第6話 定義と指示

 それでは、トラという単語単体は一体何を指し示しているのか? ここからが、非常に判りづらい点なのでゆっくり考えて欲しいのだが、実はトラという単語そのものは何も指し示していない。


 一体どういうことなのか? トラという単語は、トラという動物を指し示しているのではないか、という疑問を持つ方が出てくるだろうから、結論を述べてしまうと、トラという単語が紐付きになっているのは、「指示」ではなくて「定義」なのだ。


 それでは、定義とは一体何なのか? それは「概念の内容や用語の意味を正確に限定すること。また、その命題や式」のことだ。元々はフランス語であるdefinition の訳語で、de+finition (仕上げ、または仕上がり)だと言われている。英語にすればfinishing。これも意味は「最終的な仕上げ」である。


 つまり、定義とは「最終的に仕上げられた」もので、これを単語に適用した場合は「これが最終的に決められた意味で、これ以降は変わりませんよ」という意味になる。

 もちろん、現実に使用されている単語の定義は、時間の経過と共に変化する。だから、「最終的に決まったこと=変わらないくなった意味」であっても、何年か何百年すると定義が変化してしまうことはあり得る。


 また、単語によっては複数の定義が存在するものもある。これは自然言語が厳密性を欠いている賜物で、詳細に関しては後述する。


 ただし、議論の最中などに単語の定義が勝手に変わってしまうのはマズい。例えば「トラはネコ科の大型獣の一種である」という定義が、議論の最中に「目に見えないほど小さな昆虫の一種」に変わってしまえば議論が成立しない。片方がネコ科の大型獣を想起しているのに対して、もう片方は目に見えない昆虫の一種を想起しているからだ。


 また、この方法だと疑問が1つ生じる。それは「トラと文化」とか「トラと自然環境」という風に、別の単語との組み合わせが生じた時に、トラの定義は変わらいないのか、というものだ。


 これはトラだと説明が難しいので、別の分かり易い単語を使おう。自由だ。「自由」という単語との定義は「他からの束縛を受けず、自分の思うままにふるまえること」である。ところが、自由という単語を他の単語と組み合わせると、この定義とは異なる意味が示される事態が頻繁に起こる。


 例えば、フィギュアスケートの自由演技、修学旅行の自由時間、表現の自由は、同じ自由でも想定されるシチュエーションが全く異なる。これは「定義が変化している」と受け取るべきではないのか?


 もっと露骨に変化するパターンもある。例えば「花」だ。花の定義は「ある時期に開き、多くは美しい色やよい香を有する、高等植物の繁殖をつかさどる器官」である。ところが、花という単語を他の単語と組み合わせると、例えば「梅の花」と「薔薇の花」と「百合の花」では種類が全く違う。


 場所も同様に変化する。例えば「公園で咲く花」と「私の家の庭で咲く花」と「ホテルのエントランスに飾られた花」では、場所すら違っている。これは「定義が変わっている」証拠ではないのか?


 しかし、そうは言っても、我々は「自由」と言われたら、漠然と自由の定義を思い出せるし、「花」と言われたら漠然と花の定義を思い出せる。だが、自由という単語の定義に「修学旅行の自由時間」が入っているとは思えないし、花という単語の定義に「隣の家の庭に植えてあるキンモクセイの花」が入っているとも思えない。これは一体……というのが、古の哲学者の何人かが興味を惹かれた謎だった。


 「見える・見えない」で世界を分別している人にとって、この謎の合理的な解決方法はおおよそ2種類になる。


 1つは、我々には「隠された」世界に「花」という言葉や「自由」という言葉の本質が存在し、それが「表現の」とか「修学旅行の」等の単語と何らかの方法で「接続」されるることによって、自由という単語の定義と同時に個別の情報も伝えられる、という考え方だ。


 もう1つは、「自由」という単語そのものに「本質」が内包されており、「表現の」とか「修学旅行の」という単語は枝葉に過ぎないので影響を受けない、という考え方だ。


 前者の代表的な考え方がイデア論だろう。イデア論は古代ギリシャの哲学者である、プラトン(紀元前427年~紀元前347年)が唱えたとされる説だ。イデアとは古代ギリシャ語のideinを語源に持つ単語で、「見られる」という意味があった。また、そこから転じて見られる対象の姿形であると理解されている。


 ただし、イデアはただの姿形では無い。それは不変であり、理想型であり、我々の世界には存在しない。イデアは太陽に喩えられる。太陽それ自体は見る対象ではないが、太陽(の放つ輝き)なしで、何かを見ることは不可能だ。


 つまり、陽光があることによって、照らされた物体を目で「見る」ことが出来るように、イデアが存在することによって、人間は何かを「認識」することができる。ここまで説明すれば明らかなように、イデアは認識を視覚と同一視、あるいは類似の機能だと仮定して生み出された「異世界設定」なのだ。


 この文章の冒頭で説明したように、多くの哲学や宗教では、認識と視覚を同一視する。そのため、視覚的には「見えない」が「認識」できてしまう事象に対して、どのように説明するかが1つのポイントとなる。


 多くの研究家が指摘しているように、イデアは倫理と数学をどう認識しているかから構想され、人間が仮想の空間に点や線を設定する数学を認識できる以上、仮想世界を照らす光が無ければ不可能である、という結論から導き出された。


 つまり、目で見えないものを見るためには、それ専用の光が必要だと考えたわけだ。認識と視覚を徹底的に同一視したのである。

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