ヒュレー・材料)と形相(エイドス・本質、あるいはそれが何のためにあるのかを指し示す何か)で構成されている、としたのである。
ただし、ヒュレーとエイドスの関係は絶対的では無く、ヒュレーとされた対象がエイドスになる場合もあった。例えば、木と木材の関係は、木がヒュレー(材料)で木材がエイドス(木という材料を利用して、建築という目的のために作られたもの)になるが、木材とそれを利用して造られた建物の関係は、木材がヒュレーで建物がエイドスになる。
このように、相対的なヒュレーとエイドスの関係が極限までいくと、相対的な関係にすることが不可能な「ヒュレーのためのヒュレー」(第一質料=プロテー・ヒュレー)と「エイドスのためのエイドス(第一形相=プロテー・エイドス)」があるはずだ、というのがアリストテレスの想定だった。
ただし、五感と関係のある世界では質料と形相は不可分の関係なので、第一質料と第一形相は、現実世界に存在し得ない。従って、それは五感を超越した存在であるということになり、アリストテレスはそれを神(テオス)と名付けるのである。これなら、五感で認識し得ない事象も、神の領域として処理出来るようになる。
つまり、アリストテレスはイデアを批判したのであって、感覚を超えた世界なり存在なりを否定したわけではないのだ。
また、ここから先が重要かつ混乱の原因になるのだが、アリストテレスは上記の疑似理論体系の根拠を彼独自の分類方法に求めた。この方法論は、現在では『カテゴリー論』あるいは『範疇論』という文章の中で確認可能だが、同書はアリストテレスが編纂したものでは無く、本人が書いたとされるいくつもの文献を、彼の死後300年近く経った後でロドス(ロードス島)のアンドロニコス(紀元前1世紀頃?)という人物が注釈をつけて並べ直したものである。
まず、アリストテレスは『カテゴリー論』の第二章冒頭で、事象の「言語による」説明を、組み合わせに基づくものと組み合わせに基づかないものに分類する。この、「組み合わせに基づかない」ものとは、単語単体のことを指し示している。
では、組み合わせに基づくものとは?
これは「XはYである」のような単純な文章を意味している。たとえば、「私は人間である」のようなものだ。
前述したように、現代では単語単体は「定義」、それらを文法のような規則性のある方法で組み合わせたものを「指示」と呼んでいるが、アリストテレスもこの2つが異なる使用法であることを理解していた。
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