第4話 達磨安心
だが、目に見えないもの、隠されたものの方が、目に見えるものよりも重要である、という根拠はどこにもない。この反証を分かり易く説明した物語として、禅宗の開祖とされる達磨(生没年不詳)とその弟子である慧可とのやり取りを例出する。以下が日本語読み下し文となる。
達磨面壁(めんぺき)す。二祖雪に立ち、臂(ひじ)を断って云く、弟子心未(いま)だ安(やす)からず、乞(こ)う師安心(あんじん)せしめよ。磨云く、心を将(も)ち来たれ、汝が為に安んぜん。祖云く、心を覓(もと)むるに了(つい)に不可(ふか)得(とく)なり。磨云く、汝が為に安心し竟(おわ)んぬ。
この短い説話は、雪中で座禅を組んでいる達磨のところに弟子入りを希望した慧可(えか。原文では二祖。禅宗において、達磨の次の祖=二代目と考えられているためである)が現れ、自らの肘を切り落とすと「私は心が乱れて仕方がありません。どうか、この心を落ち着かせて下さい」と懇願するところから始まる。
これに対して、達磨は「わかった。それではお前の心をここに出しなさい。落ち着かせてあげよう」と返答する。当然ながら、心には物理的な存在ではないので慧可は心を出すことが出来ない。
そこで、慧可が「心を出すことは出来ません」と言うと、達磨が「お前の心の乱れを直したぞ」と返すところで物語は終わる。
この達磨安心(だるまあんじん)という説話では、目に見えない、実体のない慧可の不安は慧可の心の問題に過ぎず、(見えるものよりも)価値があるどころか彼を苦しめる虚妄として描かれる。つまり、目に見えないというだけで目に見えるものよりも価値がある、という扱いは受けていない。
それどころか、それは虚妄、すなわちパワーも何も無い心理的な現象として喝破される。仏教は悟りの境地に到達することが最終目標なので、何かに固執することを忌避するが、達磨安心の説話では「安心したい」という欲求そのものが固執であり、慧可を苦しめる原因であると考えられている。
また、禅宗ではこうした固執を「莫妄想(まくもうぞう)」と呼んで禁止する。莫はなかれ、すなわち禁止の意味で、妄想とはとらわれの心によって、真実でないものを真実であると、誤って意識することを意味する単語で、要するに「間違いを頭の中でこねくり回すな」ということだ。
例えば、安心したいと思っているということは、既に不安な精神状態なのだから、まず不安になるような(現実では起こっていない)妄想を止めれば良いではないか、と考えるのが莫妄想で、これは見える・見えないで世界を分けるという価値体系にも適用される。
見える・見えないに固執するのは、見えない、隠れた、あるいは隠されていた何かに真実がある、あるいはパワーがあると考えているからだ。しかし、実際には「見える・見えない」と「価値がある・価値が無い」は個別の要素だから、見えないものでも価値は無いかもしれないし、見えるものでも価値があるかもしれない。
ところが、陰謀論者にはこの場合分けが理解できない。彼らにとって見えないものが見えるものよりも価値がある(これは、単に倫理的・営利的な意味で価値があるというわけではなく、価値があるものの中には有害であるケースも含まれる)事は自明なのだ。何故なら繰り返しになるが、世界は決定論的に出来ていて、全てが「見える」全能の存在であれば未来予測が可能だからだ。
また、もしも世界に「見えない」部分が存在するのであれば、それは「見えていない」側が不完全な存在である証拠になる。更に、不完全な存在が「見えない」対象を「見る」ことが可能な存在は、より優れた存在である証拠にもなる。
すなわち、陰謀論者にとって、「見えない」または「隠れている」部分が「見える」存在は優れている。逆に、「見えない」または「隠れている」部分が「見えない」あるいは「見ようとしない」、あるいは「見る必要を感じない」存在は劣っているわけだ。
例えば、絵画や彫刻、写真、漫画などを、その外面だけで評価するような態度や価値体系がこれに該当する。何故なら、優れた存在であれば、そもそもそうした対象に価値を見いださないか、もしくはそれらの作品に「隠されている」あるいは「見えない部分」を発見するように努めるはずだからだ。
これは、創作物だけで無く生身の人間にも適用される。つまり、他人を容姿で評価するのは、その人間の「見えない」部分、例えば内面を「見ようとしない」から劣った考えで正すべき、ということになるわけだ。
ここで面白い現象が起きる。見える・見えないでしか世界を認識できない人にとって、写真や絵画と人間の外観は「見える」という意味で同じなのだ。例えば、現実に生きているトラと、そのトラを描いた絵を想像して欲しい。
見える・見えないで世界を認識「していない」人間にとって、トラの絵は生きているトラの模倣物に過ぎない。ところが、見える・見えない「でしか」世界を認識できない人間にとって、それほど話は簡単では無い。
何故なら、トラの絵には生きているトラと同様に、「見えない部分」が隠されているはずだからだ。そして、その「見えない部分」にこそ、重要な何かがあるはずだからだ。
そうなると、見える・見えないでしか世界を認識できない人は、何としてもトラの絵から「隠された何か」を見つけだす必要性に迫られる。それは、そのトラの絵を描いた人の「意図」かもしれないし、あるいはそのトラの絵が見る者に与える「視覚的効果」かもしれない。
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