第3話 陰謀論的認識

 陰謀論的世界では、まず世界は我々が見ている、もしくは見えている部分と、見ていない、あるいは見えていない、もしくは隠れた、あるいは隠された部分で構成されている。そして「隠された部分」も決定論的な要素で構成されている。むしろ「隠された部分」の論理なりルールなりが、世界のあり方を決定していると考える。


 もっと極端になると、隠された部分に人間が認識できないパワーが潜んでおり、それが隠されていない、すなわち見える部分を決定していると考える。


 この考え方は「見えている部分」に対する軽視や軽蔑を引き起こす可能性が高い。「隠された部分」に潜んでいるパワーが、「見えている部分」よりも、より世界のあり方に強い「影響」を与えているのであれば、「見えている部分」を重視する必要が無くなるからだ。


 それは、死後の世界や異世界を仮定するタイプの宗教そのものだ。また、こうした考え方を受容する人は、「見えている部分」に対して何らかの嫌悪感情を抱えていることが多い。


 そして、この感情が選民思想と一体化すると「隠された世界の真実を知っている私(あるいは我々)は優れている」という、現実とは真逆な結論に到達する。もちろん、現実には、世界を「見えている部分・見えていない部分」に分ける考え方自体が、視覚に固執していて論理的ではなく、むしろ知能的には優れていない証拠なのだが、本人達にそのことを幾ら説明しても、まず納得することは無い。


 この辺で、幾つか具体例を挙げていこう。まず、「見えている部分」への嫌悪感の代表的事例として、ミスコンテスト(あるいはミスターコンテスト)批判を考えていこう。


 我々の多くは、親権者から「人を見た目で判断するな」という趣旨の忠告を受けて育つ。外見から受ける印象と、その人の行動なり価値観なりが一致しない事の方が普通だからだ。


 たとえば、見た目が優しそうな人物が連続殺人犯だったり、逆にいかつい外見の人物が優しい性格だったりと、外見と性格やプロフィールが一致しない事はよくあるし、詐欺目的などで意図的に見た目を変えるケースも散見される。


 だから、外見の印象によってその人物の性格や経歴を決めつけるのは危険である、という忠告は概ね正しい。ただし、これは見た目に限らず言動でも同様である、という前提がつく。つまり、「言っていることと、やっている事が違う」というパターンだ。


 たとえば、口では「やります」と言っているのに、実際には仕事に全く手をつけていないなど、我々はしばしば言行が不一致な人物に振り回されることがある。こうした人物に警戒することも、「人を見た目で判断するな」と類似の意図がある。


 ところが、ミスコンテストに対する批判は、こうした常識的な考え方とは一線を画す。見た目で人間を判断するという、価値基準自体が悪だという前提なのだ。これをルッキズムと呼称する場合もある。


 例えば『ミスコンテストの歴史的考察』(後安裕子)という論文には、


今の日本で行われているミスコンは知性や内面の美を含めた評価を行っている、というが、水着審査、3サイズの評価をする点から見ても女性の容姿を評価し、メディアが求める商品としての女性を集めているといえるだろう。


 という一文がある。この文章は、


(1)内面を含めた評価をしていると言うが、容姿(つまり見た目)を評価している。

(2)その目的が、メディアが求める商品としての女性である。


 という2点が批判対象になっているのだが、いずれもその根拠は明示されていない。


 まず(1)だが、そもそも女性を評価すること自体が駄目ならば、内面での評価も批判対象にすべきであって、このような文章構成にはならない。この文章の筆者は、まずある対象(この場合は女性)を内面(見えないもの)と容姿(見えるもの)に分けるという考え方を自明のものとして受け入れた上で、見えるものを評価するという価値基準そのものを批判したいのだ。


 これは、私のように世界を見えるもの・見えないものに「分けない」人間からすると、理解できない価値基準である。見えるものを評価の対象にすることが、忌避すべきであることが理解できないのはもちろんのこと、見えないものの方が見えるものよりも価値がある(あるいは、見えないものは評価の対象としても構わない)、という考え方はもっと理解できない。


 このような「見えないもの」を重視する考え方を、私は『星の王子さま基準』と呼称している。これは、アントワーヌ・ド・サン=テグジュペリの小説『星の王子さま』(原題はLe Petit Prince)に出てくる有名な台詞〝Le plus important est invisible〟(最も重要なのは目に見えないことです)をからかったものだ。


 何度も執拗に書くが、まずある対象を目に見える・見えないで分けるという考えを自明にするのはおかしい。それは、認識と視覚のアレゴリーを同一視していなければ生じない価値基準だ。


 更に、見えないものを見えるものよりも重視するのは、もっとおかしい。それは、見えないもの(あるいは、隠されているもの)の方が、見えるものよりも世界にとって決定的である、という前提無しでは成立しない。

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