第2話 認識の定義

 このため、決定論について記述してあるウィキペディアのページでは、完全決定論と確率決定論は違うなどの説明がされているが、苦しい言い訳だろう。論理学の原理である無矛盾律(別項で説明)に従えば、世界が決定的か・決定的ではないかはいずれかであり、両立はしない。


 そして、量子力学によって決定論では説明できない現象が提示された以上、世界は決定論的では無いと結論づけるしか無い。すると、決定論的な理論と非決定論的な理論が同居するためには、世界に対して異なる定義付けをする必要がある。


 その経緯はややこしいので省略するが、現在では決定論的な事象は「規則性のある事象」で、非決定的な事象は「規則性の無い事象」だという分類がなされている。これなら、未来予知が可能か・可能ではないかという論争に発展しないからだ。


 例えば、規則性のある事象であれば未来予測は可能だが、規則性の無い事象を扱う場合、未来予測をする事は不可能だ、ということだ。こうして、世界のあり方を説明するのに「規則性がある・無い」という基準が設けられるようになった。


 また、これに伴い認識の定義付けも変化した。決定論的な事象=規則性のある事象、なのだから、認識とは「規則性の把握」ということになる。そして、ある対象の規則性を把握することが認識であるならば、それを五感と紐付けする必要は消える。


 つまり、数学のような五感では捉えられない概念を「認識する」ことが可能な理由が正しく説明できるようになった。また、これに伴い認識と視覚が混同され、ただの比喩がまるで真実であるかのように誤解されることもなくなった。


 そして世界が「規則性のある事象・無い事象」で構成され、これを認識によって「規則性を把握できる・できない」のであれば、その場合分けは4通りになるため、観察者問題も解決した。


 具体的には


(A)「規則性のある事象の規則性を把握できる」


(B)「規則性のある事象の規則性を把握できない」


(C)「規則性の無い事象の規則性を把握できる」


(D)「規則性の無い事象の規則性を把握できない」


の4通りだ。


 この場合分けであれば、従来の決定論的な世界認識では不可能だった、(C)「規則性の無い事象の規則性を把握できる」、すなわち規則性がない事象に対して、まるで規則性があるかのように誤認してしまうケースと、(D)「規則性の無い事象の規則性を把握できない」事象を個別の場合として分けて考えることができる。


 そして、世界と観察者に関する考察は、これがゴールで先は無い。恐らく、何千年も行われてきた「世界をどう認識すべきなのか?」という問いかけは、ここまでコンパクトな回答に辿り着いたわけだが、繰り返しになるが、これは視覚を代表とする五感と認識を切り離せたことが大きい。


 つまり、これを裏返すと、

(1)五感、特に視覚と認識が切り離せない

(2)決定論に固執する

が疑似理論を無批判に受容してしまう重要な要素ということになる。


 まず、視覚と認識を切り離して考えられなければ、世界は「見える」ものと「見えないもの、あるいは隠れている、あるいは隠されている」ものに分かれていると解釈してしまう。この考え方は、視覚を基準に世界を分類するのであれば間違っていない点が厄介だ。


 問題なのは、認識と視覚を同一、あるいは類似の概念として把握していることで、この間違った考え方を捨て去らない限り「世界には見えない部分がある」とか、あるいは「見えない何かが隠れている」という考え方を認識論と同一視してしまう。


 次に決定論だが、これに固執すると「規則性の無い事象は認識できない」という当たり前のことを認識できなくなる。規則性が無いということは、規則性を把握(これが認識である)し、そこから予測を立てることが出来ないのとイコールなのだが、決定論を自明としてしまうと、予測が立てられない事象がある、という事実が理解できなくなる。


 そして、予測できない事象があるのが解らないと、それらを扱った理論体系も理解できなくなる。具体的には確率のことだ。確率とは、ある事象の起こることが期待される割合を指す単語で、概ね%として表記される。また、確率が 100%の場合は、必ず起きる=決定的な事象であると言える。


 これを裏返すと、確率が100%でない限り、それは非決定的な事象を扱っているわけだから、完全な予測は成り立たないと言うこともである。例えば、立方体のそれぞれの面に1から6の数字が書かれている道具、いわゆる6面体のサイコロを想像して欲しい。


 このサイコロを振って、1から6のどの目が出るかは、サイコロに何らかの仕掛けをしない限りは、おおよそ6分の1の確率になるはずである。これは、言い方を変えると、サイコロを振るまでは1から6までの、どの数になるかは判らない=非決定的な事象である、ということでもある。


 ところが、確率の概念を決定論的に把握してしまうと、これが「サイコロを振れば、1から6のいずれかの数が出る」と了解してしまう。非常に厄介なことに、この把握の仕方も間違いだとは言えない。しかし、この理解の仕方ではサイコロを振るまで、1から6のどの数が出るかは「判らない」=非決定的である、という非常に重要な点が抜け落ちてしまう。


 以上のように、認識を視覚と同一視、あるいは類似の概念と誤認すること、決定論しか理解できないこと、という2つの要素が組み合わさった結果が決定論的世界観であり、その部分集合が陰謀論、ということになる。

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